アジアのお坊さん 番外編

アジアのお坊さん 番外編

旅とアジアと仏教の三題噺

十代の頃、ご多分に漏れず、神とは何か、宇宙とは何かといったことばかり考えて、学生服を着たまま学校をサボってとある大教会の礼拝堂を訪ねてみたら、偶然何かの儀式が行われていて、恐る恐る勝手に参列していると、神父さんが声を掛けて下さり、それからしばらくの間、時折りその教会を訪ねては信者の若い方たちの集まりで色々質問をさせて頂いたり討論をさせてもらったことがある。

 

結局、何かの組織に属して活動することが性に合わなかったのか、 段々と足が遠のき、仏教や神話や伝説に興味を持つようになって神社仏閣を訪ね歩き、お坊さんになりたいと思ったけれど、先ずは大学で神道学を専攻した後に出家した。

 

そして、比叡山で規定の修行を終えた後に托鉢行脚の旅に出て、最後に伊勢街道を歩いて伊勢の神宮まで僧体でお参りしたことがある。

 

ところで今でもキリスト教というのは面白くて素晴らしい宗教だと思うのだけれど、その話はまた改めることにして、さて、先日、たまたま案内してくれる方があって、関西でも屈指の規模を誇る上記の教会の礼拝堂を何十年かぶりに訪れた。その時に隣接する神社にもお参りし、境内に建つ伊勢参詣講の碑を、これも久々に訪れた。

 

十代の頃の疑問も迷いもいくらかは解けて、あの頃よりは随分心穏やかでいられることを、有難く思う。

 

 

 

               おしまい。

 

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奇術の歴史を解説した本にはエジプトやギリシャにおける「カップと玉」の奇術の話と並んで、インドの「ヒンドゥー・ロープ」の話がよく出てくる。

 

それは14世紀にイブン・バトゥータという旅行家がインドを旅した時に見た魔術で、空中に舞い上がったロープを伝って人間が蜘蛛の中までよじ登って行くというものだが、子供向けの手品の本にはこの魔術のトリックが図解入りで解説してあることも多かった。

 

ただし、本当にその種明かしが正解なのかは定かではなく、そもそもこの魔術を見たというイブン・バトゥータの記述が真実なのかどうかすらが不確かだ。

 

とりあえずインドが神秘と魔法の国だというイメージは明治以降の日本人にも濃厚だったようで、谷崎潤一郎の「ハッサン・カンの妖術」や芥川龍之介の「魔術」や「アグニの神」といった小説にも、そのイメージはよく表れている。

 

さて、私が子供の時に持っていた古い手品の本に、インド大魔法団を率いるP.C.ソーカーというインド人奇術師が、インドの奇術というものはヨガを始めとする驚異的な神秘の歴史を持つインドならではのマジックだと語っている談話が載っていた。

 

さしずめこれはオリエンタリズムを売り物にした日本人奇術師が、私の奇術は Zen の極意にも通じるものだなどと言っている程度のリップ・サービスだったのかも知れないが、この魔術団の活躍はインドが神秘の国であるという印象を、昭和の日本人たちに植え付けるのに一役買ったのではないかと想像する。

 

さて、インドでは奇術のことを「ジャドゥー」と言うが、これは英語の「マジック」と同じく、「魔法」のことも、近代芸能としての「奇術」のことも同時に指す言葉であって、ついでに言うと呪術のことはヒンディー語で「カラー・ジャドゥー」(黒い魔術)と言うから、これも英語の Black magic と軌を一にする。

 

大道で手品を見せながらインドを旅した日本人旅行者の方が、インド人に手品のことを「ジャドゥー」だと言ったら、そんな物は「ジャドゥー」じゃない、「ジャドゥー」というのはもっと禍々しい何かだ、みたいな反応をされたというブログ記事を読んだことがある。

 

そんな反応をするインド人もいるかも知れないが、「ジャドゥー」が手品をも意味するヒンディー語だということは子供でも知っていることなので、そんなに神経質にこの言葉を使う必要はないと私は思う。

