還暦過ぎたピアニスト -2ページ目

還暦過ぎたピアニスト

青が好き。色も、響きも、そしてその意味も。若々しい躍動的なイメージがあり、未熟な初々しいイメージもある。「ヨーロッパの赤には、青が一滴」という発想も素敵だと思う。シニアになった今も、できれば青の近くで、楽しみたい・・。

琥珀博物館は、入場料も必要が無い、ひっそりとした場所だった。


展示してある琥珀の数々も、研究室に並べられているかの様な、学究的な印象だった。


一通り、といってもあっという間に見終わってしまった私は、そういえば青の琥珀はどこにあるのだろうと思い出し、管理人といった感じの女性に訊いてみた。


「今、貴女が見てきたところに展示されていますよ」と、言う。


私の他には、係りの人と雑談風の話をしていた年配の女性一人しかいない、こじんまりとした場所である。


「あ~、見つけられなかったのですが・・」と答えると、「こちらですよ」と彼女が案内してくれて、さし示してくれたのは。


これが、青の琥珀だったのか・・。


それは全体に白っぽくて、青の色がマーブル状に混じっている、美しい琥珀だった。


でもこれを、青の琥珀と名付けるかどうか、意見の分かれる処かも知れない。


色々な形態の琥珀を眺めながら、どんな点に違いがあるのですか、と訊いてみると、どの木の樹脂かと言うのが主な理由だけれど、成分の違いも大きく影響しているのだ、と言っていた。


私の好きな濃い緑色の琥珀は、何万という単位の細かい水泡が中に混じっているために、あの様な色が出てくるのだという事であった・・。


「此処まで来るのに、随分迷いました。色々な人に訊いたのですが、分からなくて・・」と言うと、


「あまり、地元の人達は知らないのです。でも、貴女は最終的に、来られた訳ですから・・」と、にっこり笑ったその女性の感じがとても可愛くて、「琥珀博物館」の印象は、全てがその笑顔に包まれた様であった。

「リトアニアには、青い琥珀がある」、という話は、ハリーナから聞いていた。


彼女は英語を話さないので、チェルナーに泊めて貰って散々お世話になっているのに、中々親しい関係にまで行き着かない・・。


ご主人のスワヴェックに通訳してもらうのだが、おしゃべりが好きそうな彼女は、まどろっこしくなってしまうらしい・・。


何時だったか、数日ゆっくり滞在した時に、「ポーランド語を覚えなさい!」といって、色々単語を教えてくれたのだが、シニアがゼロから覚えるには、余りに遠い言語で、すぐに挫折した。


白い琥珀は、最近日本でも見かける様になったが、「ハリーナからのお土産だよ」と、スワヴェックが日本に来たときに持ってきてくれたネックレースは、一見象牙の様でもあり、でも樹脂でできているのでとても軽い。


お揃いのイヤリングを、デパートなどで探したけれど、その頃は殆ど白い琥珀が出回っていなくて、見つけ出すまでに結構色々なお店を覗いた記憶がある。



今回の旅行でガイドブックを見ると、ヴィルニュイスには琥珀博物館があるらしい。


旧市街を観光してきた夫人達が、其処へ行って綺麗だったというので、翌日ホテルで地図を貰って一人で歩いて出かけてみた。


日本のガイドブックに出ている地図には色々な見どころが載っているし、ホテルで貰った地図には全ての道の名前が載っているので、二つを照らし合わせながら、歩いた。


目的地は「琥珀博物館」である。


ヨーロッパの古い街によくある様な美しい旧市街は、世界遺産になっているそうで、カトリックの教会が非常に多い。


お土産屋さんは、殆ど琥珀が目玉の様であった。


最初に入ったお店は、琥珀専門店で素敵なアクセサリが色々あって、其の時すぐには購入しなかったけれど、色々見た挙句、結局最後に其処へ戻ってきて、娘と義理の娘の二人に、お揃いのペンダントを買った。


