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還暦過ぎたピアニスト

青が好き。色も、響きも、そしてその意味も。若々しい躍動的なイメージがあり、未熟な初々しいイメージもある。「ヨーロッパの赤には、青が一滴」という発想も素敵だと思う。シニアになった今も、できれば青の近くで、楽しみたい・・。

何となく、ユーチューブで聴き始めた、クレーメルが弾くバッハの「シャコンヌ」


クレーメルの表情がとにかく凄い。


全く自我の無い表情というのだろうか・・。


音楽が、クレーメルの肉体を通り越して、ヴァイオリンという楽器に過不足なく伝わってきている、とでも言えばよのか?


無伴奏ヴァイオリンの「シャコンヌ」は、学生時代から数限りなく、と言える程聴いてきたけれど、こんなに引きこまれた演奏は初めてだ。


全ての音、長い音、強調される音、短く弾む音等々、それらが全て説得力を持って、全体の作品を形作っていき、聴いているものを捉えていく。



最高の表現力と、最高の理解力をもち得た人が、作品に対して絶大なる敬意をもって演奏した、絶品。


シューマンが、まだ無名だったショパンを世に紹介したという、あのフレーズが、聞こえてくる様だ。


「諸君、脱帽したまえ。天才だ!」


15年位前の事だけれど・・。


20数年ぶりに訪れたウィーンで、最初に聴いた演奏会。


その日は、ラトルの指揮でウィーンフィルの、リヒャルト・シュトラウスの「メタモルフォーゼン」邦訳では「変容」という作品から、始まった。


20数年間、「又、ウィーンの楽友協会で、ウィーンフィルの、リヒャルト・シュトラウスが聴きたい!」というのが、殆ど悲願の様であった私にとって、それは期待をはるかに上回る演奏であった。


「23の独奏弦楽器の為の」、と作曲者によって書き加えられたユニークな鎮魂の曲。


まず弦のハーモニーが静かに響き、チェロが控えめに下からメロディーを奏でて、又滑る様にハーモニーの中に溶け込んでいく。


弦楽器が重なり合いそれが又行き交い、23人の音色に楽友協会黄金ホールの豊かな響きが共鳴して、それが聴いている我々の身体全体に静かに沁み渡っていく様であった。


ウィーンフィルのリヒャルト・シュトラウスは、特別である。


私の中では、基準がそこにあるので、他のオケの演奏を聴いても、どうしても何か物足りない気分が残ってしまうのだ。


匂い立つような、ともよく言われるけれど、「薔薇の騎士」の序幕などは、まさに客席にほのかな香りが漂ってくるかの様である。




ある人が、ジャン・コクトーの「恐るべき子供達」の本を貸してくれた。


それも、「大分前に読んだ時、面白さがさっぱりわからなかったんだけど。しばらく時間も経ったので、印象が変わるかなと、又最近読んでみたら、やっぱり面白くないんですよ・・。」という、注釈つきで。


私は、その題名は知らなかったのだが、ジャン・コクトーと言えば20世紀前半の芸術家たちの中では、欠かせない詩人の名前だし、丁度少し前にパリのオペラ座で、「若者と死」という、コクトーの戯曲でローラン・プチ振付、音楽がバッハのパッサカリア(!)というバレーを見たばかりだった事もあり、ちょっと興味はあった。


確かに、読み進む気持ちが余り湧き出てこないタイプの文章で、翻訳のせいかなとも思い、せっかくだからamazonで、新しく他の人が訳した二種類の翻訳と更に漫画版をも取り寄せて、なんとか読んではみたものの、原題名の「アンファンテリブル」という言葉以外に、たいした印象は残らなかった・・。



今日久々に、「画家マティス」のCDを聴きながら、解説を読んでいたら、何とヒンデミットは、当時「アンファンテリブル」と、位置付けられていたらしい。


まあ、ヨーロッパで使われるこの言葉の響きには、極東に住む私には想像ができない様な、何らかの背景でもありそうな気はするのだけれど。


関連して思い出したのが、昨年の暮れに、三谷幸喜演出で鈴木京香が演じる一人芝居、コクトーの「声」が、上演されたらしいニュースだった。


東京に住んでいたら、必ず見に行っただろうなあ・・。


それこそずーっと昔。


杉村春子だったか岸田今日子だったか、電話をしながら一人で芝居をする、という記事を何かで読んで、その記憶がずっと何処かに残っていたのだけれど。


それが、コクトーの「声」だったのだ。


せめて、脚本でも手に入らないものかと、amazonで探してみたが、残念ながらみつからない。


年齢を重ねるという事は、分相応に、諦めるべきは諦めて、穏やかに生活するという事なのだろう。


まさか、「シニアテリブル」という訳にもいかないし・・。




追記:

