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還暦過ぎたピアニスト

青が好き。色も、響きも、そしてその意味も。若々しい躍動的なイメージがあり、未熟な初々しいイメージもある。「ヨーロッパの赤には、青が一滴」という発想も素敵だと思う。シニアになった今も、できれば青の近くで、楽しみたい・・。

40年位前になるだろうか・・。一時、テレビの歌番組をよく見ていた時期があった。


当時一世を風靡していたのが、山口百恵と沢田研二、私の好みが色濃く影響しているけれど・・。


先日、久々にカーステレオで沢田研二を聴いた。それは、布施明の曲と一緒に入っているカセットテープだったのだが、何故沢田研二の曲には、こうも心が揺さぶられるのだろう。


布施明の曲は基本的には演歌に近いからか、それとも歌手の性格なのか、私には、センチメンタルに過ぎるという印象が強い。


他の人の曲を余り多くは知らないので、独断ではあるけれど、沢田研二が歌う曲は、ジャンルとしてはジャズなのだと思う。


加瀬邦彦作曲の「追憶」が、私は特に好きだ。


エレキギターのやるせないソロが、さりげなく始まり、突然、タンタン、タンタタン、タンタン、タンタンと、まるでメロディであることを忘れさせるかのごとくに、強調されたリズムが出てくる、その前奏の斬新さ。


