アジアのお説教 | アジアのお坊さん 番外編

アジアのお坊さん 番外編

旅とアジアと仏教の三題噺

仏教の法話のことを英語で「sermon」というのだが、それは「説教」を表すキリスト教英語の援用であり、英語には他に説教することを表す「preach」という動詞もあるけれど、実際の海外仏教寺院での英語の法話はもっと単純に「Dhamma talk」と呼ばれることが多い。

 

ちなみに、インドのブッダガヤ日本寺の駐在主任だった三橋ヴィプラティッサ比丘が、坐禅をしに来た外国人旅行者たちに法話をする時も「Damma talk」という言葉を使っておられたものだ。

 

ところで、タイで法要などの後に法話を行う時に、比丘(僧侶)が顔を隠して説法するための、ターラパットという団扇状の仏具については以前にも書かせて頂いているが、仏法というものは比丘個人からではなく、ブッダから直接受け取るものだから、僧侶の姿や形に執着させないためにターラパットで顔を覆って法話をするのだそうだ。

 

さて、タイなどのテーラワ-ダ仏教では、お坊さんはターラパットで顔を覆いつつ、壇上から決まりきった型通りの説法を行い、信者はそれをただ合掌して聞いているだけのことが多いと思われがちだけれど、その分、日本よりもずっと気軽に信者は普段から僧侶を訪ねて個人的な相談に乗ってもらっているし、また、テーラワーダ仏教国のお坊さんたちは、日本の僧侶と比べて遥かに仏法に基づいた相手が納得する答えを信者に与えている。

 

また、最近ではSNSなどを通じて多方面・多方向に向けて法を説く僧侶も増えていて、何年か前にタイでそうした比丘のお説教が人気を博したものの、余りに面白おかしく仏法を説いたために(日本の新聞の特集で、もう一人の僧侶との掛け合いが「まるで漫才さながら」だと報じられたこともある)各方面から批判され、そのせいだけではないのかも知れないが、現在、そのお坊さんは還俗してお寺を出、一般人として独自の活動を行っておられるのだそうだ。

 

とは言え、日本の昔の「説教」は、今のような型にはまった法話ではなく、涙あり笑いありの話芸であったそうだから、先のタイのお坊さんの説法の是非も、微妙なところではあると思う。

 

などと偉そうに書かせて頂いているが、実は子供の頃から愛読している桂米朝師の名著「落語と私」の中の落語の発生を説いた件りに、落語のルーツはお寺の説教であり、興味のある方は是非「説教と話芸」(関山和夫・著)という本を読むことをお勧めしますと書いてあるのが、お坊さんになった後に読む返す度、ずっと気になっていて、今回、初めて「説教と話芸」を図書館で借りて来て読んでいるところなので、こんな話を書かせて頂いている次第。

 

 

                 おしまい。

 

 

※三橋ヴィプラティッサ比丘が日本語に訳された、

タイの高僧・プッタタート比丘の著書「観息正念」を、

「ホームページ アジアのお坊さん本編」に添付しています。