アジアのお坊さん 番外編 -6ページ目

アジアのお坊さん 番外編

旅とアジアと仏教の三題噺

よくお手伝いに行くお寺に最近新しく入られた、それほど年配ではないくらいの年齢の女性職員の方が、「蚊は叩いてもいいんでしょうか?」と、私ではない在家の一般職員さんに尋ねておられた。

 

職員さんが困惑して、駄目ということでもないけれど、みたいに言葉を濁しておられる横から珍しく割り込んだ私は、えらい! そのお年でそんな質問をすること自体がえらい! と褒めさせて頂いた。

 

そしてついでに、私は蚊を叩かないけれど、ここは自分のお寺ではないので、そこまでなかなか職員の皆さまに指導できないんですということも、付け加えさせて頂いた。その職員さんに聞かせる意味合いも込めながら。

 

ちなみに、私がタイのお寺で修行していた時には、単純に蚊や他の虫を殺してはいけないと教えられた。蚊や蟻が体に登って来たら、虫を息で吹いたり、指で弾いたりして、やり過ごしたものだ。

 

タイのお寺に住んで間もなく、腕を這う蟻を弾き損ねて、殺してしまったことがある。何としても戒律を守らなければならないとあくせくしていた修行し始めの私が慌てていると、10才ぐらいの小僧さんが、わざとしたことでないのなら、拝んでおきなさい、合掌(ワイ)しておきなさいと言ってくれた。

 

だから、「蚊を叩いてもいいんでしょうか?」と聞いて下さったそのお気持ちは、とても大切なことだと思う。

 

 

 

                おしまい。

 

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先日、昔話について書かせて頂いたのは、今年「みんなのうた」で「やまんばマンボ」という歌が話題になっていて、「やまんばは里にいた昔を思い出している」という歌詞を聞いたので、お若い音楽家が作られた歌であるにも関わらず、山姥のことを山に生じた妖怪だとせずに、民俗学的見地に基づいて、山姥が山に入る前は里にいた人間の女だったという設定を踏まえていることに、興味を感じたからだった。

 

ちょうどその頃、ニュースで日本の深海探査機の名前が「うらしま」だと知り、そう言えば日本の月周回衛星は「かぐや」、原発が「もんじゅ」「ふげん」だということも思い出し、中国でも月面探査機が月の女神「嫦娥」、インドのロケットが火神「アグニ」、アメリカの宇宙探査計画が「2001年宇宙の旅」のディスカバリー号と同じ名前の「ディスカバリー計画」だということなども頭によぎり、昔話のことをあれこれ考え出した。

 

前回のブログにそのことを書き出すと、際限もなく文章が長くなると思ったので、今回の記事で補足させて頂きました。

 

 

                                                            おしまい。

 

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私が昔話に出て来る旅のお坊さんに憧れて僧侶になったというのは噓ではなくて、だから実際に得度して托鉢修行証を本山から受け、四国遍路を始めとする行脚の旅に出られた時には、本当に嬉しかった。

 

そして例えば「食わず梨」の伝説地を行脚中に通りかかり、旅僧に梨を乞われたにも関わらず、お接待を断った村では、その後、梨の実が成らなくなった、そのお坊さんは実は弘法大師だったというお馴染みの伝説を記した立札を見ては、ああ、きっとこんな経験をした托鉢僧が実際に何人もいたからこそ成立した伝説なのだろうと思ったりもした。

 

昔話や伝説というものには、きっと何らかの実際的体験が含まれていると思う次第で、「楢山節考」さながらに、長子相続絶対の時代には次男、三男の立場は弱く、さればこそ逆に末っ子だけが成功するような形式の類話も出来ただろうし、氷柱の女房や狐女房、鶴の恩返しといった伝説は、そうした淋しい兄弟たちの如実な空想であったかも知れない。

 

ところがいざ漸く嫁を娶ってみたら、その嫁は飯をよく食べ過ぎるとか奇妙な変わった癖があるとかということもまた、実際にあったに違いなく、そこで喰わず女房や屁こき嫁さまの話も出来たのだと思う。嫁に限らず、「馬鹿婿どの」の笑話なども、単なる笑話ではなくて、実際にそんな情けない婿もまた、大勢いたに違いない。

 

鼻が高く赤ら顔でもじゃもじゃ頭で大柄な鬼や天狗という妖怪の正体は日本に住み着いた西洋人だったかも知れず、浦島太郎は本当に気候風俗の違う南海の孤島に漂着したのかも知れない。

 

四国遍路の道中に「十夜ヶ橋」と言う名の、弘法大師が宿を断られたために橋の下で眠ったら、一夜が十夜に思えるほど寒くて辛かったという伝説に由来する霊跡がある。これもまた托鉢僧の実際の体験が基になっているのに違いないと、お接待で泊めて頂いたり野宿をしたりを繰り返しつつ満行した遍路の途中に、色々と考えたりしたものだ。

 

  宿借るも 貸すも貸さぬも 南無大師

 

 

 

                 おしまい。

 

 

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「仏法実践の一要件としては、自然にできるだけ近いところの住居に、自身を適応させるべき だ。そのような形で住むことが、自然との調和のなかで、仏法を理解し、実践するのを、よ り容易にさせてくれるのである。 そんな自然との一体の簡素な暮らしに満足するのはもちろん、楽しむことすらできるのだ。 これが、われわれの学習や、実践に役立ち、かつ、支えになる簡素な生活なのである」

 

 ー プッタタート比丘 「観息正念」PDF版24頁

 

 

「もし深山幽谷ならば途路険難にして人跡永く絶ゆ。誰か来たって悩乱せん。一水一菓をたのみ、松柏を食ろうて、もって精気をつぎ、思惟坐禅して、さらに余事に飢うることなし」

 

 ー 恵心僧都「止観坐禅記」

 

 

「おじいさんは山へ柴刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行きました」

 

  ー 日本昔話「桃太郎」

 

 

「おのずから住めば持戒のこの山は、まことなるかな依身より依所」

 

 ー 伝教大師最澄 御歌

 

 

 

 

               おしまい。


※「観息正念」は「ホームページ アジアのお坊さん本編」

トップページに添付しています。

 

 

 

「ホームページ アジアの東司…お寺のトイレ」を先日、更新させて頂いたばかりなのだが、美濃の小山観音を参拝させて頂いた折、本堂のお手洗いをお借りしたところ、画像のような妙心寺派のポスターをお見受けしたので、いずれこちらもホームページに追加したいと考えてます。

 

 

 

                                        おしまい。