歌詞は切なく、メロディも感傷的なのだけど、演奏がダイナミックで、リズムの切れがよいからなのか、ドライで客観的に聴こえてくる。


大野克夫作曲の「時の過ぎゆくままに」も、退廃的でもの悲しいエレキギターの旋律が、頻繁に出てくるにもかかわらず、聴こえてくる印象はどこかさめている。


沢田研二が、そのなまめかしい表情とは裏腹に、淡々と歌っているのも、かえってまっすぐ胸に迫ってくるのだろう。


分野を問わず、感動を与えてくれる作品には、何かこちらの予想を裏切る、それなりの驚きがあるのだとつくづく思う。

分前に、Anderson & Roe という、ピアノデュオの演奏を、ユーチューブで偶然見つけた。


その映像では、ピアソラの「リベル・タンゴ」を弾いていて、若い奏者が自分達で連弾用に編曲したものらしい、極めてユニークな演奏だった。


プロモーション・ビデオという感じで、それも自作だったのかも知れない。


まず、男性ピアニストが一人で演奏を始めるのだが、相手の女性ピアニストは立ったまま、伴奏の音が出てくる部分の弦を、手のひらで押さえている。


その為、その部分の弦だけからは余韻の殆どない響きが出てくるので、あたかもチェンバロか何か、他の楽器と合奏しているかの様に聴こえてくるのだ。


そのうち、女性が左手は弦を押さえながら、右手で低音や高音を弾き加えてゆき、次第に連弾らしい音の厚みが出来上がっていく。


最初は、意表をつく奏法で驚かせるのだが、本来の姿勢に戻って弾き始めたその演奏は、更に意表をつく素晴らしい技術力で、たちまち惹きこまれた。


ネットで検索してみたら、ジュリアード音楽院で学んだ若い二人の様だったが、既に来日経験もあるらしい・・。


その後、暫くは忘れていたのだが、最近キリ・テ・カナワ繋がりで、二人の演奏する「ヴォカリーズ」の映像に出会った。


「リベル・タンゴ」の頃に比べて、二人とも年齢を少し重ねているし、その演奏姿も、正統的な素晴らしいデュオ奏者に変貌していた。


ゼルキンの演奏に比べて、やや遅めのテンポで始まって、それは悲哀のこもった、実に美しい演奏だった。


この演奏でも、上のパートが男性で、旋律を繊細に繊細に、まるですすり泣くかの様に優しくかなでている。


一方の女性の響きは、母なる大地といった風なスケールの大きな間の取り方で、豊かな音色の低音や、中声部のメロディも、ゆったりと聴こえてくる。


ジュリアード仕込みの二人のタッチは、切れも素晴らしい。


ユーチューブならばこその、貴重な出会いであった。


名前は、特徴があるので昔から知っていたけれど、どんなソプラノなのかはつい数年前まで知らなかった・・。youtubeとは、実に偉大である・・。


ある時、ロシアのピアニスト、ギレリスの演奏の映像を見ていて、多分アンコールに弾いたのだと思われる、ラフマニノフの「ヴォカリーズ」にすっかり心を奪われてしまった。


まさに、入魂の演奏だった。


それは、ピアノ用に編曲されたものだったので、楽譜を手に入れたりもしたが(残念ながら、手の小さい自分には演奏不可能の様であった・・)、そのオリジナルを、youtube で探してみると、キリ・テ・カナワの映像が真っ先に現れてきた。


キリ・テ・カナワとは、こんなにも格調高く、美しく、繊細に、言葉のない声だけの音楽を表現する人だったのか・・。


ギレリスのピアノよりもむしろ、淡々と歌っていて、でもこの上なく透明な響きである。


他の作品、フォーレの「夢のあとに」なども、抑制された中でしみじみと語りかけてきて、輝く様な高音域から、まるでメッツォ・ソプラノの様にも聞こえる低音域まで、実に自然に変化していって、高らかと歌い上げる様な事はしない。


今はまだ、その二曲だけを毎日繰り返し聴いているだけで満足しているけれど、オペラも歌っている様だから、これから少しずつ鑑賞の幅を広げていこう・・。



アファナシエフのピアノを最初に聴いたのは、ベレゾフスキーとの共演だった。


面白い演奏会で、チャイコフスキー・コンクールの覇者であるベレゾフスキーが、まずショパンの二番のピアノ協奏曲を弾いた。


凄いテクニシャンであるだろう事は予想がついたし、余り期待はしていなかったのだが、それは素晴しく瑞々しいショパンで、すっかり魅了された。


次に、ブラームス作曲ピアノ五重奏曲の二台ピアノ用に編曲したものを、アファナシエフと二人で演奏した。これは、余り印象には残っていない。


でも休憩時、自分の出番が終わったベレゾフスキーが、会場のサントリー・ホールのロビーにあるラウンジで、飲み物を注文しているのを見つけた時には、ちょっとびっくりした。


背が高くて明るい青年、といった感じで、2メートル位ありそうな印象だった。


後半は、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第五番「皇帝」。ピアノはアファナシエフだ。


演奏自体は特に強い印象も残っていないのだが、青白い顔でピアノの前に座り、オーケストラの演奏が続いている間、出番を待っている役者かの様に、ピアノの縁に手を置いて前かがみになったその姿は、何処か異様な雰囲気を醸し出していて、強烈な記憶として焼き付いている。


演奏に共感したという程でもなかったのに、その後、何度もコンサートに足を運んでいるのは、その異様さが気になったのだと思う。


小さめのホールで開いた、「クライスレリアーナ」という音楽劇も観に行った。


怪我か何かの理由で、演奏ができなくなったピアニストという役どころの一人芝居で、自作自演だった。


英語だから、勿論全部などはわからないのだが、かつての自分を追憶しながら自分の演奏したレコード、シューマンの「クライスレリアーナ」を途中で聴かせたりしながら、一人のセリフが続いていく。


4番目と、たしか6番目もだったと思うが、ゆっくりした曲はその場で生演奏もする。


「クライスレリアーナ」の全八曲はたしか、その数日前のリサイタルで弾いたばかりだったと思う。


実際には、あんなに素晴らしく演奏する現役のピアニストが、輝いていた昔日の日々を偲んだり嘆いたり、という脚本に、私は次第に腹立たしくなってきた。


勿論セリフの深い意味まで分からなかったのが、大きな理由なのだけど、私はその秋にリサイタルを控えていて、たまたまプログラムの中に「クライスレリアーナ」が含まれていたのが、その子供っぽい不快感の理由でもあった。


