アジアのお坊さん 番外編 -17ページ目

アジアのお坊さん 番外編

旅とアジアと仏教の三題噺

子供の頃、年長の男子が視聴者参加のクイズ番組に出演して、「夢を食べるとされている動物は何?」という問題に対し、「バク」と答えたものの、一瞬、司会者側に間があったために緊張したのか、「アメリカバク」と答え直したために、敢えなく不正解のブザーを鳴らされたのを、私は今でもよく覚えている。

 

変に余計な知識を口にして失敗してしまう例として、「獏が夢を食べる」という記述を目にする度に私は今でもこのことを思い出すのだが、さて、それはさて置き、獏が夢を食べるという伝説は、一体どこから生まれたものなのだろうか?

 

ちなみに中国の文献には元々、獏が夢を食べるという記述はなくて、おそらく獏が邪を退けるという中国の伝承が基となって、獏が夢を食べるという伝説が日本で生まれたのであろうということは wikipedia にも書いてあるが、荒木達雄氏の「中国古文献中のパンダ」という論文に参考文献として挙げられている、荒俣宏氏の「世界大博物図鑑 5 哺乳類編」には、その辺りの事情がさらに詳しく書かれている。

 

私としては先ず、中国の空想上の動物に関してならば「山海経」だろうと思って、平凡社文庫の「山海経」を見てみたところ、「獏」という項目がない代わりに、他の項目の文中に出て来る「獏」の文字に、日本語訳者が「(夢を食う獣)」と括弧書きで注釈しておられた。

 

それでは原文か注釈書にそのような記述があるのかと思って原文に当たってみたが、「夢を食べる」という記述はなかったので、仕方なくわざわざ大学図書館まで行って、「山海経箋疏」などの注釈書を調べてみたのだけれど、獏が夢を食べるという記述は見当たらなかった。

 

ところで、先ほども触れた「中国古文献中のパンダ」によれば、現在、中国語では「パンダ」を「熊猫」と表現するが、古い文献で「獏」と記述されていた動物も「パンダ」を指していた可能性が高い、但し「獏」という漢字は「パンダ」以外に「マレーバク」をも指していたであろうと思われる、とのことだった。

 

当時の中国大陸にマレーバクが生息していたか、もしくは東南アジアでマレーバクを見た人が「マレーバク」を「獏」として記述したのだろうということなのだが、それならば冒頭のクイズに回答した少年が、「アメリカバク」ではなく「マレーバク」と答えていたら、不正解にはならなかったのかも知れないと、ふと思った。

 

                 おしまい。

 

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天台大師智顗が著した摩訶止観の一節であり、本来ならば、天台宗の坐禅止観を行う時に坐禅の前に読み上げるべき「十非心(じっぴしん・じゅっぴしん)」について、インターネットで検索してみると、案外たくさんのサイトやお坊さんのブログが出て来たので驚いた。

 

私が得度して比叡山に上がる前に前行として小僧修行させて頂いたお寺では、毎週日曜日の朝に近所の人を集めて坐禅止観会が行われていたのだが、その時に小僧頭の方が朗々とした声で十非心を唱えることが、駆け出しの私には、とても格好良く映ったものだ。

 

その後、本山での加行や、順を追って履修すべき行階修行の時に、行院・居士林・延暦寺会館などで使用する、坐禅止観作法と食事作法が裏表に刷られた折本の小冊子を貰ったのだが、その坐禅次第には十非心の部分が括弧書きになっていて、「本文は別にあり。自らを省みて十種の非なる心を除くべし」といったことが記されているのみだ。

 

さらに最近に更新された新版の小冊子を他のお坊さんから見せてもらったら、十非心の項目そのものが省かれていたのだが、確かに私は小僧修行時以外に天台宗の坐禅会で十非心が実際に唱えられているのを見たことがない。

 

にも関わらず、今回、初めて十非心のことをインターネットで検索したら、天台宗や天台宗以外のお坊さんが、この十非心の大切さを説いたり語ったりされているブログやサイトがたくさん見つかったので驚いた次第だ。

 

それはともかく私としては、大蔵出版から出ている分厚いハードカバーの池田魯參師現代語訳の「摩訶止観」の十非心の部分と、小僧修行のお寺で使っていたコピーを貼り合わせた手作りの十非心の本文付き坐禅止観次第を久しぶりに併せて読み返しながら、今は自坊の跡を継いで立派なご住職になっておられる、当時の小僧頭の方の朗々としたお声を、懐かしく思い出している。

 

 

 

                  おしまい。

 

 

「ホームページ アジアの瞑想」

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子供の頃の愛読書だった松田道弘の「奇術のたのしみ」は、ちくま文庫に収められたこともあったが現在は絶版で、当時はちくま少年図書館というハードカバーの単行本シリーズの1冊だった。

 

同じ頃に図書館などで同じちくま少年図書館の1冊である水木しげるの「のんのんばあとオレ」という本が出ているのは何度も目にし、当時、パラパラとめくって拾い読みなどもしているのに、なぜかきちんと読んだことがなかった。

 

その後、十代の頃に水木しげるの代表作である鬼太郎漫画を全巻読み、そこに含まれた神話や民俗学の蘊蓄にも興味を持ち、お坊さんになってからも鬼太郎は読み続けたし、本山に上がる前にしばらく私の身柄を預かって下さった老僧の自坊でたまたまテレビドラマ版の「のんのんばあとオレ」の放映を見て、修行を終えて下山したら出雲や境港にも行ってみたいと思ったものだ。

 

にも関わらず、それから一度も「のんのんばあとオレ」を読むこともなく過ごして来たのだが、この度ふとそのことに思い至って図書館で借りて読んでみることにした。

 