私の好きな、黒っぽい緑色の琥珀である。


琥珀博物館は、地図で見てもどうしても見当たらず、その辺に歩いている人に訊いても顔を横に振るばかり・・。


たまたま、二人連れの女子学生が歩いているのを見かけて、訊ねてみると・・。


日本人と喋るのが珍しかったのか「琥珀博物館はわからないけれど、国立博物館へ行ってみればきっと琥珀も見られると思う」と言って、行き方を教えてくれたのだった。


「私達もそちらの方向へ行くから、途中まで一緒に行きましょう」と言って歩き始めたので、おしゃべりするだけでも面白そう、と思いながら付いて行った。


伝統あるヴィルニュイス大学で、メディア学を専攻しているそうだ。


因みに学生数の男女比を訊いてみると、彼女のクラスは30数名でそのうち男子は5名だと言っていた。


大学全体での比率は、ちょっと分からない、という答えだったが・・。


「この道をまっすぐ行くと、博物館に着くので、そこで琥珀の事を訊いて下さい」と、可愛い彼女たちはとても親切に、「Have a nice day!」と言って、去って行った。


悪かったけど私は、彼女たちが去って行ったのを確かめてから、又琥珀博物館の界隈の方へと戻って行った。


そして、それから本当に偶然、大きな建物の中庭へと続く入り口の横に、小さく「Amber museum」と書かれた看板が架かっているのを、見つけたのだった。


其の時すれ違った観光客らしい人達に、改めて訊いてみると、一人の親切そうなおばさんが、「わかりにくいのよ・・」と言いながら、その小さなドアの前に連れて行ってくれた。


念願の博物館は、中庭の一角にある建物の、地下にあったのだ。





リトアニアの首都、ヴィルニュスで開催された国際会議は、スワヴェックの親友のヨーナスさんが、実際の主催者であった。


どんな時でも笑顔を絶やさないヨーナスさんだが、ソ連に併合されていた時代の、リトアニア人としての矜持というのだろうか、生粋のロシア嫌いで、スワヴェックとも、お互いに流暢なのであろうロシア語は、決して使わない。


今まで、ラトヴィア、エストニアへ行く度に、途中で一泊する宿を手配してくれたヨーナスさんだったけれど、今回は彼のホームグランドの、リトアニアである。


事前にセクレアリタートから、「白いピアノが、待っています」と主人にメールが来ていたので、チェコでの私の演奏を聴いていて、気を遣ってくれているのだろう、とは思っていたけれど・・。


この学会では、いつもとても美味しいお食事が出るので、ある日わざわざランチタイムに合わせて会場に戻って主人とお食事をしていたら、ヨーナスさん、エストニアから来た二人が、”May we join you ?”と言って、同じテーブルを囲んだ事があった。


美味しいスープを飲み終えて、私がスプーンをスープ皿の向こうに置いて、ふとヨーナスさんを見ると、彼は飲み終えた後のスプーンを、お皿に入れたままであった。


そうか、スプーンはお皿に入れたままなのがマナーかと思いながら、でも今更替えてもなあと思っていると、色々話が弾んでエストニア出身の力士”バルト”の話などをしていて、ふと改めて皆のお皿を見ると、全員のスプーンはお皿の向こう側に置かれていた。


私の態度が、余りに堂々としていたからか、あるいはその上を行って、レディの振る舞いに従うのがマナーだと考えてくれたのか、それはちょっと、愉快な瞬間であった。


レセプションが始まる前、ピアノを見に行ってみると、白い装飾品の様なピアノは食堂の横のロビーに置かれていた。


ヨーナスさんは実に控えめの性格で、最初のスピーチの時も、ワイングラスをスープンで叩いて注目を浴びようとしても、中々喧噪はやみそうにない。


やっと、ドイツのディーターさんが気づいて、グラスが割れそうに大きな音を出して、皆の注目がやっと集まった、という具合である。


食事が終わりかけた頃に、彼が私のもとへやってきて、「ピアノ弾いて貰うのには、良い時間だろうか・・?」と訊いて、またもやグラスを叩いて私の紹介をしてくれたところで、多分殆ど人の耳には入っていなかった事だろうと思う。