アファナシエフは、解釈が独特で、特にテンポに関しては、聴いているこちらが殆ど付いていけない程の、遅い設定をしたりする。


レパートリーは、ラドゥ・ルプーとかなり重なるけれど、ルプーの様に自然な中で聴こえてくる深い安らぎや味わいとは、異質である。


でも、個性が強いだけに熱烈なファンがいるらしく、彼の演奏会ではいつも一番前の真ん中の席に、飾りのついた大きな帽子を被った女性の姿があった。


10年位前に東京から転居してきた当地では、アファナシエフと何かのご縁があるのか、時々彼の演奏会が開かれる。


此処で聴いた、ベートーヴェンのソナタ「テンペスト」のテンポ設定は、ちょっと納得がいかなかったけれど、ホールの最前列に、又、くだんの飾り帽子を見つけた私は、アファナシエフの偉大さを間接的に見せてもらった気がした。


そして、アンコールの際にステージの上から、その女性に向って笑いかけた彼の様子は、あのいつもの異様な雰囲気からはかけ離れた、はにかみを含んだとも言える表情だったのだ。

アメリカに着いたのは10月1日だった。30年以上前の事である。


生後18ヶ月の娘と5ヶ月の息子と共に、親子四人がバスで新しい居住地の小さな大学町に到着したのは、その日の夕方だった。


ボランティアの文化が根強い土地柄だからか、大学のオフィスでは女性の事務員の人達が何かと気遣ってくれた。


まず、スーパーに連れて行ってもらって買った品物は、大量の紙おむつだったけれど。


数日後に落ち着いたのは、キャンパス内にあるアパートで、管理人のジョンさんが、「転居して行った人が置いていった、中古の冷蔵庫があるけど、買うかい?」と言ってくれたのも、二人の赤ん坊を抱える生活に同情してくれた為だったろう。


10月は居住者が入れ替わる時期だからか、お隣さんがやってきて「まずは家具を調達しなきゃ・・」と、主人を家具など貸してくれる大学の生協の様な場所へと連れて行ってくれた。


ぼんやり子供達と留守番をしていると、「私は、上の階に住むバーバラです」と素敵な女性が、かぼちゃを持ってやってきた。


「大学内の家族達でできている会の中に、”ウエルカム・ニューカマー”というのがあるので、ご案内に来ました」と言って、「これを、どうぞ」と、何故か、かぼちゃを渡してくれたのだ。


私は、ちょっとびっくりして「この辺は、かぼちゃの産地なのですか?」と、まず訊いてみたが、どうも見当違いな質問の様だった。


「日本では、よく茹でて食べるのですが、アメリカでは?」と重ねて訊いてみたのだが、アングロサクソン系と思われる上品なバーバラさんは、困った様に、「オーブンで焼くかしら。でも、これは食べないけど・・」、と何となく言葉を濁す様にして、帰って行った。


転居が日常茶飯事の場所だけあって、早速主人は、カーペットやベッド、ソファー等をワゴン車に積んで帰ってきた。大体の様子は既に聞いてきたらしく、前日アパートに入居が決まった時点で、ワゴン車をレンタルしてきていたのだ。


そのアパートの南側は、一面に芝生が広がっていて、その先にはボート部の練習用に作られた、細長くて川の様に見える湖がきらきらと輝いていた。


ランドリーや、子供達が遊べる広いプレイルームのある、明るい半地下から外に出るとすぐ前には、プレイグランドと呼ばれる、ブランコや滑り台や砂場のある小さな公園があった。


