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アジアのお坊さん 番外編

旅とアジアと仏教の三題噺

インドのブッダガヤで5月に行われたブッダ・ジャヤンティの法要に日本寺駐在同期のS師を始め、知り合いのお坊さまたちが何人か参列されたのだが、そのお写真を拝見したら、隣山のお坊さんらしき見知らぬ日本人尼僧の方が網代笠を手にして立っておられた。ああ、分かる分かる、そのお気持ちはよく分かると思って、こうして筆を執っている。

 

かく言う私もタイでテーラワーダ修行させて頂いた後に日本に帰国し、四国八十八か所を托鉢行脚したものだから、その後、ブッダガヤ日本寺に赴任した時は、托鉢修行証や錫杖を携えて渡印したものだ。

 

錫杖は得度したての日本人僧侶の方がインド巡礼のために一人で日本寺を訪ねて来た時に差し上げたのだが、托鉢修行証はリュックに付けたままだったところ、却って変だから止めた方がいいですよとS師が指摘してくれたので、そこではたと目が覚めた。

 

故・瀬戸内寂聴師などもインド旅行の際はよく網代笠を被った行脚スタイルでいらっしゃったが、そのお気持ちはよく分かるものの、本来、日除けの意味もあるはずの網代笠が、インドの気候では却って暑くて邪魔ではないかと懸念する。

 

さて、再び私事ながら、インドから帰国した後は小豆島八十八か所を巡礼したのだが、その時は、

 

 杖と笠 捨ててぞ晴れて 無一物

 

と洒落てみて、網代笠は持たず、草鞋も履かず脚絆も付けず、現地で拾った木の枝を杖の代わりにしたものだが、しかしまた、余り基本を崩し過ぎるのも良くないのではと、今の私は思ってみたりもする。

 

いずれにしても、本当に日本で托鉢行脚の旅をするならば、手がふさがらないように網代笠を被った方が日除け雨除けには良いけれど、タイやインドの灼熱の中で日を除けるのならば、日傘で気軽に歩くのが一番だと思うので、今の私はアジア巡礼の道中に網代笠を持ち歩こうとは思わない、思わないけれど、インドで網代笠を手にする日本人のお坊さんのお姿を拝見して、とても懐かしい気持ちになったので、こうして筆を執らせて頂いた次第です。

 

 

 

                                        おしまい。 

 

※上の画像は先日、投稿させて頂いた「恵心僧都絵詞伝」の網代笠を被った行脚僧。

下の2つの画像はテーラワーダ仏教のお坊さんが日傘を差すタイとスリランカの絵葉書。

 

 

 

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ビル・S・バリンジャーの「歯と爪」というミステリ作品は、奇術師が主人公であるところが私には魅力で、子供の頃から何度も読み返している。

 

2010年に創元推理文庫から新装版が出て以降もずっと読み続けているのだが、それ以外のバリンジャー作品は、これも当時にハヤカワ文庫から出ていた「消された時間」(現在は絶版)を読んだだけだったので、先日創元推理文庫の「煙で描いた肖像画」を初めて読んでみたところ、とても面白かった。

 

そこでふと、「歯と爪」新装版の解説に「北村薫氏の『歯と爪』論を真摯に受け止めて、出版の体裁を見直すことにした」みたいなことが書いてあるのが以前から気になっていたことを思い出し、調べてみた結果、北村氏の「ミステリ十二か月」という随筆集にたどり着いたので読んでみた。

 

技巧派だと見なされるバリンジャー作品は、決して意外性を重視した作風なのではなく、物語の仕掛け、緻密な構成によって人間の哀しさを描くストーリーテリングにこそ本領がある、だから「最後の1ページの大トリック」という惹句を前面に押し出した創元推理文庫・旧版の「歯と爪」の体裁には問題があったという北村氏の説は、非常によく納得できた。

 

以下、時系列で整理してみると…

 

2002年 「煙で描いた肖像画」刊行

2004年 「ミステリ十二か月」(北村薫・著)刊行

2010年 「歯と爪」新装版 刊行(上記、北村氏の意見も参考に体裁を一新)

2024年 「煙で描いた肖像画」復刊(解説に新情報なども含む)

 

…ということになる。

 

