内地に到着 | ☆ Pingtung Archives ☆

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もとは(湾生の母にまつわる)戦前の台湾・屏東(Pingtung)や引揚げ、さらに2016年の屏東訪問の記録。今は思い付きの日記で、映画やドラマ、本、受験、犬、金融・経済、持病のIgGMGUSそして台湾とテーマは支離滅裂です。♬マークは音楽付き。

弟の生死も危ぶまれる航海だったが、母の一行はなんとか内地にたどり着いた。

祖父の実家は静岡県。本来そこを目指すところだが、母の一行はひとまず福岡県に向かっていた。産後の肥立ちの悪い祖母と乳飲み子である末の弟とともに、いったんは祖母の実家に身を寄せて態勢を整えてから静岡へ、という計画だった。西日本の引揚げ港の中で、福岡に行くのなら門司、博多、佐世保あたりが一番近いはず。けれども母たちは広島県の大竹港に上陸した。母は理由はわからないと言っているが、下の図を見るとそのあたりの事情が読めるような気がする。博多や佐世保には130万人を超す引揚者が満州、中国、朝鮮から押し寄せていて、受け入れ側のキャパを超えていたのではないだろうか。

(wikipediaより)

 

大竹には「引揚援護局」が設置されていた(wikipediaより)

大竹市歴史研究会の資料によると、

引揚船が入港すると同時に船内検疫、荷物の取調べが行われ、問題がなければ引揚者は上陸します。上陸後もすぐに陸上検疫(身体検査・予防注射等)が行われ、そこで入院を要すると判断された者は国立大竹病院に、その他の者は指定の収容施設(宿舎)に収容されました。
収容施設での収容期間は2日から一週間程度で、その間に引揚証明書、俸給などの給与や旅費、医療・日用品などの支給が行われ、所定の手続きが終われば大竹駅から国鉄の輸送計画による特別列車で帰郷していきます。
引揚所内は非常に混雑し、検疫その他の業務に従事する職員だけでも約1,000人(陸軍関係者400人、海軍関係者300人、厚生省関係者300人)を数えたといいます。
なお、引揚業務に要した食糧、衣服、毛布などの物資は食糧営団や旧軍需部から補給され、消毒薬、医薬品などは占領軍から支給を受けました。

 

母たちは、下船後、収容施設に随分長い間収容された。このころには頭にシラミがわいていたというガーン笑い泣き 14歳の少女だった母の記憶はこのあたり曖昧だ。なにせ、大竹港で長く収容されたあと、マラリアにかかった父親を布団にくるんで友達といっしょに運んだ、ということだけ。火事場の馬鹿力、だろうか。その後どうやって福岡に行ったかもあまり憶えてない。

マラリア。死の病だと思ってました。昔見た「愛と哀しみの果て」という映画でマラリアに苦しみながら人が死んでいくシーンがあるのです・・ 祖父の場合おそらく、入院するほどではないので他の人たちと同様収容施設に行けることになって、母はその収容施設まで祖父を運んだってことでしょうか。そこで回復するまで家族全員が待ったのかなあ、乳飲み子を連れて・・・本物の難民だ!祖父は、この時命をとりとめ、86年の生涯を全うした。

 

引揚げ船入港の風景 (朝鮮からの引揚げ船)

 

上記とよく似た現代の画像・・・2014年リビア沖 by マッシモ・セスティーニ

70年経っても人類そう変わってないってことですね。

 

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