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還暦過ぎたピアニスト

青が好き。色も、響きも、そしてその意味も。若々しい躍動的なイメージがあり、未熟な初々しいイメージもある。「ヨーロッパの赤には、青が一滴」という発想も素敵だと思う。シニアになった今も、できれば青の近くで、楽しみたい・・。

先日、アンドラ―シュ・シフのピアノリサイタルがあった。


ステージ上には、ベーゼンドルファーのピアノが置かれていた。


シフが出てくると、客席もステージ上もライトを落として、シフだけが浮き上がって見える様な照明になった。


最初に弾き始めた、ベートーヴェンのバガテル。


こんな風に、シフはベーゼンの音を出したかったのか・・。


毎日コンサートの準備で、夢中になってピアノを弾いている自分が、何だか恥ずかしくなる位に、その音は珠玉の様にまろやかで、繊細な響きであった。


あの音は、しっかりと記憶に留めておこう。





それは、本当に楽しみな演奏会だった。


ベートヴェン、後期作品のプログラム。 


ディアべり変奏曲は、自分で弾いた事が無いので、グルダの演奏を聴きながら事前に予習をした。


最初は、バガテルから始まった。


普段、自分の中では面白くない曲群という分類をしてしまって、殆ど避けているバガテルなのに、シフの演奏するタッチに、まずノックアウトされてしまった、というのが正直な感想である。


この一連の曲だけでも、来た甲斐があったと思う位の、タッチ。


次は、ベートーヴェン最後のピアノソナタ、作品111.


これは、一応自分で弾いてそれなりのイメージがあるだけに、共感度は低かったのだが・・。


ちょっとソナタは、スタインウェイで聴きたかった気もした。


でも二楽章は、共感度以前の、ピアニストの資質というべき感動があった・・。


ディアべり変奏曲も、6~7曲位並んだアンコールも全て素晴らしかったけれど・・。


最後に弾いた、ショパンのノクターン5番。


シフのレパートリーからは、想定外な選曲だったが。


今まで何百回となく聴いてきた自分の中の音の記憶が、全て洗い流されてしまったかの様に、その演奏は格調高く、一音たりとも過不足のない音色とニュアンスで、静かに心に染みわたってきたのであった







主人の姉が、時々本を送ってくれる。


須賀敦子も、多分義姉から送られた本が最初だった。


「コルシア書店の仲間たち」


それ以前に、イタリア文学の翻訳者として、彼女の名前は亡くなったすぐ後の、新聞で読んだ追悼の記事で、知ってはいた。


「ミラノ、霧の風景」という本は、どうやら作家としての代表作のようであった。


彼女のバックグランドを知らずに読んだ、「コルシア書店の仲間たち」は、何とも奇妙な本だった。


余りに日本人離れした、生活と話題。 


でも、その文章には、目の前に様々な情景が広がっていく楽しさがあり、少しずつ、「ミラノ、霧の風景」「ヴェネツィアの宿」「地図のない道」など、著作を読み続けて行った。


或るとき、書店で「須賀敦子追悼集」という厚めの本を見つけて、彼女の足跡を知った。


著作に度々登場する、早逝したイタリア人のご主人ペッピーノ氏と、一緒に写っている写真もあった。


その幸せそうな表情をみて、彼女の人生の基盤は、わずか6年間に過ぎなかった、ペッピーノ氏との信頼関係で結ばれた生活だったのだろうなと、勝手に思った。


そして、カトリック。




中学校の頃、海外の子供と文通するのが学校で流行っていた。


職員室へ行って、英語の先生に「これ、お願いします」というと、内容には一切関与せずに先生は英語の文章を添削して直して下さった。


発端は、若くて熱心だったその先生が、英語の授業中に「手紙を書くのは、非常に良い英作文の勉強になるから」と、その頃東京から転校してきたばかりのクラスメイトの手紙を、サンプルとして全員に配ったのだった。


文通の相手を探すには、既に文通している人に紹介して貰うとよい、というアドバイスもあったと思う。


私はその頃から、いずれはドイツに行きたいと思っていたので、ドイツ人と文通しているという友達のお姉さんに紹介してもらって、手紙を出したその相手がブリギッテであった。