 

私がインドで子供たちに手品を見せたら、彼らは「おー、ジャドゥー! ジャドゥー! もう一度やって! もう一度!」と目を輝かせたものだ。

 

ブッダガヤの日本寺のスタッフたちですら、大のおとなでありながら、「おー、ジャドゥー! センセイ、もう1回お願いします!」とやっぱり喜んでくれたから、私にとっての「ジャドゥー」は、Black とは対極の印象だ。

 

 

 

                      おしまい。

 

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先日、知り合いの天台宗のお坊さんが、僧侶派遣会社からの依頼で仏壇の「閉眼供養」を頼まれたけれど、そんな言い方は存在するのでしょうか? と私に尋ねて来られたので、本来、仏教にはない言葉ですが、葬儀業界・仏壇仏具屋業界で使用され出した言葉のようで、それがインターネット上に蔓延している現況ですと、お答えしておいた。

 

俗に言う「お性根(しょうね)抜き」(地方によっては「精(しょう)抜き」「魂抜き」とも言う)のことを、仏教では「撥遣(はっけん)作法」と称するのが正式だ。

 

お性根を入れることは「開眼(かいげん)作法」と呼ぶので、「撥遣」が一般に分かりにくいために「閉眼」という言葉を勝手に造ったのかも知れないが、それをわざわざ「へいげん」ではなく「へいがん」と読む、などと書いているサイトもあったりして、どちらにしても仏教辞典には載っていない造語なのにと、私は秘かに思っている。

 

さらに言えば私は、開眼作法や撥遣作法というものは仏教に則って位牌や仏壇や墓石を扱っています、他の考えや信仰によったり、自己流のママゴトで行っているのではありませんという敬意を表するための作法であると合理的に解釈しているのだが、無論これは異端の考えであって、お坊さま方にお聞きすると、もちろん位牌なら位牌に「お性根を入れる」「精を込める」「御魂(みたま)を入れる」つもりで作法を行っていますと答える方が多い。

 

ちなみに浄土真宗だけは違った考え方をされるはずなので、以前に知り合いの真宗のご住職にそのことを確認させて頂いたことがある。差し障りがあるといけないと思って、その時はブログの記事にしなかったのだが、この際だから要略だけ記させて頂くことにする。

 

 

・真宗では阿弥陀仏を本山からお迎えするので「開眼供養」という言葉は使わない。

・しかし、実際の現場では「入仏式」という形でのお勤めが行われる場合もある。

・その場合でも本山からお迎えした本尊であることが絶対条件だが、必ずしも100%遵守されているかどうかは定かではない。

・それはさて置き、仏像というものは「方便」なのであり、阿弥陀仏は色も形も超越した存在であるのが本旨なので、仏像や絵像よりも漢字の阿弥陀仏が本尊としては一層望ましい。

 

 

必ずしもインターネットで「浄土真宗の開眼供養」を検索したら出て来る、葬儀屋さんや仏具屋さんが書いておられる説明と微妙に同じでないことが分かって頂けるだろうか? 上記の回答はとても合理的で、かつ教義や信仰とも食い違わない考え方であると私は思うのですが、如何でしょうか?

 

 

 

 

                おしまい。

 

 

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被害者の死体が、実は加害者だと思われていた人物の遺体だった、死体の顔を認識できないほど傷つけておいて、被害者と加害者が入れ替わるというのが探偵小説における「顔のない死体」トリックで、江戸川乱歩は「顔のない死体」という随筆の中で、このトリックの起源について考察している。

 

ミステリとしての起源はポオと同時代に活躍したディケンズの「バーナビー・ラッジ」であるとし、文学作品においては紀元前のギリシャの例を二つと中国宋代の例を一つ挙げている。

 

日本文学では「源平盛衰記」巻20の「公藤介自害の事」を乱歩は挙げているだけだが、それ以外で私が気付いた作品が二つあり、一つは文楽や歌舞伎でお馴染みの「一谷嫩軍記」(いちのたにふたばぐんき)の熊谷直実とその息子・小次郎のエピソード、もう一つは同じく江戸時代の作品である「菅原伝授手習鑑」の「寺子屋の段」の内の、菅秀才(道真の息子)の首改めのシーン(首実検の首を偽物とすり替えるという趣向)だ。