「声」の脚本を、今ネットで検索してみたら、簡単に到達。しかも、あっという間に印刷ができてしまって、何だか茫然としている。便利さに圧倒されて、まだ読み始める気分になれないのだけど・・。



ベルリン・フィルが、ソニーと提携して、デジタルコンサートというサイトを開いている。


リアルタイムで演奏会の映像が見られるし、アーカイブとして何度でも繰り返し見る事が出来るシステムだ。


昨年の大晦日のコンサートで、ランランがサイモン・ラトルの指揮で、プロコフィエフの三番のピアノ協奏曲を演奏していたのが魅力的で、会員登録した。


アーカイブを見ると、相当前の映像も出てくるし、様々なインタビューもあって面白い。


サイモン・ラトルの様にネイティブな英語は中々私には難しいけれど、外国語として話している人達の英語は、内容が演奏会のプログラムに関する事が多いので、何とか様子は想像がつく。


昨日みた、ヒンデミットの「画家マティス」に関して、指揮をしたヘルベルト・ブロムシュテットが解説しているのを聞きながら、以前ヒンデミットのソナタを初めて勉強した頃を、懐かしく思い出した。


数十年前、私はヒンデミットの三番のソナタを中心にプログラムを組んでリサイタルをした事がある。


丁度恩師が日本に滞在中で、毎週レッスンを受けていた頃だった。


先生は、いい曲を思いついたよ、という感じで、「ヒンデミットのソナタ三番が、君に合うと思うから、是非やってごらん」とアドバイスして下さったのだ。


ハンガリー出身の先生は若い時にエドゥイン・フィッシャーに見出され、ベルリン音楽大学のフィッシャーの教室で学ばれていたのだが、その当時ヒンデミットの授業も受けていたのだ、という。


その頃の私の中では、ヒンデミットという名は、作曲家と言うよりは、ソルフェージュの時間に使っていた「音楽家の基礎練習」という教材を書いた人、位の知識しかなかった。


まだネットが普及する前の頃で、当時教えていた音大の図書館で調べてみても、余り多くの資料はみつからなかった。


そんな時、先生が「グリューネヴァルトの絵を見た事があるかい?」とおっしゃったのだ。


「ヒンデミットのオペラ『画家マティス』の主人公の名前でね。オペラが初演された時には、皆でチューリッヒまで見に行ったものだった。長~いオペラだった」


確かに、ヒンデミットの代表作の名前としては知っていたが、その画家はフランスのアンリ・マティスだろうと漠然と思っていたのだった。


やっと手がかりが見つかった思いだった。


マティアス(又はマティス)・グリューネヴァルド。15~16世紀の宗教画家で、彼の生涯については余り詳細はわかっていないらしい。


『イーゼンハイム祭壇画』の作者としてその存在が知られていて、それは、ドイツのコールマールにある教会の祭壇画であった。現在は美術館に収められているそうだ。


当時一緒にレッスンを受けていたクリスチャンの仲間が、ミッションスクールの図書館から画集を借りてきてくれた。それは既に絶版となった画集であった。


聖アントニウスの試練、という絵の青の色が鮮やかだったのが今も印象に残る。青の色を出す画材は高価なので、特別な人の衣類の色に使う、といった話を聞いたこともあるが・・。


ヒンデミットは、この画家を主人公としたオペラを、自ら脚本を書いて完成した。


「権力者の為に描くことをやめて、農民たちと共に戦ったという内容が、ナチス政権の忌避を買った」と、wikipedia に記述されている。


その結果初演は、フルトヴェングラーが指揮してベルリンフィルの予定だったのに、取りやめとなってチューリッヒで行われたらしい。



交響曲「画家マティス」は、このオペラを作曲家自身が再構成して、仕上げた演奏会用の作品である。



交響曲も、私はまだ残念ながらCDでしか聴いた事がないのだが、最近はヒンデミットの作品が取り上げられる機会が増えているので、アンテナを高く張っていれば、そのうち出会えるかもしれない。