当時マンハイムに住んでいて、私より一歳年長の一人っ子だった。


写真もお互いに交換したりしたが、内気そうないかにも映画に出てくる女子高生の一人といった風な印象であった


小包が届いたこともあった。中には、ウサギの形をした綺麗な模様の描かれた銀紙に包まれたチョコレートも入っていて、今思えば復活祭のウサギだったのだろう。


頻繁ではなかったが、何となく文通は続いていて、大学でドイツ語を勉強し始めてからは、ドイツ語でたどたどしい手紙を書いたりもした。


ウィーンに留学してからは、同じヨーロッパというだけで随分近づいた気がして、久々に手紙を出したら、お母さんから「娘は結婚して、今はフランクフルトに住んでいます。」という手紙が届いたのだった。


ウィーンの音大を卒業して日本に帰る際、フランクフルトから飛び立つ便が一般的であった。


私はまず、親友が留学していたミュンヘンに寄り、其処から汽車でフランクフルトへ向った。


勿論、ブリギッテに会ってみたいというのが目的であった。


ミュンヘンから着いた列車は、たしか到着時間が朝早くて、それでも彼らの家に着くまでには手間取るだろうと思っていたのが、意外に順調に着いてしまい、手持ち無沙汰なまま無遠慮にも、家の呼び鈴を鳴らしてみたのだが・・・。


何故か、誰も出てこないどころか、何の気配も無くて、私は知らない場所で只々途方に暮れたのだった。


多分、公衆電話を探したのだと思う。


異国で、公衆電話を探して、電話をかけるというのは、至難な業であったはずだが、その辺の記憶はすっぽりと抜けている。


いずれにしろ、その電話から眠そうな男の人の声が聞こえてきて、それがブリギッテの旦那様であった。


東洋からのお客様が来るというので、前の日に二人で部屋中の壁に細い竹のインテリアを張り付けて、異国情緒の演出をしてくれていたのだそうだ。


それで、すっかり疲れてぐっすり寝込んでいて、呼び鈴の音が聞こえなかったらしい。


そんなに朝早くに訪ねてくるとは思わなかっただろうに、そんな事はおくびにも出さずに、とても歓待してくれたのだった。


ブリギッテはやはりシャイな女性で、初めて会った私に恥ずかしそうに話しかけてくる感じだったが、幸い旦那様は社交的な素敵な人で、場を和やかに持たせてくれた。


そのうち、友達から電話がかかってきて、「悪いけど、電話口で何でもよいから日本語をしゃべってくれないかい?」と、旦那様が言う。


「今日、日本人のお客様がくるんだと言ったのに、どうしても信用してくれないんだよ」という事だった。


まだ、道を歩いていると「シナから来たのですか・・?」と聞かれたりする時代だったからなあ。


彼がどんな仕事をしている人だったかは忘れてしまったけれど、自分の会社に車で私達を連れて行ってくれて、映画にでも出てくるようないかにも現代的な装置のあるお部屋をみせてくれたりもした。


何枚も一緒に写真を撮ってくれた中に、「僕と二人だけの写真も撮ろうよ。君のお母さんが、ドイツ人のボーイフレンドができたのか、って吃驚するように・・。」と私の肩を抱いてブリギッテにシャッタ―を押してもらったり、楽しい時間を共有してくれたのだった。


遠い異国のペンフレンドと、本当に会う事が出来た事に、どこか戸惑っていたブリギッテと私は、その旦那様の優しい対応のなかで、何となく無言で微笑みあっていたのだった。

若い頃、「高橋和己の思い出」という本を読んで、著者の高橋たか子の名前を知って以来、何冊も作品を読んで気に入っていたのだが、ごく最近まですっかり忘れていた。


30年位前にアメリカに住んでいた頃、「誘惑者」という小説の題名が思い出せなくて、とてももどかしい思いをした事があった。


内容からは予想もつかない、あるいはその逆かも知れないが、奇想天外なタイトルが胸に刻まれた筈だったのに・・。


毎日の生活に追われるという状態とは、殺伐とした感情で満ちてしまうものかと、わが身が情けなくなったものだった。


只、彼女がクリスチャンになる前に、ある修道院にしばらく滞在した時の経験を書いた文章は、時折思い出していた。


それは、毎日皆と寝食を共にしていた修道院の中で、ある特別の扉の向こうへは修道女達のみが入れるという場所があって、一人こちら側に残った彼女が、自分以外の人達は全て神を信じている人々なのだと実感する、という内容だった。