 

そしてこの程、たまたま四世鶴屋南北の「東海道四谷怪談」を読んでいたら、「浅草裏田圃(たんぼ)の段」に、与茂七と庄三郎が衣装を取り換えた後に片方が殺され、しかも身元が割れないように犯人が死体の顔の皮を剥いだため、死者の身元が取り違えられるという場面があることに気づいた。

 

この話は最も「顔のない死体」トリックの趣旨に近く、西鶴はじめ江戸時代の文学を含む古典作品に造詣が深かった乱歩がこのエピソードに触れていないのが不思議なくらいだ。

 

ちなみに乱歩は古事記、日本書紀、今昔物語、古今著聞集などに「顔のない死体」に関する話がありそうだがまだ確かめていないと書いているので、今昔物語集の本朝仏法部・本朝世俗部の両方を読み返してみたところ、このトリックの類話はないようだった。 

 

では、以下にこのトリックを扱った有名ミステリ作品を挙げておく。

 

エラリー・クイーン「エジプト十字架の秘密」

クレイトン・ロースン「首のない女」

江戸川乱歩「石榴」

横溝正史「黒猫亭事件」

高木彬光「刺青殺人事件」

笠井潔「バイバイ、エンジェル」

大山誠一郎「顔のない死体はなぜ顔がないのか」

 

以上の内の「バイバイ、エンジェル」には、探偵役の矢吹駆が首切り死体の現象学的考察として「顔のない死体」トリックや首切りに関する人類学的・哲学的・探偵小説的分析を披露する場面があって面白い。ちなみに笠井氏の矢吹シリーズ第作「煉獄の時」も顔のない死体トリックがテーマだが、「バイバイ、エンジェル」ほどの魅力はない。

 

さて、2024年の作品で、このトリックを扱って出色の出来だと評判の「失われた貌」(櫻田智也著・新潮社・発行)を、やっと読んでみた。

 

その結果は意外にも全く面白くなく、顔のない死体トリックのバリエーションとしても平凡で、到底、上記の名作リストには入れられない出来だった。

 

ついでに言うと、「顔のない死体」テーマの作品ではないが、最近の日本ミステリ作品に関して言うと、先日読んだ「さよならジャバウォック」もそうだったけれど、どれだけ書評で「どんでん返し」「伏線の回収」「驚くべき物語」などと褒められていても私の肌には合わない作品が多い。

 

「探偵小説が文学であるかどうか」という乱歩以来のテーマに関して、私自身はミステリとして面白ければ文学性にはこだわらない方なのだけれど、今挙げた、最近読んだ二つの作品はミステリとしても小説としても読み物としても面白くなく、文章も決して上手とは言えなくて期待外れだったのが残念だ。

 

 

                                                                     おしまい。 

 

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諸物価高騰の折柄、地元の人だけでなく、旅行者にもお馴染みであるバンコクのチャオプラヤー河やセンセーブ運河の乗合船の運賃が上がったというニュースを耳にした。

 

「バンコクの好奇心」(前川健一著)の「道路と運河」の項には、センセーブ運河がいつ誰によって開かれたかが載っていて、「東南アジアを知る事典」(平凡社)の「クローン」の項と併せて読むと、バンコクの運河の歴史がよくわかる。

 

 

 

人工の丘の上に仏塔が建つワット・サケット寺院が発着点のセン・セーブ運河だが、昔は上の絵葉書の如く、のどかな水郷風景だったようだ。今ではドブ臭くて汚い運河なのだが、私はその匂いも含めてバンコクの運河が何より好きだ。

 

 

 

       私が修行させて頂いたワット・パクナム寺院から望むバンコク・ヤイ運河。

            パクナム寺とバンコク中心部を結ぶ路線の乗合ボートは廃止されました。

 

     

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