子供達と一緒にそこで遊んでいると、すぐにママ友が数人できて、アパートの子供達が一緒に遊ぶ「プレイグループ」があるのだけど、良かったら入りませんか、と誘われた。


そこで、初めてハロウィーンの行事について聞かされたのだ。


「子供達が仮装して、各戸を回ってお菓子をもらうのよ。Kマートに行くと仮装用のコスチュームがいっぱい売ってるから、貴女も子供達に着せてみたら?」


と、具体的なことを聞いたのは、ハロウィーンの直前だった。


Kマートで、セサミストリートに出てくるアーニーの衣装を見つけて、親は楽しみにしていたのだが、訳の分からない1歳半の、とってもシャイだった娘が、喜んで着たがる筈も無い。


早目に手に入れて、事前に慣れさせるという知恵もなかったまま、途方に暮れているうちに、夕方になって少しずつドアのノッカーを叩く音が聞こえ始めた。


子供たちが、それぞれに仮装して現れては、「チェックァ トゥリー!」と叫ぶのだ。


何なのだ、これは・・。口々に叫ぶ子たちに、「なんて言ってるの?もう一度言ってみて・・。」と訊くのだが、当然ながら「チェックァ トゥリー」と、繰り返すばかりだ。


一応教えられたように、用意してあったキャンディ等を渡していると、そのうち娘はそれを見ていて、どうやらアーニーの衣装を着るとお菓子が貰えるらしい、と納得した様子で、何度めかの私の誘いにやっと応じて、赤と青と黄色の縞々のコスチュームを着てくれたのだ。


ご近所の開いたドアの前で、嬉々とした私に抱えられて、気後れしながら持っている袋を差し出した娘に、ご近所さんは「ハッピー ハロウィーン!」と言って、優しくキャンディを中にいれてくれた。


そして初めて気づいたのは、キャンディーを用意してあるお宅の窓際には、種を繰りぬいて、顔の形に穴を開けて、その中にろうそくを灯した、大きなカボチャが飾ってある事だった。


あの贈り物は、そういう事だったのか・・。

新しい土地に住むのは、長い旅行の様で、毎日が新鮮である。一方で、現地の住民としての生活もあるのだから、経験としてはかなり面白い。


アメリカには主人の仕事関係で移り住んだので、音楽とは全く無関係な環境から、その土地での生活は始まった。


生後18ヶ月と5ヶ月の二人の赤ん坊を抱えて、若かった私達はキャンパス内のアパートで荷をほどいたのだった。


着いてまず教えて貰ったのが、紙おむつを売っているお店だった。ピアノどころではなかった・・。


でもボランティアの社会だからだろうか、赤ん坊と一緒にいると色々な人が声をかけてくれたし、ママ友も少しずつできてきた。


そこは東部の大学街で、ちょっと特殊な社会だったのかもしれないのだが、「子供が何歳になったら、仕事に戻れるだろうか」と言うのが、赤ん坊を連れた母親たちの、第一の話題だった。さすがウーマンリブの国である、と私は感心したのだが・・。


そんな訳で、何をしている人、あるいは何をしていた人か、と言うのは、自己紹介で真っ先に語られる内容だった。


皆、自分自身の時間を作るのに苦心していた頃だから、「お互いにベビーシッターしましょう」と言うのは自然の流れであった。


それは、30年以上前のことだったが、若いお母さん達は将来を見据えていたのか、こぞって「コンピューター・スターディー」のクラスに通っていた気がする。


皆、集中して勉強のできる時間を探していた。


私も取りあえず、ピアノを調達した。Weber というブランドのベビーグランドだったと思う。


ある日、練習を聴いていた主人が「友達でも招んで、聴いて貰ったら?」と言う。


その頃主人と同室だった人は、カリフォルニアの大学から来て、サバティカルで1年間滞在している、見上げる程長身の教授だった。


短期滞在者用の同じアパートに住んでいて、奥さんのヴァイオレットさんが買い物など何かと助けてくれていたので、クリスマス前のある日、「ピアノを聴きに来ませんか」と電話してみた。


