二巻が昭和初期の右翼少年。
三巻が戦前・戦後のタイのお姫様の話。
四巻が昭和後期の本多の養子の話
四部作『豊饒の海』のあらすじ
この小説は、魂の輪廻転生を前提にしている。各巻の主人公はすべて異なっているが、彼らは転生者であり、実は同じ「人物」の反復である。彼らは皆、二十歳で死ぬ運命にあり、次巻で転生する。
この場合、輪廻転生する魂の同一性を保証する者が、二十歳で死んでしまう主人公とは別に必要になる。それが、副主人公の本多(ほんだ)繁邦(しげくに)であり、彼は全巻を通じて登場し、異なる主人公たちが同じ魂の転生であることを確認する。本多は、作品内の三島の分身だと考えてよいだろう。
第一巻の『春の雪』の主人公は、華族の令息、松枝(まつがえ)清顕(きよあき)である。本多は清顕と同じ歳で、二人は同級生。清顕は、幼馴染で二歳年上の綾倉聡子と激しい恋に落ちる。
聡子と宮家との間の結婚に勅許が降りるのだが、にもかかわらず、清顕と聡子は逢瀬を重ね、関係をもつ。その結果、妊娠した聡子は、密かに堕胎した上で、出家して、月修寺という寺に退いてしまう。清顕は月修寺に通いつめるが、聡子は絶対に会おうとしなかった。
第二巻『奔馬』の主人公は、飯沼勲(いさお)という青年である。彼は右翼のテロリストで、金融界の大物を刺殺して、割腹自殺する。三島と楯の会の若者に最も似ているのは、第二巻の主人公の勲である。
第三巻『暁の寺』の主人公は、女性である。シャム(現タイ)の王女ジン・ジャン(月光姫)だ。本多は彼女に恋情を抱くが、彼女がレズビアンであったために、恋は実らない。
こうして「清顕=勲=ジン・ジャン」という、転生を媒介にした等式が成り立つわけだが、第四巻で、この等式が崩れる。
『天人五衰』の主人公は、安永透という青年だ。本多は、この青年を、清顕から始まる転生者の一人だと思い、自分の養子にするのだが、透は二十歳を過ぎても死なず、真の転生者ではなく贋ものだったことが判明する。
こうした筋の後に、結末の驚くような転回が待っている。透が本物ではないことを知って落胆した本多は、自分の死期が近いという思いもあって、松枝清顕のかつての恋人、今や月修寺の門跡となっている聡子を訪ねることにした。
月修寺で対面したときに聡子が発した言葉に、本多はびっくりする。
「その松枝清顕さんという方は、どういうお人やした?」聡子は本多の口から清顕について語らせようとしているのだろうと推察し、本多は、ひとしきり清顕について物語った。これを聞き終わった聡子の反応は、まことに意外だった。彼女は感慨のない平坦な口調でこう言ったのだ。
本多は愕然とする。目の前の門跡が、俗名「綾倉聡子」という、あの女性であることは間違いない。しかし、彼女は、清顕の存在も、また聡子と本多が知り合いだったとういことも、すべて本多の勘違いであり、彼の記憶(違い)が造り出した幻影ではないか、と言う。そうだとすると、清顕は存在していなかったことになる。
清顕が存在しないならば、勲も、ジン・ジャンもいなかったことになる。それだけではない。本多は叫ぶ。「・・その上、ひょっとしたら、この私ですらも・・・」。絶対に疑いようもなく存在していると普通は見なされている「この私」すらも、存在していないことになってしまうのだ。
何という結末であろうか。本多と聡子が対面するシーンは、四巻の大長篇の最後のほんの数ページである。この数ページによって、登場人物のすべてが存在していなかったことになる。この小説の、それまでの筋もなかったことになる。
結局、これは作品世界の全否定であり、これ以上ありえないレヴェルの徹底した自己否定だ。展開がすべて無だったことになるのだとすれば、われわれ読者は何を読まされていたことになるのか。
したがって、三島由紀夫をめぐる第二の謎は、『豊饒の海』の結末はどうしてかくも(自己)破壊的なものになっているのか、である。何が、どのような衝動が、三島に、このような結末を書かせたのだろうか。