還暦過ぎたピアニスト -9ページ目

還暦過ぎたピアニスト

青が好き。色も、響きも、そしてその意味も。若々しい躍動的なイメージがあり、未熟な初々しいイメージもある。「ヨーロッパの赤には、青が一滴」という発想も素敵だと思う。シニアになった今も、できれば青の近くで、楽しみたい・・。

私が、ウィーンへ音楽三昧の旅を企て始めた頃。


当時、非常勤で教えていた私大での先生仲間に、海外の情報に詳しい人が居て、私の旅行の為に、オペラ座のスケジュールやウィーンフィルの日程などを調べてくれた。


その中で、ワグナーの「ローエングリーン」モーツァルトの「フィガロの結婚」プッチーニの「トゥーランドット」は、出演者たちの顔ぶれが魅力的だったので、チケットを予約する為に、手紙をまずオペラ座に送ってみた。


まだその頃国立オペラ座は、ネット予約のシステムを導入していなかったのだ。


楽友協会の方は、アドレスがわかったので、メールでウィーンフィルの特別演奏会のチケットを申し込んだ。


担当者の個人名で、丁寧な返信メールがすぐ届いた。


その予約が完了して、改めて航空券も予約した。たしか、成田を12時頃に出発すると、当日の夕方にはウィーンに到着する直行便だった。


木曜日に着いて、翌日は一日ゆっくり休んで体力を温存。


土曜日の午後に、ウィーン・フィルを聴きに行った。


ウィーン・フィルの母体は、国立歌劇場のオーケストラなので、基本的に彼らの仕事は毎晩歌劇場で弾く事であり、オーケストラとしてのステージ上での演奏会は、通常昼間に行われる。


定期演奏会はじめ、お正月にNHKでも放映される「ニューイヤー・コンサート」も開始時間は午前中である。


まあ現在は、習慣も変わってきているらしいけれど・・。




その日の演奏会の最初の曲は、リヒャルト・シュトラウスの「メタモルフォーゼン」だった。


初めて聴いた、サイモン・ラトルの指揮。


世界一と謳われる楽友協会黄金ホールの名器の様な音響の中で、その豊かで匂い立つような弦の音色は、私をまるで大きな共鳴箱の中に誘い込んでいくかの様であった・・。


数十年来、再訪する日を待ち望んでいた私の期待を更に大きく包み込み、ウィーンフィルの響かせる独特の音色は、改めて私を静かな感動へと導いてくれたのだった。




その日の夜は、オペラ座では「ローンエングリーン」が公演された。


連チャンは、ちょっと欲張りかなとは思ったのだけれど、演奏会が終わってみると、歩いて10分くらいのオペラ座に、何と大勢の人々が足早に向かったのは心強かった。


しかも、オーケストラ・ピットを覗いてみれば、先ほど楽友協会で演奏していた顔ぶれの多くが、早くも自分の持ち場に座って演奏の準備をしていたのだ・・。



結婚して以来、ヨーロッパとはずっと縁がなかったが、やっと子供たちが高校生になった頃、二人に留守番をさせて、主人の出張のお供でポーランドへ行った。


1996年だったと思う。それは殆ど、四半世紀ぶりのヨーロッパだった。


ポーランドへの航路は色々あったが、勿論ウィーン経由の便を選んだ。


ウィーンでは、シシーと呼ばれたエリザベート皇后に由来する、「カイゼリン・エリーザベト」というホテルに、名前に魅かれて、直接電話で予約をした。


本当に久しぶりのドイツ語で、勿論家で喋ったことなどなくて、電話が終わったら息子が「今、お母さんドイツ語で電話してた・・?」と、わざわざ部屋から出てきて訊ねた位、それは我が家でのちょとしたトピックスであった。