海外に住むと、常識という枠がゆるくなって、思わぬ行動力が顕れてくる気がする。


早速遊びに来てくれた彼女は、「是非コンサートをして、他の人達にも聴かせてあげましょうよ。貴女にその気があれば、できる事はお手伝いします」と言ってくれた。


「私に手伝って欲しい事を、リストアップしてご覧なさい」と、てきぱきと協力してくれたのだった。


幸か不幸か、彼らの滞在期間が終わりに近づいていた事もあって、それから急いで情報を集めてくれたらしい。


大学の中に、「フレンズ・オブ・ミュージック」という団体があって、そこが時々、コンサートを主催しているらしい。どうやら年明けに出演者を選ぶオーディションがあるという。


たった一筋ではあったが、音楽を通しての繋がり見えてきて、私はママ友達に協力して貰いながら、練習を始めた。


続けての出産と子育てと引っ越しで、ピアノを弾くゆとりもない生活が続いたので、指先が弱くなっていて、すぐに割れてしまい、バンドエイドを張らなければ、痛くてピアノが弾けない様な状態がずっと続いた。


今までの人生で初めての経験だった。


その大学には、音楽学部があって、オーディションでは、そこの先生たちが5人位並んで審査をしていた。時代別の曲を、4曲くらい弾いたと思う。ウィーン・アカデミーでの入試の感じに似ていた。


弾き終えたら、すぐその場で「私達は、貴女を推薦しますので、帰りに事務担当のところに寄って、演奏会の日どりを決めて行って下さい」という、いともあっさりしたものだった。


担当のおばさんが、「このあたりが、ホールの空いている日ね」と、日程表をみせてくれた。そして、通りがかった審査員の一人を、何かの用事を思い出したのか「ピーター!」と呼び止めたのには、ちょっとびっくりした。


それが、私の見た、フランクそうなアメリカの社会だった。


私が通っていた高校は、県立の女子高で、昔は○○高女と言われていた、よく言えば伝統のある、端的に言えば保守的な校風が、まだまだ残っている学校であった。


例えば、映画を見に行くにも、喫茶店に入るにも、保護者と一緒に、といった類の規則が沢山並んでいたのだ。


ピアノに打ち込んでいた私は、高校時代に映画を見に行った記憶は殆どないけれど、周りには、色々工夫して映画に通っている友人達も、結構居たようだった。


どうやらその当時は、プレスリーの人気が高かったらしく、週明けの休み時間にはそんな話題でよく盛り上がっていた。その中でも宇須井さんは「プレスリーが歌っている時は、顔を見ない様にして目をつぶって聴いてたわ」などと、特に熱心に話していた一人だった。


電車通学だったのだが、乗り換えのターミナル駅の上は、ショッピング街になっていて、その中には大きな本屋さんやヤマハの支店等もあったので、真面目な私達も時々は途中下車して、お店をのぞいたりしていたものだった。


一度、宇須井さんと一緒にヤマハ店へ立ち寄った事があった。その日は、新しく発売されたばかりらしい、チャイコフスキーのピアノコンチェルトのレコードが、棚の上にディスプレイされてあった。


それを見た彼女は、何とお店の人に、「あのレコードを見せて下さい」、と頼んだのだ。


当時のレコードは、女学生が学校帰りにふと思いついて気軽に買える様な、安価なものではなかったから、私はちょっと驚いた。


ところが宇須井さんは、ジャケットに入ったそのレコードを、暫く胸に抱きしめてから、「どうも有難うございました」と言って、丁寧にお店の人に返却したのだ。


世間知らずだった私は、宇須井さんの行動力と、芸術に対する真摯さに圧倒されてしまった。


そのうちクラスが変わって、余り交流は無くなったのだけれど、大学に進学して数年過ぎた頃、東京へ通う電車の中で、ばったり宇須井さんに出会ったことがある。


彼女は大学へは行かず、御茶ノ水にあるアテネ・フランセでフランス語の勉強をしていて、その時は既に最終コースに在籍しており、終了するとパリへ留学するという道があるのだ、と言う。


