先日、沢山たまった歌舞伎の「お筋書」と、歌舞伎会の会報「ほうとう」を、思い切って処分した。
何か、これは9年前に亡くなった中学の友人の思い出に繋がっている様で、なかなか捨てきれなかったのだが、あえて整理した。
思い出の歌舞伎座も無くなって新築され、勘三郎も団十郎も、富十郎も雀右衛門も居ない現在の歌舞伎界は、私にとってはまさに、はるか遠くになりにけりといった存在になってしまった。
最初に観たのは20代の頃だったけれど、はまったのは子供が育った後の50代。
「仮名手本忠臣蔵」の通し狂言で、私は前半の部を観たのだがきっかけだった。
塩谷判官が、今の藤十郎。大星由良之助が団十郎だった。
判官切腹の時に、由良之助がぎりぎりで駆けつけるあの場面で、様式美の魅力に開眼したのだと思う。
帰宅して、お筋書の間に挟まっていた、歌舞伎会入会の葉書きをすぐ投函した覚えがある。
その頃、中学の友人が末期がんだという知らせが入って、独身だった彼女を友人達10人位で支える事になり、その末席に私も連なった。
最初にお見舞いに行った時、彼女はパジャマの上に、透ける様なレース地の綺麗なピンクのショールをはおっていて、明るい青緑色に染めたちょっと長めの髪の毛と共に、まず私の度肝を抜き、病名からは想像できない程元気そうに見えた。
暫く話していたら、どうやら彼女は歌舞伎に相当詳しそうで、玉三郎に心酔している様子だった。
友人たちは、それぞれに分担をきめて、入院時に保証人になる人、緊急時には車を運転してくれる人、お医者さんの友人はシロートの質問を気軽にぶつけられる役を担ってくれたし、私は結果的に歌舞伎という共通の話題で彼女の日常の相手をする役割に収まったのだった。
彼女は中学時代、入学試験から卒業までずっと主席の座を守り続けたという伝説的な秀才で、でも大病院の一人娘だった彼女の様子は、体育の苦手なお嬢様にしか見えず、私とは体育の時間に後ろの方で一緒に小さくなっていた程度の接点しかなかったのだが、いざこの年になって話してみると、歌舞伎に留まらず嗜好が色々似ていて楽しかった。
一度は、玉三郎の舞台を観に、彼女を囲んで数人揃って、歌舞伎座へ行ったこともある。
出し物は忘れてしまったが、花道の側の席に並んで座っていた彼女の姿を見て、まだ若かった尾上松緑が、「あっ、みどり・・!」と、まるで心の中の声が聞こえてきそうな表情で、一瞬客席を見下ろしていたのを思い出す。
当時の私は、比較的時間が不定期にふさがっていて、音楽会にしても歌舞伎にしても、空いた時間を充てて出かけていたので、大体単独行動が多かった。
彼女と一緒に観に出かけたのはその時だけだったが、殆ど一か月の興業が続く歌舞伎は、各々が都合の良い日に観劇して、後で話し合うのが実に楽しいものだった。
翻訳業が彼女の仕事だったので、「長電話は、職業病なのよ・・」と言い訳をしていたが、その長電話は確かに有名で、中には勿論閉口している人もいた。
彼女を囲んだ輪ができた翌年、私は主人の仕事の関係で東京を離れて暮らす事になった.。でも、東京で教えていた音大には、毎週一晩泊まりで通い続けていたので、朝新幹線に乗ると、「今晩のご予定は・・?」というメールが、彼女からよく入ったものだ。
「仕事は5時半に終わって、その後は寝るだけ・・」等と返信すると、少したってから「○○さんにも、連絡が付いたから、6時半くらいに銀座で夕食はどう・・?」等と、アレンジしてくれた。
定期的に入院は重ねていたけれど、信じられないくらい元気そうだった。
しかし東京を離れた私が、皆の様には頻繁に会う事が儘ならなくなっていくうちに、少しずつ彼女の状態に変化が出始めてきた。そのうち、一人で暮らし続けるのが難しくなって、入院生活が始まった。
海老蔵が襲名した年だった。
私は、歌舞伎座で、「助六」を観て、名古屋の御園座でも「助六」をみて、京都の南座では「暫」を見た。
歌舞伎座では、玉三郎が相手役の揚巻を演じていて、それは素晴らしい舞台だった。
花魁の玉三郎が花道を出てきて、すっと反り返ったその瞬間、歌舞伎座の空気が一瞬止まったかの様だった。あれはちょっと忘れられない。
玉三郎に関しては、殆ど感想らしい事を彼女には言わなかった気がする。こちらが話すよりも、あちらの情報量が余りに多くて、圧倒されていたのかもしれない。
「入院している、彼女の代わりに・・」、程度の安易な気持ちで、南座へ海老蔵の公演を見に行った後、私がお見舞いに行ってその話をすると,彼女は言った。
「ああ、又、歌舞伎が観たいなあ・・」
それは、彼女が弱音を吐いた唯一の言葉だった。