当時、ウィーンのオケでヴァイオリンを弾いていた、留学時代の友人にも電話して、オペラ座のチケットを取って貰ったりもした。


初めて訪れたポーランドでも、色々思い出はあるけれど、やはりウィーン再訪が感動的だった。


オペラ座ではその夜、「白鳥の湖」が上演されていたので、オペラ嫌いの主人も一緒に行った。


私にとってのウィーンオペラ座は、立ち見席が当たり前だったので、指定席に座って、休憩時には華やかなロビーに出て行き、ラウンジで主人が飲み物を頼んでくれた時は、大人になって又ここにやってきたのだ、という素敵な感慨があった・・。


でもそれは、ほんのひと時的な滞在に過ぎなかったので、子供たちが大学に入ったら、今度は一人で、音楽三昧の計画を立てて必ず又やってこよう、と夢はどんどん膨らんでいったのだった。




ベルリンフィルのデジタルコンサートに登録して以来、新しいアーカイブの案内メールが、時々届く。


今日は、2008年にモスクワで行った、サイモン・ラトル指揮の演奏会だった。


ベルリンの壁が崩壊して以来、初めてのロシアでのコンサートだったらしい。


ベートーヴェンの第七シンフォニーを聴いた。


こんなに喜びに溢れたベートーヴェンを聴いたのは、初めてだ。


指揮をする、サイモン・ラトルの表情が又、素晴らしい。


そう言えば、初めてウィーンでラトルを聴いた、ブレンドルと共にモーツァルトのピアノ協奏曲「ジュノム」を演奏していた時。


出だしで、オケとピアノが短いフレーズを交互に演奏した瞬間、ぴたりと呼吸があって、あたかも「やったぜ!」的な気配が伝わってきたのを思い出した。


第七シンフォニーを聴いたのは、久しぶりだ。


子供の頃、私の周りでこの曲がブームだった事があった。


弟が、二楽章の変奏をピアノで弾いていたのを、思い出した。


私は聴き覚え派ではないので、スコアを見ながら弾いていたなあ。そのせいか、二楽章は特に感動した。


当時、私が聴いていたレコードは、カラヤンの演奏だった記憶がある。耳に残っているその演奏より、ラトルの方が音に厚みがあって、はるかにドラマティックな印象だ。あのレコードのオケは、ウィーンフィルだったのかな・・。


映像を見ると、演奏しているベルリンフィルの人達も、ノリに乗ってる風だった。


ドイツ人がこんなに、喜ばしげに演奏するのか・・。




ルーブルは、一人でゆっくり見た気がするので、多分母達が旅立った後の事だったろう。


朝早く次の場所へと出発した母を、空港で見送って後、私はタクシーでパリ市内へ戻った記憶がある。


目的地は、北駅だったかな。


まずは、帰りの列車の切符を買うのが先決であった。


自分は全くフランス語がわからず、しかも当時フランス人は、本当に外国語を話さなかった。


駅の切符売り場には、長い列が続いていたので、取りあえずその後ろに並んでみた。


やっと自分の番が来て、その窓口は国内線の切符売り場であったのを知る。

次に並ぶべき場所が何処なのか、何とかわかっただけでも、収穫であったと言えるだろう。


帰途は、親友が留学中のミュンヘンへ向かうつもりであった。切符を買った後には、出発時間を紙に書いて貰って大切にしまった。たしか夜中の12時位であったと思う。


それから、ルーブルへ行ったのだろう。母たちの旅程にも当然入っていた筈だから、後で再度訪れたのだと思う。


当時は、学生証を提示すれば、殆どの美術館は無料で入れたので、気楽に再訪できたのだ。


パン屋でクロワッサンを買って、公園のベンチで昼食替わりに食べた気もする。その美味しかった事・・!