それでも、私がショパンのバラード弾き終えて、セクレタリアートのマルゲリータさんがくれた大きな花束と、ヨーナスがくれたリトアニアの美しい写真集は、きっと控えめな彼としては、遠い日本から来た私達に対する、最大の歓迎の気持ちだったのだと思う。


それから一緒に、テーブルを囲んでいたドイツの人達と、暫く音楽談義が続いた。


私が、極東からきた人間ながら、ウィーンの音大を卒業したんだと聞くと、ヨーロッパでもアメリカでも、接してくれる人達の態度が大きく変わる気がする。


さすが、音楽の都、ウィーンである。

ハンティングが趣味のスワヴェックは、チェルナーに着くと、車でまず森の様子を見て回るのが常である。私達も、便乗することが多い。


「来てごらん」と言われて、車から降りて空き地を見ると、不規則で大きな穴の跡がいくつもあった。


「これは、猪が食べ物をを探して土を掘り返した跡だよ。この柔らかさは、つい最近のものだね。」というので、ちょっと怖くなって、


「通常、動物たちが活動するのは、何時くらいなのかしら・・?」と、一応確認してみた。


「大体は、夜中だよ」と言われて一安心はしたものの、ではハンティングとは夜中にするものなのか、と急にリアル感が出てきて、色々質問した。


大体、数年前に森をジョギングしていた主人が、夕方だったにも係わらず、猪が道を横切っていくのに遭遇した、という因縁の場所である。夜中と聞いても、安心はできない。


その夜の夕食に出てきたソーセージは、交通事故で倒れていたバイソンの肉をヤーツェックのお兄さんが燻製にした、といった生活圏の人達でもあるのだ・・。



パーティが終わって翌日、リトアニアで開催される学会へ、ピステックさん、トーマス等、三台の車で連なって出かけた。


ポーランドとリトアニアは、お互いにヨーロッパ・ユニオンの国なので、現在は国境も素通りできて、時代の流れを感じた。


数年前に、やはり彼の車で、ポーランドから、リトアニア、ラトヴィアを通過してエストニアへと行った頃は、国境を超えるのに毎度、ずいぶん時間がかかったものだったけれど・・。


学会の主催者にも係わらず、スワヴェックは実に精力的で、会が無事終わると翌日には、朝食を終えて皆にさよならをすると、早々に又、チェルナーへと車を走らせた。


次の日は温かな陽気で、お庭にあるブランコ型のベンチで、ぼんやりと日向ぼっこをしていたら、「キノコを採ってきた・・」と言って、籠の中を見せてくれた。


そして、歩きながら「ちょっと来てごらん。見せたいものがあるから・・。」と言われた。


後ろに付いて歩いて行くと、隣にあるヤーツェックの、まだ建築中の別荘の裏庭が、先日みかけた様な猪の掘り起こした穴の跡で、それも数倍の規模で踏み荒らされているのが見えた。


少なくとも、10頭以上は来ていたのだろう、と言う。


「昨日までは普段通りだったから、これは昨夜から今朝の間に侵入されたんだよ。庭の周りの塀が、ちょっと開いていたので、其処から入ってきたんだろう。」


そういえば、昼前から隣の庭にトラクターがやってきて、数人の人達が何やら工事をしていたのを、見るともなく見ていたのだが、どうやら彼らは塀を修繕していたらしい。


スワヴェックの家は、周りに塀をめぐらせて、建物に近づくとセンサーが感知して灯りが点くシステムになっているが、隣はまだ建築中なので不用心だったのかも知れない。


動物と共存するという、危険と隣り合わせの生活を、垣間見た瞬間だった。



ウィーンからワルシャワへ向かうと、空港へ迎えに来てくれていたスワヴェックの車で、私達は北東方面にあるチェルナーの森へと直行した。


この森にある彼の別荘は、建てた直後に泊めて貰った頃はまだ、ワルシャワからの道が完全整備されていなかったのだが、今はヨーロッパの主要都市へと繋がる高速道路を利用して、かなり走行時間が短縮されていた。


広い庭の周りに植えた松の木たちも、現在はかなりの大きさに育っていて、私達の交友に歴史を感じた。


最初に泊めて貰った時は、まだ建築の途中だったらしく、次に訪れた時には、同じような建物がもう一棟、対照的に右側へ向かって拡がっていたのには、企画として話には聞いていたものの、さすがに驚いた。