アテネ・フランセは、私も大学三年の頃、講義の数が減って少し暇になった為、数か月間フランス語講座に通った事のある、東京でも有名な語学学校である。


でも、その頃東京の隣の県に在住していた私は、大学の無い日にもわざわざ一時間以上もかけて通うのが負担になってしまって、結局途中で辞めてしまった、という情けない経験がある。


大学生にはなっても、サークルなどのカレッジライフを満喫している女子大生が多い時代に、遠距離にあるその語学学校にきちんと通い続け、最終コースまで完走間近だという、意志の強い彼女に、私は又々圧倒された。


私がウィーンへ留学する時には、既にパリに住んでいた宇須井さんに、留学生活の様子を教えて貰ったりした記憶もあるので、手紙のやり取りはあったのだろう。


ウィーンで勉強をして何年か経った頃、母がヨーロッパ旅行でウィーンへやってきて、私もパリに同行した事があった。


オペラ座の近くをお散歩していたら、「三越デパート」という看板が見え、懐かしくて中へ入ってみた。


母と、「宇須井さんも、こういった場所でお買い物なんかしてるのかしらねえ・・」等と話していたら、噂をすれば何とやら、じゃないけれど、まさにその宇須井さんが、そこで誰かと話しているのに出会ったのだ。



フランス人と結婚して、今は女の子のお母さんなのだと言っていた。でも、毎日家にいても退屈なので、時々お子さんをお姑さんに預かって貰って、三越に手伝いに来ているのだ、という話であった。



洋画の好きだった女子高生が、西洋に住むことを目的の一つとして語学を学び、ひたすら自分の思った道を歩んできて、今はフランスで家庭を築いている。

宇須井さんの初心貫徹で行動力のある姿勢はとても強烈で、私はその後も幾度となく思い出しては、密かに自らを鼓舞したものだった。

私がピアノを始めてから、今日までの60数年間。言ってみれば、人生の傍らには、いつもピアノの音色があった。


ピアノという楽器は本来独奏楽器だから、楽器と向かい合っているその長い時間は、基本的には「一人ぼっちの作業」という事になる。


まあ、うがった言い方をすれば、ピアノを弾いている時間は常に作曲家と対話している様なものだから、別に孤独感にさいなまれている訳では無いのだけれど・・。


でも例えば、買い物をしている時など、何気ない場所で、突然ピアノ以外の音が聴こえてきたりすると、何故かとても懐かしい気持ちになってくるのだ。


予想外の場所で、ヴァイオリンや管楽器の曲が聴こえて懐かしくなるのは、きっとそれらの響きが、学生時代の様々な友人達との合奏の思い出に繋がっているからなのだろう。


今日スーパーで聴こえてきた、バッハのヴァイオリン曲、無伴奏パルティータのガボット。あれは誰の演奏だったのだろう・・・。樫本大進、的な演奏だったなあ・・。


弦楽器はピアノとは違い、その弓の使い方によって、息遣いの様なものまで伝わってくるから、響きがどことなく生々しい。


それはまるで、耳元で囁かれている様なバッハだった。


バッハといえば、先日観た「そして父になる」という映画。そこで聴こえてくるバックミュージックは、殆どピアノソロで、その使い方が実に素晴しかった。


始めは、ツェルニーが作曲した練習曲の中の一曲。幼い子供たちがよく弾いている練習曲で、そこから無邪気な世界が浮かび上がってくる。


そして、いよいよ話が本題に入る頃、バッハの「ゴールドベルグ変奏曲」のアリアがゆっくりと聴こえてくる。


主題と33の変奏が続く、あの長大な曲の冒頭が、グレン・グールドの無垢な音で、ゆったりと演奏されるのだ。


不眠症で悩んでいた伯爵の為に書かれたともいわれる、つまり眠気を催す程に延々と続くあの曲が、グレン・グールドの澄んだ音で、穏やかに聴こえてくると、際立ってシンプルなテーマから始まるこの至難な曲の先行きが、まさにこれからの話を象徴している様で、万巻胸に迫る、といった気持ちに包まれたのだった。