ところが既に水木しげるの大人ものの随筆を何冊か読んでいる身としては、初めて読んだ「のんのんばあとオレ」が案外に面白くない。表題にもなっているのんのんばあや妖怪のことが全体からするとそれほどたくさん登場しないからということもあるのだが、ただ、以下に引用した部分だけは特に印象に残った。水木自身の作詞になるアニメ版鬼太郎の主題歌の歌詞は、ただの言葉の羅列ではなく、作者の心からの思いが込められているのだということが、よく理解できた。

 

「学校も落第、就職も落第、もうこれ以上落第するものはなにもないほどなのだが、オレはそれほどこたえなかった。虫やキツネや海草は、落第も及第も無くやっているし、人間だって、からださえ健康なら、どこだってくらせるとおもっていた。虫の生活に感心して「天昆童画集」をかいたほどだから、虫的気分になりがちだったのだろう。」

 

 

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・2023年7月に東京の寺院住職が霊園業者とのトラブルで練炭により殺害された事件の初公判が2024年11月に行われ、犯人が起訴内容を認めたとのこと。

 

・四国の天台宗寺院住職に得度させられた女性が、この住職から被害を受け、住職及び住職を女性に紹介した回峰行者の2名を懲戒処分にするよう、本山に訴えた。2024年11月、天台宗はこの二人の男性僧侶に対し、懲戒審理が相当という判断を示す。

 

・天台宗で得度した男性芸人が、公益財団法人全日本仏教会とよく似て非なる名称の仏教系一般社団法人の顧問に就任したとのニュースが2024年11月に報じられる。

 

以下、以前の記事も再録します。

 

 

 

2019年7月 京都市内の天台宗の有名観光寺院の役僧が、路上で女性に良からぬ行為を働き逮捕される。

 

2019年10月 大阪市阿倍野区の真言宗の有名寺院の住職一家が行方不明になり、寺が競売に掛けられた。

 

2021年4月 茨城県の日蓮宗寺院住職が、交通トラブルの相手をボンネットに乗せたまま車で逃走。

 

2023年6月 鳥取県内の僧侶が母親に暴力。

 

2023年7月 東京都の臨済宗寺院住職が他人の妻に横恋慕し、別れさせ屋を使って違法なことを画策。

 

2023年8月 栃木の臨済宗寺院住職が、坐禅に誘った女性の身体を警策(坐禅指導のための禅杖)で触って逮捕される。

 

2023年9月 京都市内の天台宗の有名観光寺院の役僧が、盗撮目的で女子トイレに入り逮捕。

 

2023年10月 東京の寺院住職が境内墓地の経営を委託した霊園業者とのトラブルで、その墓地の地下納骨堂で練炭により殺害される(事件そのものは7月に発生)。

 

2023年12月 岐阜県各務原市の真言宗系の寺院に勤める僧侶が大麻所持で逮捕される。

 

2023年12月 茨城県つくばみらい市の浄土宗寺院の僧侶が女性に対する暴行罪で逮捕される。住職の息子であるこの僧侶は以前から同様の余罪で問題を起こしていたとのこと。

 

2024年1月 四国の天台宗寺院住職が得度させた女性を長年に渡って心身共に支配。当該住職と住職を女性に紹介した回峰行者を懲戒処分にするよう、本山に訴える。

 

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                   おしまい。

 

 

インドの仏跡巡拝に来られた若い一人旅の曹洞宗のお坊さんに坐禅のことを色々聞いてみた。その方曰くに、自分の師匠は数息観で呼吸に意識を向けることすら禁じておりましたとのことで、ああ、噂に聞く「只管打坐」というのは本当なんだなあと感心した覚えがある。

 

さて、2018年に曹洞宗総合研究センターから発行された「只管打坐とマインドフルネスとの対話」という冊子は、日本テーラワーダ仏教協会のスマナサーラ師や曹洞宗内外で活躍中の藤田一照師らがパネリストを務めるシンポジウムの記録なのだが、坐禅とテーラワーダ仏教の瞑想、さらに昨今言うところの「マインドフルネス」について、それぞれの違いや特色、類似点を話し合われた内容で大変興味深い。

 

曹洞宗の坐禅の特色である「非思量」についての話などもあり、マインドフルネスの基となった仏教語の「sati」やヴィパッサナ瞑想は「只管打坐」よりも尚、「身心脱落」と共に語られるべきでは? といったことも書かれてある。

 

そうしたあれこれについて何かを述べるほどの器量を私は持ち合わせていないのだけれど、先日、カンポン・トーンブンヌム著「気づきの瞑想で得た苦しまない生き方」(プラユキ・ナラテボー師監訳・浦崎雅代氏日本語訳)を再読したら、なぜか「只管打坐とマインドフルネスとの対話」のことを思い出し、以下に「気づきの瞑想で得た苦しまない生き方」から印象に残った箇所を引用させて頂くことにした次第だ。

 

 

113頁「とりわけ思考はとても重要です。気づきを高める修行をする人にとっての宿敵です。とくに無自覚な思考は突然心に起こって来ます。」

114頁「このような思考が起こってきたときは、それを解決しようと考えこむ必要はありません。それに気づいたらすぐに手放して行けばいいだけです。」

134頁「しっかりと気づきを保っているとき、思考で心が占領されてしまうことはありません。」「思考そのものは自然の摂理に従ってただ起こってくるものだからです。」

135頁「思考そのものは、私たちがコントロールできないものなのです。」「それらの思考を観察対象とし、気づきをもって見つめていきましょう。」

186頁「重要なのは、思考にはまり込んでしまわないことです。」「湧き上がった思考に対して、それ以上、関わり合って複雑なものにしなければ、その思考はやがて消滅して行くでしょう。」

 ー「気づきの瞑想で得た苦しまない生き方」(浦崎雅代訳)より

 

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