赤毛のアンの「グリーン・ゲイブルズ」じゃないけれど、素敵な赤い切り妻屋根が二つ並んで、それは丁度「レッド・ゲイブルズ」といった感じであった。


そして、広い空間の壁には、夏休みに集まる六人のお孫ちゃん達の写真が、文字通り所狭しとばかりに飾られている。


長男と次男の家庭それぞれに、二卵性の双子ちゃん達が居て、じっくり眺めていると六人の幼児たちの性格がくっきりと現れてきて、見飽きる事がない。


今回は、チェコからピステックさんが学生を連れて、ワルシャワからはトーマスがやはり学生を連れて合流した。


ドイツのヨアヒムさんが、生憎お母さんを亡くされて欠席だったが、昨年南アフリカで一緒にサファリ巡りをした、スワヴェックの親友夫妻も揃い、素敵なパーティとなった。


チェルナーには欠かせない、スワヴェックの狩猟仲間ヤーツェックが、11月にある市長選挙に立候補しているそうで、忙しい中美しい夫人のエヴァと共に顔を見せてくれた。


チェルナーに行く度に、美味しい食事でもてなしてくれる彼らだが、三年前に訪れた時は、すっかり都会的に洗練されたエヴァと違って元気のなさそうなヤーツェックの様子が気になったのだが、其の時は市長選挙の直後で僅差で敗れた後だった、と後で聞いた。


今回は相変わらず優しそうな笑顔は変わらないながら、入ってくるなり居合わせた人達に、自分の名前の入ったボールペンとストラップを配ったその堂々とした態度は、まるで別人の様であった。


やはり、人が何かに向かっている姿は美しい。




の日は、体力温存という意味で、余り歩き回ったりせず、ホテルでゆったりと過ごした挙句に、老人特有の早支度で、オペラ座の前にに着いたのは、まだ開場前であった。


ウィーンのオペラ座といえば、観光の目玉でもあるので、正面玄関を入ってすぐの小さなロビーでは、開場を待ちながら、中央階段を背景にして記念写真を撮っている人達も沢山みかけた。


殆ど一番乗りの様に会場に入ると、まだ座る人のいない座席とは対照的に、懐かしい立見席には大勢の人達が集まっていた。


開場と共に立ち見席へと急ぎ、できるだけ見やすい場所を確保する為に、陣取りをしている若者たちだ。


「サロメ」は余り上演されない曲なのだろうか・・。オケの人が数人、早々とピットインして、自主練習を繰り返しているのが聞こえていた。


今回は、「サロメ」という暗い脚本で、リヒャルト・シュトラウスという、ちょっと馴染みにくい音楽だったので、オペラが嫌いという主人の反応が気になったけれど、最終的には、座席の前にあった英文の字幕を読んで、まあまあ楽しんだ様子であった。


それに、タイトルロールのLise Lindstromが、声も良かったけれど、素晴らしいプロポーションでサロメダンスを踊ったので、オペラはやはり美しいソプラノに限るなあ、と改めて思ったのだった。


