引揚者名簿 ♬I Want to Know You(CityAlight) | ☆ Pingtung Archives ☆

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もとは(湾生の母にまつわる)戦前の台湾・屏東(Pingtung)や引揚げ、さらに2016年の屏東訪問の記録。今は思い付きの日記で、映画やドラマ、本、受験、犬、金融・経済、持病のIgGMGUSそして台湾とテーマは支離滅裂です。♬マークは音楽付き。

引揚者名簿を調べたくて、このブログで知り合ったいぶきさんに教えてもらった厚労省の担当部署に電話してみた。

 

電話したのは、厚生労働省援護局援護企画課中日残留邦人支援室

 

Pingtung「戦後の台湾からの引揚者名簿を探しているのですが」

担当者「引き揚げた方のご家族ですか?」

Pingtung「はい」

担当者「では、引き揚げた方のお名前をください」

Pingtung「一族で引き揚げたのですけど、当時15歳の私の母の名前でいいですか?それとも戸籍の筆頭者のほうが・・・」

担当者「お母さまでいいですよ」

Pingtung「〇〇〇〇です」

・・・しばらくキーボード操作の音

担当者「見当たりません」

Pingtung「それじゃあ、母の両親の名前を・・・」

・・・見つからず。

Pingtung「ではその父、私の曽祖父の名前を」

担当者「残念ですが、見当たりません」

Pingtung「台湾の高雄で引き揚げ船に乗って、広島の大竹港に引き揚げたらしいのですが」

担当者「ああ・・・。大竹港の引揚者名簿は全部なくなってるんです。舞鶴とか他の引揚港の名簿も半分以上がなくなりました」

Pingtung「ああ、そうですか・・・ありがとうございました」

 

大竹港に引き揚げた人たちの名簿はない、らしいえーん

母の記憶によると、母の家族が引き揚げたのは、終戦翌年の1946年(=昭和21年(民国35年)春ごろ。

屏東を引き払い高雄で引き揚げ船に乗った。[その時の様子は 引き揚げ船に乗る  引き揚げ船で 内地に到着 に記録] 

母たちを乗せた引き揚げ船は、高雄を出港しておそらく途中寄港せずに広島大竹港へ。当時は下図のように日本各地に散らばる引揚港に引揚者たちが続々と「帰国」したのだった。

 

(wikipediaより)

 

大竹には「引揚援護局」が設置されていた(wikipediaより)

 

けれど、どういうわけか、引揚者名簿は全消失。

小説のネタになりそうなシチュエーション。ほら、何かの事情で別人になりたい人が引揚者になりすます、とか(想像しすぎ?)。まあ、本籍地での戸籍登録とかもうひとステップあるから簡単じゃないかもしれないけど。

 

それにしても残念。母の家族が何月何日に大竹港に着いたってゆうのを知りたかった。