リュクサンブール公園とか、小説で聞き覚えのある場所を色々歩き回った。


バスにも乗った気がするが、きっと行く先が「オペラ座」とか、降りても迷い様の無いバスだったに違いない・・。


知らない街で乗るバスは、わくわくする。


夕食を何処かのレストランで終えて、暗くなってからはさすがに心細くなり、オペラ座へ行く事にしたのだった。


ヨーロッパの文化施設の懐の深さは、学生達にとってまるで天国である。


友人に教えて貰った、「見えない席」というチケットを購入。値段は忘れてしまったが、ウィーンのオペラ座の値段から類推すると、100円~200円程度だったと思う。


それでも、ウィーンの立ち見席とは違って、座る椅子があるので、寒い二月の夜を一人で過ごすには、最適であった。


その時の演目はもう、覚えていないけれど・・。

「ほぼ日刊イトイ新聞」のコーナーで、ルーブルの思い出を募集していたので、先日投稿してみた。


殆どのメールは掲載する、と書かれているので、場合によっては載るかもしれない。


それに関連して、初めてパリを訪れた時の事を、色々思い出してきた。


丁度40年前の二月だった。


母が、初めてヨーロッパの観光旅行をしていて、ウィーンに留学中だった私も、パリだけ現地参加したのだった。


夜行列車に乗って、12時間位の距離だったのだろうか・・。


着いたら電話してほしい、と手紙をくれた従妹に、どうやって電話をかけるのか。初めて訪れた国で、公衆電話をかける難しさは、旅行者として体験しなければわからないのかもしれない。


散々公衆電話らしきものを探し回った挙句、結局日本人らしい人を見かけたので教えて貰ったのだが、あれはまさに幸運だったとしか思えない。


カフェで電話用のコインに替えて、地下にある公衆電話で、やっと連絡がついたのだった。


でも、不安になりながらも、パリの街を一人で歩いた時の感覚は、今でもはっきり思い出すことができるし、これこそ旅だという気分にまでなったものだ。


その後、オペラ座の側にあったホテルで、無事母と合流できて、夜はオペラ座で「トスカ」を観た。


素晴らしいテノールだと思ったが、そこで待ち合わせた大学時代の友達の話では、ドミンゴが歌っていたらしい。


当時パリで勉強していた二人の友人達に、夕食のワインを飲みながら、ボルドー産とブルゴーニュ産は瓶の形が違うのだと教わった。


ヨーロッパのワインは、慎ましい留学生活者にも、身近な存在であり得たのだ。


母たちの旅行の日程では、翌日がベルサイユ宮殿の見物日だった。


すると友人の一人が、ベルサイユの音楽学校で、明日お昼からレッスンを受ける事になっているのだ、と言う。


打楽器科の彼は、まだ宮殿には入った事がないらしく、午前中は皆でまず宮殿の見学に参加して、レッスン時間が来たらすぐ近くにある音楽学校へ、母と私それにもう一人の友人も一緒に行き、レッスンを見学させて貰う、という話が急にまとまった。


今となっては、レッスンの印象の方が、はるかに鮮明に記憶に残っている。


曲は、バルトークの「二台のピアノと打楽器のためのソナタ」で、その日はピアノなしで打楽器だけでレッスンがあった。


彼はその後間もなく、フランスの国際コンクールで優勝した程の逸材だったから、それは実に緊張感のある充実した時間であった。


背の高い、いかにもパリジャン風の若い先生が、最後にお手本を見せてくれたのが又、素敵だったなあ・・。

静岡で開催されている、「シャガール展」へ行った。


主に、ニースのシャガール美術館、パリのオペラ座の天井画、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場の壁画、等を制作する過程の、スケッチや下絵などが多く展示されていた。