まだ若手のアメリカ人の様だが、これからどんどん活躍していく人なのだろう。


一幕ものなので、華やかな休憩時の楽しさは味わえなかったけれど、久々のオペラ座は見渡したところ満席の様で、「音楽の都」はまだまだ健在な様子であった。



ウィーンへ行くことが決まって、まずオペラ座の日程表を眺めた。


滞在日の関係で、演目は「サロメ」に決めて、まだ空いている席からどの場所を選ぶか、結構いろいろ調べたのだった・・。


今回は、オペラ嫌い(!)な主人が、初めて付き合ってくれた。



20年ほど前、主人がポーランドの学会に招待された時、子供たちがやっと高校生になって留守番が可能になったので、私も思い切って同行した。


結婚して以来、初めて訪れたヨーロッパだった。


其の時に私は、空港へ迎えに来てくれた、主催者のゴラーユ先生に、初めて会った。


主人達はすぐ仕事だったので、一人ぼっちになる私に、今は親しくスワヴェックと呼んでいる先生が、ワルシャワの地図と路面電車の切符を渡してくれた。


「旧市街の方へ行くには、まず○番の電車に乗って行き、此処で△番の電車に乗り換えて行くと良い・・」と手際よく、ワルシャワの街を説明してくれた。


それからの数日間、私は一人でショパンの国を歩き回ったのだった。


日本からは、直行便が無いので、ウィーン経由で行った。


ウィーンにも、ほんの数日だったけれど、滞在することにした。



其の頃はまだ、ネットを始めて居なかったので、オペラ通の友人が日程を調べてくれると、たまたま「白鳥の湖」の上演日だったので、オペラ嫌いの主人が、バレーならばと付き合ってくれる事になった。


ウィーンのオケで、その頃ヴァイオリンを弾いていた留学生仲間に電話して、チケットを取って貰ったなあ。



ワルシャワでの学会が終わると、私たちは朝早く電車に乗って古都クラカウへ行き、そこからタクシーでアウシュビッツへ行った。


もう、ちらほらと雪が降っていて、寒い日であった。


殆ど誰もいない、閑散とした強制収容所の中を、写真等で見覚えのある建物や展示物を、黙って見て回った。


それから、タクシーの運転手には言葉が通じなかったけれど、主人が飛行機の飛び立つ絵を描いて、時間を書き加えると、それが出発の時間だとすぐにわかってくれて、無事ウィーン行きの便に乗ることができた。


オペラのチケットを手配してくれた、昔の呑み仲間の友人と待ち合わせて、主人も加わって三人で一緒に食事をした。


最後には、私達には懐かしいシュテファン寺院の横にあって、夜12時まで開いている「チャタヌガ」に流れて行き、スペアリブをつまみにして、ワインを飲み続けた。


懐かしい友人と話し込んでいる間に、疲れていたのだろう、気が付くと主人が横でうたた寝をしていて、それは後々まで、「主人の眠ったチャタヌガで、スペアリブにかぶりつく」というのが、ウィーンへ行く度に恒例となったのだった・・。







ベートーヴェンの残した遺書で、音楽通の人達にとっては、世界的に有名な地名となった、ハイリゲンシュタット。


最初に訪れた時は、本当にあるんだ~、といった感慨があったなあ。


多分、当時と大きくは変わっていないだろうと思われる、ウィーン郊外、ウィーンの森一帯の中にある。


留学して間もない頃、お天気が良いので今日はウィーンの森へ行ってみようと思い立ち、近くの公園でベンチに腰かけていたおばあさん達に、地図を広げて訊いてみた事があった。


