極私的洋楽生活 -5ページ目
 

 

 

 

 

 

【肩透かし】

1 相撲のきまり手のひとつ
2 意気込んで向かってくる相手の勢いをうまくそらすこと
 
 
ビッグネームで知られたバンドには
誰もが認める個性と認知がつきまとう
成功のイメージは肥大化し
良くも悪くも
各メンバーは「バンドとしての」個性と認知を
背負っていかざるを得なくなりがちだ
だからビッグネームのバンドほど
そのイメージを変えていく事は
とても難しいことなのだと思う
 
 
成功したバンドの各メンバーのソロ活動は
そうしたバンド活動で抑制された
本来自分が持つミュージシャンエゴを発散させる
カタルシスの手段であるのだろう
 

とりわけ解散したバンドのメンバーが
他のミュージシャン達と手を組み
新しい化学反応という名の刺激を求める
よくあることだ
それは押しなべて「スーパーグループ」という
称号をつけられ、リリースされる音源に
ファンは過度な期待を寄せる
 

古くはクラプトン×ベイカー×ウィンウッドの
「ブラインド・フェイス」
メンバー名そのままの
「ベック、ボガート&アピス」
ウェットン×ブラッフォード×
ホールズワース×ジョブソンの「U.K.」
ロバートパーマー×デュラン・デュランの
「パワー・ステーション」
レイジ・アゲインスト×サウンドガーデンの
「オーディオスレイヴ」
などなど思い浮かぶだけでも結構ある
 

多くは短命で一瞬の花火で終わることが多い
所詮エゴのぶつかり合いなのと
各々が元いたバンドに寄せられる
イメージと期待を超越できるほどのものが
生み出せていない、ということなのか
 

中でもとりわけ異質なのがこの
ハニードリッパーズではないだろうか
ロバート・プラント  ジミー・ペイジ
ジェフ・ベック  ナイル・ロジャース
どう考えてもヤードバーズ~ツェッペリンに
80年代牽引プロデューサーの組み合わせは
凄まじいケミストリーを生むと
誰もが予感したに違いない
 

が、期待と音源のギャップは凄まじかった
歴々のスーパー・グループは
それでも「延長線上」という
範疇の中にあったような気がする
それがハナからこのグループにはない
しかも3大ギタリストと呼ばれるうちの
ふたりを集める理由がない
ベックである必要、ペイジである必要が
まったくない音…
 
 
脳天気でおおらかな、古き良き時代の象徴
50年代へのオマージュ
ベックもペイジも個性を出さない
徹底したバックアップ
ナイル・ロジャースのカッティングは何処へ…
むしろ個性を抑制することを
楽しんでいるかのようにさえ思える
 

何という贅沢な起用なのだろう
逆の意味で、商業的な期待を敵に回してでも
このメンバーにしてこの音を世に送り出した
その勇気と潔さに拍手を送りたいくらいだ
 

恐らくロック史上、最大の
「肩透かし」として語り継がれるべきと思う
もちろん、賞賛の言葉として
 
 
残念ながらVOLUME.2は出なかったけど
 
 
 
 
 
 
from album
[Volume One]
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実はジョン・スペンサー・ブルース・エクスプロージョンが好きだったりします。
 
 
90年代に「オレンジ」というアルバムでブレイクを果たした今やベテラン。でもリアルタイムでは聴いてなかったのです。90年代は本当に音楽を聴いていなかった時代なので(^_^;) で、21世紀に入ってから聴いたのですが、超かっちょいいじゃないですか!まさにブルース×ガレージ×パンクの美味しいとこどり。しかもベースレスのツインギタートリオなのに音がぶっとい、リフのねちっこさ最高♪疾走感満載のロックンロールオールドウェイブ。一発でファンになりました。
 
 
ジョンスペの昨年出たアルバムがこの「フリーダム・タワー」.
これがまたイイ感じなんですわ。

 

 

 

 
サブタイトルそのままに、ダンスパーティの幕開けテンション高いすね♪相変わらすのリフのカッコよさ!ロックンロールに軸足を置きつつもちゃんと今の音になってるもんな。

 

 

 

 
ちょっと今までのジョンスペと違うのはかなりヒップホップやらファンクグルーヴの色がついてること。彼らなりの「ダンスミュージック」へのアプローチなんだろうか。でも音楽ジャンルとしてはやっぱりガレージ・ロックなんですよね。ブラックには逆にできないグルーヴ感なのが立派♪

 

 

 
で、このアルバムも疾走感がすごくて、あっという間に聴き終えてしまうのでした。理屈やらこねまわさず、ストレートに気持ちよい音。本来ロックが持つカッコよさをこれだけ表現できるバンドはなかなかないと思いますね。

 

 
彼らの90年代のアルバムは結構中古で安く出てますからぜひ興味が出たら聴いてみてくださいね。アマゾン見たら「オレンジ」「アクメ」など全部1円から…
 
 
ちょっとショック…(^_^;)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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5年間のご無沙汰でございました。豚袋でございます。
 
 
またブログを再開するにあたって最初の本編記事は悩まずこれにいたしました。デヴィッド・ボウイの遺作となりました「ブラックスター」を取り上げたいと思います。
 
 
ボウイの新譜が出ると知ったのは2015年の12月だったでしょうか。即予約を入れました。ボウイの復活は2013年の前作「ザ・ネクスト・デイ」にて10年ぶりの驚きをすでに体験していました。かのアルバムも非常にクオリティが高く、懐古的ではなく現在型でありながら、誰もが期待する「ボウイらしさ」以上を感じさせるカムバックに世界が驚きと歓迎を持って迎えたことも記憶に新しいところでした。そうした背景もあり、新アルバムリリースの報に前回ほどの期待や驚きはなかったと思います。
 
