被害者の死体が、実は加害者だと思われていた人物の遺体だった、死体の顔を認識できないほど傷つけておいて、被害者と加害者が入れ替わるというのが探偵小説における「顔のない死体」トリックで、江戸川乱歩は「顔のない死体」という随筆の中で、このトリックの起源について考察している。
ミステリとしての起源はポオと同時代に活躍したディケンズの「バーナビー・ラッジ」であるとし、文学作品においては紀元前のギリシャの例を二つと中国宋代の例を一つ挙げている。
日本文学では「源平盛衰記」巻20の「公藤介自害の事」を乱歩は挙げているだけだが、それ以外で私が気付いた作品が二つあり、一つは文楽や歌舞伎でお馴染みの「一谷嫩軍記」(いちのたにふたばぐんき)の熊谷直実とその息子・小次郎のエピソード、もう一つは同じく江戸時代の作品である「菅原伝授手習鑑」の「寺子屋の段」の内の、菅秀才(道真の息子)の首改めのシーン(首実検の首を偽物とすり替えるという趣向)だ。
そしてこの程、たまたま四世鶴屋南北の「東海道四谷怪談」を読んでいたら、「浅草裏田圃(たんぼ)の段」に、与茂七と庄三郎が衣装を取り換えた後に片方が殺され、しかも身元が割れないように犯人が死体の顔の皮を剥いだため、死者の身元が取り違えられるという場面があることに気づいた。
この話は最も「顔のない死体」トリックの趣旨に近く、西鶴はじめ江戸時代の文学を含む古典作品に造詣が深かった乱歩がこのエピソードに触れていないのが不思議なくらいだ。
ちなみに乱歩は古事記、日本書紀、今昔物語、古今著聞集などに「顔のない死体」に関する話がありそうだがまだ確かめていないと書いているので、今昔物語集の本朝仏法部・本朝世俗部の両方を読み返してみたところ、このトリックの類話はないようだった。
では、以下にこのトリックを扱った有名ミステリ作品を挙げておく。
エラリー・クイーン「エジプト十字架の秘密」
クレイトン・ロースン「首のない女」
江戸川乱歩「石榴」
横溝正史「黒猫亭事件」
高木彬光「刺青殺人事件」
笠井潔「バイバイ、エンジェル」
大山誠一郎「顔のない死体はなぜ顔がないのか」
以上の内の「バイバイ、エンジェル」には、探偵役の矢吹駆が首切り死体の現象学的考察として「顔のない死体」トリックや首切りに関する人類学的・哲学的・探偵小説的分析を披露する場面があって面白い。ちなみに笠井氏の矢吹シリーズ第作「煉獄の時」も顔のない死体トリックがテーマだが、「バイバイ、エンジェル」ほどの魅力はない。
さて、2024年の作品で、このトリックを扱って出色の出来だと評判の「失われた貌」(櫻田智也著・新潮社・発行)を、やっと読んでみた。
その結果は意外にも全く面白くなく、顔のない死体トリックのバリエーションとしても平凡で、到底、上記の名作リストには入れられない出来だった。
ついでに言うと、「顔のない死体」テーマの作品ではないが、最近の日本ミステリ作品に関して言うと、先日読んだ「さよならジャバウォック」もそうだったけれど、どれだけ書評で「どんでん返し」「伏線の回収」「驚くべき物語」などと褒められていても私の肌には合わない作品が多い。
「探偵小説が文学であるかどうか」という乱歩以来のテーマに関して、私自身はミステリとして面白ければ文学性にはこだわらない方なのだけれど、今挙げた、最近読んだ二つの作品はミステリとしても小説としても読み物としても面白くなく、文章も決して上手とは言えなくて期待外れだったのが残念だ。

おしまい。
※「ホームページ アジアのお坊さん 本編」もご覧ください。