時折お邪魔する教会で、オルガンの練習ができるという素敵なニュースを聞いた。


オルガンを弾く事ができるなら、やはりバッハのパッサカリアに挑戦してみたい。


譜面を見てみると、フーガに入る直前まで足鍵盤は、殆どパッサカリアの主要テーマの繰り返しなので、もしそこがクリアできれば、マニュアルの鍵盤は何とかいけるかも知れない、と能天気に計画してみた。


まだ実際にそこのオルガンに触ってはいないので、キイの重さや足鍵盤の位置などはわからないなりに、最近は毎日ピアノで練習しているのが何とも楽しい。


真面目な私のことだ、なんとか頑張れば前進していくのでは、と密かに思ってはいるものの、両手の動きに加えて足を動かすというのが、こんなに複雑だったとは・・。


「66の手習い」という訳だから、それなりに大変な事だし、無謀な選曲なのは勿論承知だ。


でも、最近私の処に習いに来てくれている同世代の人たちにも、せっかく弾くなら遣り甲斐のある曲にしましょう、と勧めているのだから、自分も実践したいと思う。


8小節ずつ20曲続く変奏を、毎回一曲をという課題にして、二年がかり位を目標にして・・。


先日新聞で、モーツァルトのクラリネット協奏曲に感動した実業家だったか、一念奮起10年がかりで仕上げて、最近オケをバックに演奏したと、ご自分の事を書いている記事を読んだのだが、多少啓発された処があるのかも知れない。


一応自分は、鍵盤楽器奏者ではあるわけだし・・。

先日、ヒンデミットのソナタを弾く機会があって、主要作品の事を調べていたら、歌曲集「マリアの生涯」の題名を久々に目にして、この曲全曲を、リサイタルで歌われたかつての恩師を思い出した。


私がまだ高校生の頃、受験の為にソルフェージを教えて戴いていた先生で、演奏会には行けなかった気がするのだが、リサイタルのプログラムが、ヒンデミットの「マリアの生涯」全15曲、という画期的なあのポスターは今でも目に浮かぶ。


全曲作品だけで、リサイタルのプログラムを組まれた、先生の高い志と、それを支えるご自分に対する自信と、更にそのセンスの良さ。


若かった私は、その先生の姿勢に強い影響を受けたし、それから後自分が演奏会を開く時にも、よく先生を思い出して、密かに目標に掲げてもいる。


日本歌曲の女声演奏家として、第一人者である先生は、多くの曲を初演されているばかりか、先生が歌うことを前提に作られた曲も、数知れない事だろう。


久々に、先生のお名前をネットで検索してみたら、2010年に喜寿を記念したリサイタルが、先生が長く教鞭をとっておられた母校の大学のホールで、開催されたらしい。


それで、思い出したのだが、今から15年位前だろうか・・。先生が東京文化会館でリサイタルを開かれるのを知って、一人で聴きに行った事があった。


いつもの様に、日本の現代歌曲が並んでいて、中には私の知っている懐かしい曲もたくさんあった。


遠くから眺めた先生のお姿は、その声と共にまるで衰えを知らず、その演奏からは、一段と風格を増していらっしゃる様子が、よく伝わってきた。


私の座席の周りには、どうやら大学関係者や作曲家の関係者が多かった様で、お互いに親しげな言葉を交わしていたが、休憩時に前の席にいた人がふと振り返ると、何と彼女は学生時代によく顔を知っていた作曲家であった。


そして、彼女が話かけた私の隣に座っていた人は、学生時代、憧れの的だった有名な作曲科の先輩で、今は母校で教えているらしかった。


卒業以来、すっかり作曲の人達とは疎遠に暮らしていたので、まるでタイムスリップしたかの様であった。


その気分を引きずって、演奏会が終わった後、懐かしさのあまり楽屋へ向かい、先生にお会いしようする人達の列に並んだ。


ご無沙汰を重ねていて、覚えてらっしゃらないかもと思いながら、順番が来て「先生、お久しぶりで・・」と申し上げると、何と先生は即座に「クビコさんでしょ。」とおっしゃったのだ。