シャガールは、作品数も多いし、リトグラフなども沢山あるから、色々な場所で思いがけなく見ることができる。


今回は、そういった、いかにもシャガールらしい作品に焦点を当ててはいなかった。行ってみるまでは、分からなかったけれど・・。


パリの、オペラ座ガルニエの天井画。


数年前、それが見たくてパリへ行った。 お蔭で、ローラン・プティのバレーが観られた。


ガルニエ宮の豪奢な建物の中で眺める印象は、来た甲斐があったと思うだけのものがあったけれど、今回下絵を近くから見ることで、違った面白さが味わえた。


オペラ座の天井画だけあって、円形の巨大な絵の中には、モーツァルトの「魔笛」とか、ベートーヴェンの「フィデリオ」、その他ワーグナー、ヴェルディ、リムスキー・コルサコフ、チャイコフスキー等々、オペラ作曲家の名前やオペラの情景がちりばめられているのが、よくわかった。


プッチーニの名前が無かったのは、ちょっと不思議だったけれど・・。


国立シャガール美術館は、ニースへ行った際に訪れたけれど、旧約聖書を題材にしている大作が並んでいて、聖書の知識に乏しい私には、きっと理解できない意味が隠されているのだろうと思ったものだった。


これは、シャガールに限った事ではなくて、西洋の文化に接する度に思う事だけれど・・。


それらの大作が、二度目の夫人と結ばれて後の、70歳を優に超えてからの作品である事に改めて驚いた。


そんな感慨にふけっていると、ラヴェルの「マ・メール・ロワ」の終曲が、何処からか、かすかに聴こえてきたのだった。


どうやら、シャガールの壁画や教会のステンドグラスを映した、映像のBGMが聴こえてきたものらしかった。


これは、私が4月のコンサートで弾くプログラムの中にある一曲で、その時聴こえたのはラヴェル自身が編曲した、オーケストラ版の演奏であった。


私は、その演奏会で弾くフォーレの曲と共に、フランス文化への手がかりをいつも潜在的に探していたのだと思う。


それが解答だった訳では勿論ないのだけれど、言葉には表され得ない何らかの感動が、自分の中で湧き上がり、思わず涙ぐみそうになったのだった・・。


フランス人、ってどんな人たち?


昼間から、ワイン飲んでる人達かな・・。

ブログサーフィン(という言葉があるかな・・)をしていたら、「赤玉ポートワイン」という言葉に出会って、懐かしかった。


私が子供の頃は、ぶどう酒といえばこの名前位しか知らなかったなあ・・。大体ワインそのものが、まだ余り市民権を得てなかった様に思う。


私にとっては、ウィーンとの出会いが、ワインとの出会いであった。


大学を卒業して後、ウィーンへ渡って、そこで最初に恩師にお会いしたのが、ワインハウスだった。


連れて行ってくれた日本人留学生が、此処では余り遠慮しない方が良い、と教えてくれたので、勧められるままに四分の一リットル入りのグラスを二杯傾けて、それからすっかりワイン党になってしまった。


学校が始まって間もなく、先生を囲んでクラスの仲間が集まり、ウィーン郊外にあるホイリゲへと出かけたことがあった。今思えば、新入生歓迎会といったところだったのだろう。


ホイリゲとは本来、今年できた(ぶどう酒)という意味だが、現在は市の郊外に沢山並ぶブドウ畑で、できたてのワインを飲ませる居酒屋の通称として使われている。


ワインが主体だから、食べ物はチーズにハムやソーセージ、酢キャベツ、トマトに大きなピーマン、他にはローストチキンが並んでいたかな。


とにかくワインを飲む。


丁度、ブリューゲルの「農民の婚宴」と呼ばれる絵の様な、木でできた大きなテーブルに長い椅子というパターンが多かった。


注文の仕方は至って簡単で、「四分の一(リットル)の白!」[八分の一の赤!」といった具合だ。


大勢なら、一リットルのデキャンタを何個も頼む。


できたてのワインだから、淡泊でいくらでも飲めそうな味であった。


時折、一人はヴァイオリンを抱えた、一人はアコーディオンを担いだおじさん達がやってきて、チップを弾みそうなお客さんの横で、ウィーン風の音楽を聴かせてくれる。

 

