昨日は数年ぶりの新宿www

景観がすっかり変わった南口の
紀伊国屋サザンシアターにて

原作「豊饒の海」は「春の雪」「奔馬」「暁の寺」「天人五衰」の4話から成りたつ。

一巻が明治末期の華族の悲恋話。
二巻が昭和初期の右翼少年。
三巻が戦前・戦後のタイのお姫様の話。
四巻が昭和後期の本多の養子の話

一巻の主人公「松枝清明」が転生して?それが友人「本田繁邦」の一生を奔放する。
清明に己の人生を支配されていく本田繁邦


小説は輪廻転生を描いたものと思いきや
回を重ねるうちに偽転生者?が出てきて
やがて輪廻のパターンが崩壊していく


私は学生時代に1巻の「春の雪」の世界にのめり込んだ。華族社会の中で華やかに繰り広げられる雅な世界に陶酔し、主人公の侯爵家の息子「松枝清明」という美しくも純粋で悪意のない傲慢な青年に夢中になったものだwww

映画版「春の雪」


「美」の象徴とも言うべき松枝清明役を、舞台では東出昌大が演じる
(きよ様素敵でしたラブ

………汗
実は、この舞台のキャストさんで私が知ってるのは首藤康之さんだけてへぺろ

バレエダンサーでもある彼の
役者としての舞台はこれが初めてだけど
やはり肉体の表現者!!演技に迫力を感じた
彼の横顔に亡きジョルジュ.ドンが見えてしまう?! 

生き様のオーラなんだな〜きっと‥‥照れ

舞台のセットはその都度、黒子的なキャスト達が実にスマートに美しく設置していく。

舞踊の要素を取り入れて
肉体を最大限に美しく見せもする

そこに華やかな三島由紀夫節のセリフが織り込まれるからファンとしてはたまらないラブラブ
 舞台稽古より

途中休憩15分
席は最前列ど真ん中!!びっくりびっくり

爆笑爆笑いい舞台でした(*^^*)




注意注意注意

以下の感想文は、終演後の電車で徒然なるままに書いたもので、自己回想なども入ってて非常に退屈だと思います汗

自分記録の為にブログにしたので
ここでスルーしてねてへぺろwww
いつも来てくださってありがとうございます爆笑爆笑



赤薔薇  ピンク薔薇  クローバー  チューリップ  イチョウ ガーベラ




それにしても
この壮大な四部作をひとつの舞台にしようなんて無謀な演出を手掛けたのは、なんとイギリス人びっくりびっくり

しかも、三島世界に散りばめられてる日本だからこその美が、しっかり舞台にあったびっくり


今時の日本人より「日本人」かも。


流れてしては「春の雪」の物語の中に
犇馬、暁の寺、天人五衰を盛り込んでる

映画版より↓


だから「本田」は「若き本田」「中年本田」「老齢本田」の3人が入れ替わり立ち代わり登場し、物語の傍観者として繋いでいく。
うん♡ 分かりやすいかもヽ(=´▽`=)ノ


正直
原作の「豊饒の海」は難解過ぎて
私のような凡夫は完全に読み解く事は無理〜(^o^;)

舞台なら具体的だし、
きっとわかりやすいから数十年ぶりにやっと全貌が明らかになる!!
(物語は理解できてるのだけどね)

と、期待しての観劇だったから
最初はわくわくしながら観ていた


だんだんあれ?あれれ?!

更に混沌(カオス)に落ちたガクリ




「豊饒の海」の物語の根底に流れてるのは「阿頼耶識」だと何かで読んだことがある。

仏教思想のひとつ

思えば存在する‥ということは、思わねば即ち無である ということ。


在ると思えば在る
無いと思えば無い

色即是空
空即是色っていうやつか(^_^;)

これを物語のいちばん最後に
ドーンと突っ込んでくる!