そう、学生時代、私はまだ痩せていて首も長く、しかも名前の漢字がクビコに似ていた事もあり、先生の薫陶を一緒に受けた作曲科の学生達から、そう呼ばれていたのだった。 

「大きくなってピアニストになれたら、最初に演奏会で着る、床まで届く長いドレスは、おばあちゃんが作ってあげるからね・・」


私が幼かった頃、それが祖母の口癖だった。


初孫だった私には、色々プレゼントをしてくれた祖母だったけれど、イヴニングドレスを着た孫の姿を夢見るのは、きっと祖母にとって大振袖でも誂えるのに似た気分だったのだろう。


でもたまたま私が、故郷から東京へ転居する際に記念のリサイタルを開いたのが中学二年生だったので、場所もアメリカ文化センターという地味な会場だった事もあり、最初に祖母が作ってくれた演奏会用のドレスは、中学生らしく白いブラウスにプリーツのスカートだった。

 

そんな訳で、初めてイヴニングドレスを着たのは、大学を卒業した直後、日比谷公会堂で開かれた新人演奏会の時だった。


在席していた大学が地味な雰囲気だったのか、学内の卒業演奏会も含めて、それ以前にイヴニングドレスを着た記憶はない。



大体当時は、イヴニングドレスなるものを、どうやって手に入れてよいのかもわからなかった。


唯一の情報は、前年新人演奏会に出場した先輩が、殆どの人がオレンジとかピンクの綺麗な色を着るから、少し濃い色の方が映えると思う、というアドバイスだった。


私が大学入試前に、ソルフェージを教わっていた先生は、その頃は第一線で活躍するソプラノで、私にとっては最も身近な現役演奏家だった。


その実力は言うに及ばず、曲目の構成や、チラシとプログラムと本番でのドレスの色を、全て統一したり等々、いつもその格調の高い華やかさに、憧れを抱いていたものだった。


結局その先生に相談すると、大きな舞台では上質な生地を使っても、かえって地味にしか見えない。絹よりもテラテラ光る人絹を、本レースよりもカーテン用のごわごわしたレース生地を使うと、遠くからは豪華に見えるのだ、ということだった。


その頃、浅草橋に沢山並んでいた、浅草辺りのレビューで踊る人達が利用するお店を教えて下さったりもした。


最終的に私は、明るい空色のよく光る胸までの長いドレスを内側に来て、その上に黒いレース地のノースリーヴ・イヴニングを重ねて着た。


動く度に、黒レースと中の青色ドレスが揺れて、微妙に変化するのが、デザインしてくれた人のテーマだった。私の演奏した曲が、ラヴェルの「夜のギャスパール」だったので、そこから発想されたアイディアだったかもしれない。


その夜は演奏前に、全国から集まった新人達が広い舞台に並んで紹介されたのだが、華やかな明るい色が多い中で、ちょっとした加減で黒と青が交錯する私のドレスはひときわ目立ったと、皆に言われた。


それが私の、イヴニングドレス・デビュー。


それから数年後、留学から帰って来て、東京文化会館で初リサイタルを開いた際には、デパートで簡単にドレスが手に入ってしまって、時代の流れを感じずにはいられなかった。

南アフリカへ行った。


ガイドブックに寄れば、ヨハネスブルグは世界一治安の悪い地域だと説明されていた。ケープタウンは世界で第三位。


主人のお供で出かけたのが、まずケープタウン市郊外。


開催された会議も、指定された宿泊施設も、市内からはかなり離れた場所に建つホテルで、公共の乗り物には乗らない様に、又単独行動を避ける様にと、まずアドバイスされた。


会議の開催中、同伴者として来ていた私達は、仲間を募って車をチャーターし、一緒に観光へと出かけた。


初日は、一日かけて喜望峰へ。


昔、教科書で学んだその地へ行けた事は、天気に恵まれ素晴らしい景観だった事とも相まって、ちょっとした感激だった。


ガイドをしてくれたのはベルギー出身の中年女性で、南アフリカの歴史の当事者ではないせいか、説明も客観的だった。


「南アフリカの人口のうち、80パーセントがブラック、9パーセントがホワイトで、11パーセントがカラードです」


カラード、という言葉はその時しか聞かなかったが、初日だったせいか印象は強烈だった。


そんな風にカラードという言葉を聞くと、私がそれまで、いかに自分自身を「名誉白人」として位置づけていたか、思い知らされた様な気がした。


アパルトヘイトは、他人事であった。人種差別も、島国に生まれ育った自分からは、単なる観念的な問題に過ぎなかったともいえる。


翌日からは、南アフリカの白人女性がガイドする車で、ペンギンの保護地や植物園、ケープタウンの近くの観光地等を訪れた。


そのガイドさんは、非常にフレンドリーな雰囲気のある人で、私達乗客八人の名前と国籍もたちまち覚えて、「じゃあ、アナリス。あなたの国ではどう?」とか、「ランチの時間は皆さんに合わせましょう。ねえ、マリア。ドイツでは、普通何時がランチタイムなの?」といった会話を、折々挟んで和やかなムードを醸し出していた。