ある時、下宿のおばさんが「ワインを作っている知人に、ボトルワインをまとめて注文するけど、貴女もどう?」と誘ってくれたことがあった。


聞いてみると、おばさんは二リットルのボトルを30本頼むのだという。


私はちょっと慎ましく、10本頼んでみた。


その頃私の住んでいた部屋の二重窓は、外側の窓と内側の窓の間に15センチ位の空間があって、10本の2リットル瓶がそこに並んだ様子は中々壮観なものであった。


昨夜youtubeで、パールマンの弾くベートーヴェンの協奏曲を聴いた。


パールマンの艶やかな音色は、いかにもヴァイオリンの神髄という感じで、ベートーヴェンには合わないのでは、と思いながら聴き始めたのだが・・。


合う、合わないの問題では、全くなかった。


パールマンが演奏している音楽、それだけで十分なのだ。


チェロのロストロポーヴィッチが、「自分の才能は、神から授けられたものなので、自分は只それを伝えるだけ。だから上がる、ということは全くない」と言ったというエピソードが、思い起こされる。


パールマンの様子も、演奏するという行為がいかにも自然で、しかも楽しそうで、まさにこれが「天から授けられた才能」というものなのだろう。


クレーメルの天才とは、対極にあるともいえる。


クレーメルからは、一瞬たりともないがしろにせず、身も心もその作品に捧げて演奏している、といった無垢な姿勢が感じられるし・・。


基本的に、ベートーヴェンの作品はクレーメルで聴きたい、と単純に思っていたけれど、聴いてみないことにはわからないものだ。


世の中には、凄い人達がいるなあ。

ウィーンに留学した、遠い日々の思い出。


着いたばかりの頃、私は西洋音楽の本場で学ぶんだという気負いで、身が奮い立っていた気がする。


ウィーンの道を歩きながら、この風景はかつて楽聖たちも眺めていたかもしれない街並みなのだと、一人で勝手に感動していた青春時代の一ページ。


ふと、大きな教会の入口で、毎週水曜日の7時(だっただろうか・・)に、オルガンコンサートが行われるという、張り紙が目に入った。


それが、教会でパイプオルガンを聴いた最初だったと思う。


バッハの作品らしい曲の他、いくつもの曲が、次々と教会いっぱいに広がって鳴り響いていった。


祭壇に向かって一人で椅子に座り、後方から聴こえてくるオルガンの音を、無心とまではいかないけれど、夢中になって聴いていた若かったあの日。


40数年も過ぎているというのに、自分の中の気持ちが全くと言ってよいほど変わっていない事に、今驚いている。










今日、オルガンを弾いた。


二週間くらい前から、ピアノで下稽古はしていた。


まず、足鍵盤だけを使って音を出す、「パッサカリア」のテーマ8小節。


ピアノの椅子だと、足をぶら下げた状態に座るのは難しいので、足鍵盤を想像しながら場所を覚える練習を重ねた。


ユーチューブで見て、片足を連続させる場所なども頭に入れた。


次に続く第一変奏は、マニュアルの鍵盤だけで弾くのは易しい筈なのに、足鍵盤のパートを声に出して歌いながら、両手を動かしてみると、これだけで何とも難しい。


でも、今日説明して下さった方は、「パッサカリア」の楽譜を眺めても、呆れた様子を見せることなく、「弾きたい曲を弾くのが一番ですから・・」と穏やかに対応してくれた。


「弾いてみますか?」、とすぐにオルガンの側に案内されたのだが、丁度会堂の中には賛美歌の練習している人達が数人居たので、まずは音をオフにして触ってみたのだが、この下練習が良かった。


足鍵盤は想定したより、幅も狭かったし、踏んだ感じもはるかに軽くて、さい先の良さが感じられてきた。


そして、賛美歌の人達の練習が終わり、いよいよ音を出してテーマを弾いてみた時の、何とも言えない躍動感。


それはまぎれもない、オルガンから聴こえてくる「パッサカリア」のテーマであった。