「ウィーンの森へ行きたいのですが、どちらの方向へ行けばよいでしょうか・・?」


すると、並んで座っていた二人のおばあさんは「ウィーンの森は、どちらの方向なのか、だって?」と笑いながら


「ウィーンの街の周りが全部、森なのだよ・・」と、教えてくれたのだった。


若い、というのは良いなあ・・、何となく。


未だに、ウィーンに滞在して時間が許せば、ウィーンの森のハイリゲンシュタットは、必ず訪れてみる場所だ。


近くを流れる、ベートーヴェンが散歩をしていたという小川のほとりも、必ず立ち寄って、ゆったりと歩いてみる。


頭の中は勿論、田園交響楽の二楽章「小川のほとりの情景」である。


小川沿いの小径には、「ベートーヴェン・ガング(ベートーヴェンの小径)」という名がついている、


つまり、小川沿いの高級住宅地に住む人たちは、自分の住所が「Beethovengang」という訳だ。ちょっと、魅惑的・・。


遺書を書いた家の窓から、すぐ近くに教会が見える。


この教会の鐘の音が聞こえなくなって、ベートーヴェンは絶望の余り遺書を書いた、とも言われている。


小さな博物館になっている彼の部屋で、15分も佇んでいれば、教会から時を告げる鐘の音が聞こえてくるのに・・。


今回訪れた時は、3時少し前だったので、15分に一度の定例の鐘の音と、3時を告げる鐘の音を聞いた。


そして私は、窓から見える青い空のあまりの美しさに誘われて、地下鉄で一路、シェーンブルン宮殿の庭園へと足を延ばしたのだった。

ウィーンに着いたのは、水曜日だった。


翌週の水曜日に、リトアニアで開催される国際会議のレセプションで、私はピアノを弾く事になっていたので、ふと思いたってベーゼンドルファーの事務所へ行ってみた。


ウィーン・フィルの本拠地「楽友協会ホール」と同じ建物の中にあるその事務所には、一時間単位でレンタルするスタジオがある筈だった。


10数年程前に、毎年ウィーンへオペラを観に行っていた頃、当時留学中だったかつての教え子から、ベーゼンドルファーで練習ができるという耳寄りな話を聞いて、何度か通った経験があったのを思い出したからだ。


訪れてみると、「1時間40ユーロで、コンサートグランドのピアノが使えます」と、快い返事。当時は10ユーロだったけどな、と思いながら、空いている時間帯を訊いてみると・・。


練習の事を思い出したのが金曜日の朝だったものだから、「週末にイヴェントがあるので、その準備で今日は使えないのですよ。来週ならば、オーケーですが・・」と、生憎の結果。


日曜日にはポーランドへと移動してしまう旅行者の身には、実に残念なタイミングであった。


急に暇になった私は、ミュージアム・クォーター内のレオポルド美術館へと足を向けた。


前日に訪れた、クリムトが最後に住んでいた家「クリムト・ヴィラ」に、私の好きな「サロメ」という習作のレプリカが大きく飾られていて、オリジナルはレオポルド美術館にある、と聞いたからだった。


処が、当の美術館では「第二次世界大戦、前後の作品」という企画展が大々的に開催されていて、インフォメーションで訊いてみたところ、所蔵品の中のその作品はたまたま展示されていなかったのだった。


色々歩いているうちに空腹を覚えてきて、そうだ友達とよく行っていた「ウィーンの森」という名のレストランへチキンを食べに行こうと、アンナ通りへと向かう事にした。


ケルントナー中央通リを歩いていると、アンナ通りへと曲がる角には、見慣れたお店の、緑と黄色の鶏の絵の看板が見えた。


だが、お店の前に来ると人影も無く、閉じた入口には「店舗をリフレッシュする為に、一時的に閉店します」という札が、張り付けてあったのだった。



その日はどうやら、幸運の女神のご機嫌が斜めだったらしい・・。





アメリカに住んでいた頃、大きなハードカバーの分厚い地図の本を買った。


世界地図が載っている本で、特に米国に関しては、州ごとにかなり詳細に表記されていて、二年間の滞在中に自動車旅行をしては、行程を赤い線で記録したものだった。


今も時々出してきては眺めているが、本箱から引き出す時には、結構気力を要する、大きくて重い本である。


その後主人がどこかに海外出張した際、南アフリカの人から贈られたといって、その地図と並ぶ程に大きなハードカバーの写真集を持ち帰ってきたのは、何故かとても印象に残っている。


それから、アメリカで久々にヨーマおばさんのお宅へ伺った時、当選したばかりのブッシュ大統領(お父さんの方)の大きなハードカバーの写真集を下さったのも、こちらは旅行中だった・・。


何時の事だったか、ヘルシンキで迎えてくれたカイヤ・リーナさんも、私が音楽専門だと知っていたので、さよならする際に「フィンランドの音楽」という写真集を持ってきてくれてとても嬉しかったけれど、これもハードカバーの大型版だった。


ポーランドの中学校でピアノを弾いた時に、校長先生がプレゼントして下さったのも、ハードカバーの大型本だった・・。


今回、主人のお供でリトアニアへ行き、歓迎レセプションでピアノを弾いた時にも、大きな黄色い花束と共にプレゼントされたのは、リトアニアの美しい写真がたくさん載った、ハードカバーの大型本だったのだ。


そして、気づいたのは、体格の良い欧米の人達にとって、それらの本は取り立てて言うほどの重さではないらしい、という事だった。


あちらの人々との雑談の中でも、重さに関しての感覚が、私達とは相当な差があるらしいのは、常々感じては居たけれど・・。