そのガイドさんの口からは、カラードという言葉は一度も出なかった。でもそれだけに、もし8人の観光客の中に、私ともう一人の日本人が参加していなければ、もっと忌憚のないところで話が弾んでいたのかもしれない、等と思った。


私たちが滞在したホテルの広大な敷地もそうだったし、白人達の住む高級住宅街では、庭の周りを高い塀で囲み、更に塀の上には高圧電線が張り巡らされていた。


観光客用のワゴン車は、どれもガイドは白人で運転手は黒人だった。


食事に入ったレストランでも、座って食事している人たちは白人で、仕事をしている人たちは黒人だった。


ホテルの食堂でも、信じられない程大勢の給仕人が居て、サービスは素晴らしったけれど、彼らの全てが黒人だった。


二週間かけた南アフリカ旅行は、次々と楽しい時間が続いたにもかかわらず、カラードの私にとって、常にどこか悲しい印象を拭いさる事はできなかった。

私の初舞台は、小学校入学前年のクリスマス・パーティだった。


師事していた先生は、発表会などはしない方針だったので、自分にとっては幼少時代で唯一残る、華やかな記憶だ。


昭和20年代終わりの頃である。


グランドホテルで開かれたそのパーティは、日常から離れた、さぞ煌びやかなものだったに違いない。


先生に手を引かれてピアノの前まで行った事や、ソナチネの7番を弾いたその時の感覚も、かすかに思い出すことができる。


何人もの大人達の演奏の中に、自分も一人前に参加して弾くのが、随分誇らしかったものだ。多分親が誇らしく思っていたのが、伝わってきたからだろう・・。


あれはどんな集まりだったのだろうか。


沢山の大人たちが、丸テーブルを囲んで座り、お食事をしながら、演奏を聴いていた様な気がする。


古めかしいホテルの、どっしりとした会場の記憶は、後で上塗りされたものかもしれないけれど・・。


はっきりした記憶は、帰りがけにアメリカ人のおばあさんが、「今も私の家にピアノがあったら、あなたに遊びに来て貰って、ピアノを弾いて貰いたいのに・・」と、屈みこむ様にして、分かり易い日本語で私に話かけてくれた、その場面。


レーンさんという名のその人は、街では有名な人らしく、ピアノは進駐軍に没収されたという話であった・・。


その数年後、私はその街の教育熱心な親たちが通わせる中学に入学した。


その学校では、色々新しい試みがなされていて、当時から英語は週に一度、アメリカ人の先生が来て教える授業もあった。その時の先生が、レーン先生だった。


少し慣れてきたら、思い出を話してみようか、と考えているうちに、先生は体調を崩して長く休まれて、そのまま退職されてしまい、残念ながら、親しくお話する機会は無かったけれど・・。


先日、その中学の同期会が東京で開かれ、欠席した私にも集合写真と共に、恩師の方々が並ぶ古い写真が、メールで送られてきた。


セピア色と呼ぶにふさわしいその写真の中央には、校長先生と並んで異国の老婦人がすわっていらしたのが、目をひいた。


レーン先生って、毅然とした学者タイプの方だったのだなあ・・。


先日、沢山たまった歌舞伎の「お筋書」と、歌舞伎会の会報「ほうとう」を、思い切って処分した。


何か、これは9年前に亡くなった中学の友人の思い出に繋がっている様で、なかなか捨てきれなかったのだが、あえて整理した。


思い出の歌舞伎座も無くなって新築され、勘三郎も団十郎も、富十郎も雀右衛門も居ない現在の歌舞伎界は、私にとってはまさに、はるか遠くになりにけりといった存在になってしまった。