 
年明け早々の発売日当日1月8日にきっちり届き早速聴きましたが、近年の彼のアルバムでは間違いなく群を抜いた傑作だと思いました。ボウイが亡くなったがゆえの遺作に対する敬意やリップサービスの類ではなく、本当に心からそう思うのです。

 

 

 

 
一聴して思ったのは、前作が「期待以上のボウイらしさ」だったのに対して本作は「誰も想像しなかったであろうボウイ」であった事です。先行シングル等の事前情報を持っていなかった自分にとって、良い意味で裏切られました。過去から積み上げられたイメージのボウイではなく、よりラディカルでエッジー、そして孤高なアーティストとしての姿がここにあります。齢70を目前にしてこの新しさを生み出した姿勢は驚異としか言いようがありません。
 
 
その象徴が今までのボウイサウンドにはなかったジャジーなサウンドフォーマットでしょう。バックミュージシャンはほぼジャズ畑からの起用となっているので当然ではあるのですが、ジャズフォーマットの上にボウイの悲壮な世界観がミックスされ、新しいサウンドを生み出すのに成功しています。
 
 
これは制作サイドも認めているように、ケンドリック・ラマーの2015年のアルバム「To Pimp A Butterfly」の強い影響と呼応の結果でしょう。(「To Pimp A Butterfly」は間違いなく2015年の、ひいては2010年代の、最高のアルバムだと思います。ジャズのフォーマットの上にヒップホップを融合するというサウンドミクスチャーにブラックルーツのアイデンティティを叫ぶ非常に革新的で強烈なものでした。)並のミュージシャンであれば「真似」で終わってしまうところですが、方法論にヒントを得たとしてもやはり完成したものはボウイにしか作れないものになっている、そこは彼のすごいところだと思います。
 
 
また、歌詞の内容としては「昼と夜」「陰と陽」「善と悪」といった二律背反的な要素を対比することで自己の過去の否定を匂わせるような要素も感じられます。
 
 
I'm a bLackstar という一方で
 
I'm not a gangstar     ギャングではない(黒人ではないという意味)
 
I'm not a filmstar     映画スターではない
 
I'm not a popstar     ポップスターではない
 
I'm not a whitestar     ホワイトスターではない(白人スターの意味か)
 
I'm not a pornstar      ポルノスターではない
 
I'm not a wandering star   放浪のスターではない
 
 
というキーワードが並んでいます。ポップスターであり映画スターでもあり白人スターであったボウイ自身の否定にほかならぬリリックは、導入から「過去とは違う自分」を宣言しているかのようです。
 
 

 
一方でこのアルバムは彼が死を覚悟し、ファンに対するメッセージとしての側面が強い、とも言われています。確かに歌詞の内容にはそうした「死」を感じさせるものが多いようです。特にこのLazarusという曲の歌詞には「I'm in heaven」とか「I've got nothing left to lose」とか自身が死と向き合っているという暗喩性を大きく感じます。

 

 
この曲だけでなくアルバム全体を通じて感じられるのは「不安感」「絶望と混沌」「孤独感」といったものです。しかしながらそれは自分の内的な部分の掘削ではなく、テロの多発・不穏な世界情勢といった「外的世界の感受」と「問いかけ」であるかのようです。客観性が貫かれ、どこか俯瞰した世界から語っている感じがします。Brackstar (星、スター、闇)、Sue(女性の名前、「訴える」)、Cheena(女性の名前、「中国人」)I'm dying to (~したくてたまらない、死んでいる)といったダブルミーニングによるメタファーの多用はそうした客観性や俯瞰性の表れでありましょう。
 
 
ラストの曲は曲調こそポップですが「私はあなたにすべてを差し出すことはできない」という、まるでカルトヒーローであった自分への期待や依存心をシャットアウトするかのような突き放したメッセージとなっています。それは一曲目の自己否定とも呼応しているかのようにアルバムを締めくくります。

 

 

 

 
このアルバムのリリースの僅か2日後にボウイの訃報が流れ、世界中が驚いた事は記憶に新しい所です。このアルバムは世界中のファンに向けた「壮大なる遺書」となりました。それはボウイ自身が望んだ事なのでしょうが、ファンにしてみればこうした「ボウイ自身による過去の否定」を受け止める以前に、その死の衝撃の大きさに悲嘆してしまったような気がします。
 
 
私にとってボウイは時代を上手く切取る「鏡」であり、時代の象徴に「擬態」する優れたマーケッターでもありました。彼自身が強いメッセージにより聴衆を引っ張っていくというよりは、「鏡」として事実を映し出し、後は各自に解釈させるというメッセンジャーであり、ヒーローではなくトリックスターだとずっと思っていました。最後のアルバムまでそのアティテュードが貫かれ、紛れも無いトリックスターとしての存在を示してくれたように思います。
 
 
衝撃の訃報から5ヶ月。その「壮大なる遺書」が受け手側各々の中でいろんな意味と解釈を持ち始めるのがこれからのような気がします。改めてその偉大な人生に敬意を表するとともに、残された膨大な音楽をこれからも楽しんでいこうと思っています。
 

 
それでは、また。