いわゆる衝撃的なラストというやつ

「貴方が見てきたと思ってたものは全て幻だったのではありませんか」
と、人生全てを否定?される本田。


小説では老いた本田がこうつぶやく

「記憶もなければ 何もないところへ、自分は来てしまった‥‥」


これって、えー!!?ガーンだよ
だって物語の出発点の「松枝清明」が幻だった?最初から居なかった?って話しだもの




何度読んでもこのラストの空虚感には
不思議な衝撃を憶えるんだよね


生きる事と死ぬ事は一体であり無であり、生すらも無 って話しなのだから‥‥


今回の舞台でも、最後はパーッと散華の花びらが降ってきたような気がした


余談だけど
三島由紀夫はこの小説を書き終えた後、市ヶ谷の駐屯地に向かい、自らの時間を止めたんだっけ



だから絶筆のラストなんだな





三島はそこまで悟りながら
なぜあえてあの道を選んだのだろう

天才故の選択か


そこは計り知れない‥‥






はぁ〜
今日はフルに脳ミソ使った感!www
最近ほぼ使ってないし汗汗

たまには哲学に酔いしれるのも
悪くないかもな‥‥‥‥‥照れ


追記

以下 
ストーリーとラストについての解説

四部作『豊饒の海』のあらすじ

この小説は、魂の輪廻転生を前提にしている。各巻の主人公はすべて異なっているが、彼らは転生者であり、実は同じ「人物」の反復である。彼らは皆、二十歳で死ぬ運命にあり、次巻で転生する。

この場合、輪廻転生する魂の同一性を保証する者が、二十歳で死んでしまう主人公とは別に必要になる。それが、副主人公の本多(ほんだ)繁邦(しげくに)であり、彼は全巻を通じて登場し、異なる主人公たちが同じ魂の転生であることを確認する。本多は、作品内の三島の分身だと考えてよいだろう。

第一巻の『春の雪』の主人公は、華族の令息、松枝(まつがえ)清顕(きよあき)である。本多は清顕と同じ歳で、二人は同級生。清顕は、幼馴染で二歳年上の綾倉聡子と激しい恋に落ちる。

聡子と宮家との間の結婚に勅許が降りるのだが、にもかかわらず、清顕と聡子は逢瀬を重ね、関係をもつ。その結果、妊娠した聡子は、密かに堕胎した上で、出家して、月修寺という寺に退いてしまう。清顕は月修寺に通いつめるが、聡子は絶対に会おうとしなかった。

第二巻『奔馬』の主人公は、飯沼勲(いさお)という青年である。彼は右翼のテロリストで、金融界の大物を刺殺して、割腹自殺する。三島と楯の会の若者に最も似ているのは、第二巻の主人公の勲である。

第三巻『暁の寺』の主人公は、女性である。シャム(現タイ)の王女ジン・ジャン(月光姫)だ。本多は彼女に恋情を抱くが、彼女がレズビアンであったために、恋は実らない。

こうして「清顕=勲=ジン・ジャン」という、転生を媒介にした等式が成り立つわけだが、第四巻で、この等式が崩れる。

『天人五衰』の主人公は、安永透という青年だ。本多は、この青年を、清顕から始まる転生者の一人だと思い、自分の養子にするのだが、透は二十歳を過ぎても死なず、真の転生者ではなく贋ものだったことが判明する。

こうした筋の後に、結末の驚くような転回が待っている。透が本物ではないことを知って落胆した本多は、自分の死期が近いという思いもあって、松枝清顕のかつての恋人、今や月修寺の門跡となっている聡子を訪ねることにした。

月修寺で対面したときに聡子が発した言葉に、本多はびっくりする。

「その松枝清顕さんという方は、どういうお人やした?」聡子は本多の口から清顕について語らせようとしているのだろうと推察し、本多は、ひとしきり清顕について物語った。これを聞き終わった聡子の反応は、まことに意外だった。彼女は感慨のない平坦な口調でこう言ったのだ。

「えろう面白いお話やすけど、松枝さんという方は、存じませんな。その松枝さんのお相手のお方さんは、何やらお人違いでっしゃろ」

本多は愕然とする。目の前の門跡が、俗名「綾倉聡子」という、あの女性であることは間違いない。しかし、彼女は、清顕の存在も、また聡子と本多が知り合いだったとういことも、すべて本多の勘違いであり、彼の記憶(違い)が造り出した幻影ではないか、と言う。そうだとすると、清顕は存在していなかったことになる。

清顕が存在しないならば、勲も、ジン・ジャンもいなかったことになる。それだけではない。本多は叫ぶ。「・・その上、ひょっとしたら、この私ですらも・・・」。絶対に疑いようもなく存在していると普通は見なされている「この私」すらも、存在していないことになってしまうのだ。

何という結末であろうか。本多と聡子が対面するシーンは、四巻の大長篇の最後のほんの数ページである。この数ページによって、登場人物のすべてが存在していなかったことになる。この小説の、それまでの筋もなかったことになる。

結局、これは作品世界の全否定であり、これ以上ありえないレヴェルの徹底した自己否定だ。展開がすべて無だったことになるのだとすれば、われわれ読者は何を読まされていたことになるのか。

したがって、三島由紀夫をめぐる第二の謎は、『豊饒の海』の結末はどうしてかくも(自己)破壊的なものになっているのか、である。何が、どのような衝動が、三島に、このような結末を書かせたのだろうか。