ニュートラルな筈のピアノの音色が、それもバッハという古典の作品が、これ程にも映画音楽として感動的であったとは・・。


「抑制された表現こそが、感動を与える」といった、典型的な逆説としても、それは実に見事で効果的な曲の選択であった

10数年前、主人のお供でポルトガルへ行った。滞在地は、リスボンからは車で一時間位の距離にある、古都シントラ。


一週間くらいの滞在中に、色々な場所を案内してもらった印象として、昭和三十年代の日本の環境にも似た、まだ貧しさは残るものの、それなりに落ち着いた街並みに、どこか親近感を抱いたものだった。


代表的なポルトガル音楽であるファドも、遠くへと航海に出た男性達を思う女性達の悲しい歌の様で、日本の演歌にも通じるその暗い音調は、かつて大国であった歴史を抱えるポルトガルの人々の民族性を語る様で、どこか懐かしさも感じられた。


主人が仕事を終えて帰国した後、私は数日居残って、一人旅をした。


一日目は、電車で数時間北上して、ポートワインで有名なポルトへ。たった一人で、言葉もわからない国で電車に乗っているのは、結構刺激的であった。


標識も、英語で表記されている場所は余りなくて、とにかく頼りは、予約したポルト市内のホテルの住所だけだった。


電車は夕方に着いたので、取りあえずホテルにチェックインした後、街中へ散歩に出かけた。まずは、ガイドブックに載っていた、大きな教会へと向かった。


素敵な教会だったので、中に入ってみようとしたら、若い女性に「今は、立ち入り禁止です」と、止められた。


今、って・・?


と、聞き返してみたら、「ちょうど今は、中は貸切にして結婚式をしているのですよ。 もう、10分くらいすれば、終わると思います」という、話だった。


立ち入り禁止告知係だったらしいその女性は、暇だったのか、それとも日本人が珍しかったのか、暫く私の話相手になってくれた。


有名な教会で結婚式を執り行うというのは、何だか素敵だな、そんなことが可能なのか・・。この教会の、信徒なのかしら。


といった、私のロマンチックな疑問に対して、彼女の答えは「いいえ。教会が、時間制で、レンタルしているのです」と、実に現実的なものであった。


どの位の、レンタル料なのですか。 と、訊ねてみた。その頃はまだ、ユーロが導入されていなかったのだが。


「えーと、エスクードを米ドルに換算すると・・・」と、彼女が苦労して計算して、提示してくれた数字を、更に私が円に換算すると、大体二時間700万円位の数字だった。


そして間もなく、式を終えて、教会から新郎新婦と、親族とか、お仲間たちが、ぞろぞろと正面玄関の階段を降りてきた。


どんな人たちの集団なのかしら、と私は暫く眺めていたのだが。


彼らの様子からは、レンタルの数字なんて気にも留めないといった風な、身なりもさることながら、顔立ちや全体の醸し出す雰囲気が、一見にして伝わってくる、選ばれたる者達特有の上品さで、まるで其処だけが違った世界かの様に思われたのだった。

 

それが、ポルトでの第一日目。


ポルトは、崖の様に切り立った海岸にそって、開けた街らしかった。


高台にあった街並みから、海岸線へと、階段を降りて行ってみた。ポルトガルの代表的な魚料理、イワシの炭焼きのにおいがする、地元のレストランに入ってみた。


皆が、つけっぱなしのテレビを眺めている様子は、まるで、日本のラーメン屋さんの様であった。


そのうちニュースが始まって、アジアの何処かで、大火があったらしく、電信柱や電線が入り組んで、混雑した感じの街並みが映し出されていた。


説明は勿論わからないのだが、映像はその国から送られたものだったらしく、そのうち、「東京、歌舞伎町で出火」 という日本語の文字が画面に現れて、びっくりしてしまった。


日本の街並みを、客観的な視線で見た印象は、何とも悲しかったなあ・・。