北村氏のバリンジャー論は「歯と爪」に関する詳しい考察や「赤毛の男の妻」についてのことなども含めて大変面白かったけれど、もっともっと詳しくさらに細部を掘り下げてほしいというのが正直な感想だ。「歯と爪」のプロローグの「彼の姓はあとになってから1度だけ重要な意味を持つことになる」という文章の解釈なども、是非お願いしたいと思う。

 

                   おしまい。

 

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天台宗発行の「源信さん」という書籍は、「恵心僧都絵詞伝」の絵本化なのだが、その中に上記のような旅僧が描かれている。本編とは何の関係もない通行人の役なのだけれど、旅姿をはっきりと描いたお坊さんの図は意外と少ないので、記録のために掲げておく。

 

ちなみにこのブログでいつも使わせて頂いているの下の図は「南都名所集」からの借用だ。

 

 

 

どちらも手荷物を風呂敷状の布にくるんで背中に担いでいるのがリアルだと思う。

 

                                        おしまい。

 

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「はちすは(蓮葉)の にごりにしまぬ(濁りに染まぬ) 露の身は ただそのままの 真如実相

 ー 一休和尚法語 より

 

 

 

※「真如」 

パーリ語 「tathatā」 「実相」、「法性」などの同義語とされる。 

 

 

 

「仏所成就 第一希有 難解之法 唯仏与仏 乃能究尽 諸法実相 所謂諸法 如是相 如是性 如是体 如是力 如是作 如是因 如是縁 如是果 如是報 如是本末究竟等」

「仏の成就せる所は、第一の希有なる難解の法にして、ただ、仏と仏とのみ、乃ち能く諸法の実相を究め尽くせばなり」

 ー 法華経 方便品 第二 より 「十如是」

 

 

「あなたが亡くなればこの寺は終わりなのでしょうな」

「そんなことまったく気にしていません」

「そうですな。タタター(あるがまま)ですからね」

 ー 三橋ヴィプラティッサ比丘邦訳「観息正念」書籍版あとがき 

三橋師が翻訳作業を行ったペナンのお寺の住職と三橋師との会話より

 

 

「事物すべてを「あるがまま(タタター)」に知る。

宇宙の一切を貫く究極の真理が、結局は、ただ「あるがまま」であるのに驚かれるかも知れない。

すべて事物が 「ただ、こんなふうに・ちょうど、そのような」ということなのだ」

 ー プッタタート比丘著・三橋ヴィプラティッサ比丘邦訳「観息正念」PDF版 20頁 より

 

 

タタター(真如):全てのことは、実相、ありのままでそのようになっていることを知ること。」

全ての真理は煎じ詰めると、典型的なありふれた言葉、「ありのままでそう起こっている」となります」

 ー 「観息正念」の浦崎雅代・星飛雄馬による別訳「呼吸によるマインドフルネス」(サンガ文庫・絶版)63頁 上記三橋訳と同じ箇所より

 

 

 

 

 

※「観息正念」PDF版は「ホームページ アジアのお坊さん 本編」に添付してあるので是非ご覧ください。

 

 

インドのブッダガヤにある印度山日本寺の図書館に、「らも咄」という文庫本が置いてあった。この図書館の在庫の内、仏教書、旅行書、アジア関係の本以外の読み物や小説などは、おそらく以前の駐在僧や日本人個人旅行者が置いて行ったものだと思うのだけれど、何気なく読んだ中島らもの新作落語集を手にした私は、その面白さにいたく感動したものだ。

 

当時の駐在主任であった三橋ヴィプラティッサ比丘が「らもは天才ですよ」と仰っていたのも懐かしいのだが、さて、何気なく読み始めた私は、そうか、こんな風に書けば何でも落語で表現できるんだと感じ入り、「日本人旅行者気質」とか「ずくねん寺」といった拙い創作落語を、その頃、日本寺の僧坊で空いた時間に書いてみたりしたものだ。

 

先日、当時をよく知る同期のお坊さまがブッダガヤを訪れて、日本寺図書館などの最新事情を伝えて下さったためだろうか、ふとそんなことを思い出したので、図書館で「らも咄」を借りて来て読んだところ、やはり大変に面白かったので、ここに認めさせて頂いた次第です。

 

 

 

「インド旅行が実現したら、その道中を落語にしたいですね。『西の旅』の一節で『印度狐』いうて…」

 ー 「桂枝雀のらくご案内」 「七度狐」の解説より

 

 

 

 

                 おしまい。

 

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