最初に観たのは20代の頃だったけれど、はまったのは子供が育った後の50代。


「仮名手本忠臣蔵」の通し狂言で、私は前半の部を観たのだがきっかけだった。


塩谷判官が、今の藤十郎。大星由良之助が団十郎だった。


判官切腹の時に、由良之助がぎりぎりで駆けつけるあの場面で、様式美の魅力に開眼したのだと思う。


帰宅して、お筋書の間に挟まっていた、歌舞伎会入会の葉書きをすぐ投函した覚えがある。


その頃、中学の友人が末期がんだという知らせが入って、独身だった彼女を友人達10人位で支える事になり、その末席に私も連なった。


最初にお見舞いに行った時、彼女はパジャマの上に、透ける様なレース地の綺麗なピンクのショールをはおっていて、明るい青緑色に染めたちょっと長めの髪の毛と共に、まず私の度肝を抜き、病名からは想像できない程元気そうに見えた。


暫く話していたら、どうやら彼女は歌舞伎に相当詳しそうで、玉三郎に心酔している様子だった。


友人たちは、それぞれに分担をきめて、入院時に保証人になる人、緊急時には車を運転してくれる人、お医者さんの友人はシロートの質問を気軽にぶつけられる役を担ってくれたし、私は結果的に歌舞伎という共通の話題で彼女の日常の相手をする役割に収まったのだった。


彼女は中学時代、入学試験から卒業までずっと主席の座を守り続けたという伝説的な秀才で、でも大病院の一人娘だった彼女の様子は、体育の苦手なお嬢様にしか見えず、私とは体育の時間に後ろの方で一緒に小さくなっていた程度の接点しかなかったのだが、いざこの年になって話してみると、歌舞伎に留まらず嗜好が色々似ていて楽しかった。


一度は、玉三郎の舞台を観に、彼女を囲んで数人揃って、歌舞伎座へ行ったこともある。


出し物は忘れてしまったが、花道の側の席に並んで座っていた彼女の姿を見て、まだ若かった尾上松緑が、「あっ、みどり・・!」と、まるで心の中の声が聞こえてきそうな表情で、一瞬客席を見下ろしていたのを思い出す。



当時の私は、比較的時間が不定期にふさがっていて、音楽会にしても歌舞伎にしても、空いた時間を充てて出かけていたので、大体単独行動が多かった。



彼女と一緒に観に出かけたのはその時だけだったが、殆ど一か月の興業が続く歌舞伎は、各々が都合の良い日に観劇して、後で話し合うのが実に楽しいものだった。



翻訳業が彼女の仕事だったので、「長電話は、職業病なのよ・・」と言い訳をしていたが、その長電話は確かに有名で、中には勿論閉口している人もいた。



彼女を囲んだ輪ができた翌年、私は主人の仕事の関係で東京を離れて暮らす事になった.。でも、東京で教えていた音大には、毎週一晩泊まりで通い続けていたので、朝新幹線に乗ると、「今晩のご予定は・・?」というメールが、彼女からよく入ったものだ。



「仕事は5時半に終わって、その後は寝るだけ・・」等と返信すると、少したってから「○○さんにも、連絡が付いたから、6時半くらいに銀座で夕食はどう・・?」等と、アレンジしてくれた。


定期的に入院は重ねていたけれど、信じられないくらい元気そうだった。



しかし東京を離れた私が、皆の様には頻繁に会う事が儘ならなくなっていくうちに、少しずつ彼女の状態に変化が出始めてきた。そのうち、一人で暮らし続けるのが難しくなって、入院生活が始まった。


海老蔵が襲名した年だった。



私は、歌舞伎座で、「助六」を観て、名古屋の御園座でも「助六」をみて、京都の南座では「暫」を見た。



歌舞伎座では、玉三郎が相手役の揚巻を演じていて、それは素晴らしい舞台だった。


花魁の玉三郎が花道を出てきて、すっと反り返ったその瞬間、歌舞伎座の空気が一瞬止まったかの様だった。あれはちょっと忘れられない。



玉三郎に関しては、殆ど感想らしい事を彼女には言わなかった気がする。こちらが話すよりも、あちらの情報量が余りに多くて、圧倒されていたのかもしれない。



「入院している、彼女の代わりに・・」、程度の安易な気持ちで、南座へ海老蔵の公演を見に行った後、私がお見舞いに行ってその話をすると,彼女は言った。



「ああ、又、歌舞伎が観たいなあ・・」



それは、彼女が弱音を吐いた唯一の言葉だった。