私は、ポルトガルの聖地ファティマへ行った時に、その事が強く実感されて、当然高橋たか子を思い出したのだった。


ネットを始めてからは、わずかな記憶から膨大な情報が得られる楽しみを覚えて、ネットサーフィンをしていると、高橋たか子と検索しただけで、簡単に作品まで購入できた。


「高橋たか子研究会」、というタイトルだったか、詳細は忘れてしまったが、見つけて早速アクセスしてみたが、その時は何故か活動を休止している、という事であった。


そして昨年、訃報を新聞で知った。


新しい著作を読むと、カトリック信者としての作品が多い様子で、以前とはかなり視点が変わった印象であった。


高橋和己と死別してから、どんな人生を送ったのだろう。



海外旅行の滞在先で、路面電車、あるいはバスに乗るのが好きだ。


当てもなく、行き先もわからず、車窓の風景をのんびりと眺める。


取りあえず、終点まで。


ウィーンの様に、少しは土地勘のある場所だと、降りてからしばらくお散歩をして、又行き当たりばったり、バスか路面電車に乗って戻ってくるのだが、知らない場所の場合は、単純に降りた終点から、又同じ路線を戻ってくる。


一度見慣れた場所だと、何となく場馴れした感が出てきて、ちょっと途中下車してスーパーに足を踏み入れてみたり、教会を覗いてみたり、そのままホテルまで歩いて帰ることも多い。


そんな時は、旅人であるというよりは、住人が気まぐれに長いお散歩に出かけた様な気分になってきて、中々味わい深いものだ。


ラトヴィアの首都、リーガへ行った時。


何故か、主人たちの一行との待ち合わせに合流できなくて、結局諦めて、一人で路面電車に乗った。


終点までは、意外に短かったけれど、降りてみると目の前にスーパーがあって、取りあえず中に入ってみた。


突如一人で食べる事になったその日の夕食の為に、デリカッテセンで買った、ローストチキンのハーフサイズや簡単なサラダが、電車の乗車券とほぼ同額であった。


チェコのブルノで。


当てもなく乗った路面電車で、車窓を見ると大きな公園のそばを走っていたのに気づき、思わず下車した。


地図で確かめると、かなり大きな公園で、沢山の若いお母さんたちが、乳母車を押して、散歩している。


砂場では、幼稚園児らしき数人の子供たちが遊んでいたり、双子らしい赤ん坊を乳母車に乗せたおばあさんが、ベンチに座っていたりした。


余りに可愛いので覗き込んで、「何歳ですか・・?」と英語で話しかけてみたら、そのおばあさんは何故か、ドイツ語で応えてきた。


ブルノの人達にとって、親しみのある外国語は、どうやらドイツ語らしい。


ワルシャワに初めて行った時は、友人のスワヴェックが電車の切符と地図を手渡してくれたので、一日中一人で歩き回って、旧市街やワルシャワ大学、ショパン博物館などを見ることができた。


言葉の通じない国だと、まず電車に乗れたとしても、支払い方法を理解するのが一苦労である。


ワルシャワで電車に乗ったら、その辺にいる数人の人達が、何やら私に向って、いかにも急を要する、といった感じで喋りかけてきた。


その中の大学生らしい人が、「乗ったらすぐ、乗車券をこの機械に差し込んで、時間を印字しなくてはいけないのですよ」と教えてくれた。


ポルトガルのリスボンでは、乗っていた電車で車内放送があって、全員が降りてしまった。茫然としていると、若い男性が、「ここで、この電車は止まってしまうらしいです。全員、次に来る電車に乗り換えるそうです」と、教えてくれた。

 

ハワイでは、私が行った頃、バスがどの路線も一律1ドルだった記憶がある。


一番長い、殆ど島を一周する路線も一ドルで、それは楽しかった。


まず海岸線を走るから景観も素晴らしく、土地の人が乗ったり降りたり、その様子を眺めているだけでも退屈しなかった。


所要時間が、三時間ぐらいだったかな・・。


途中で、運転手さんの休憩時間というのもあって、私達も外に出てしばらく休んでいた。


それは、のんびりした路線だった。






大学時代、作曲科の先輩に憧れた事がある。


彼は、既に管楽器科を卒業した年長者で、その楽器を吹くのは男子一生の仕事ではないと、卒業間際に自分の楽器は売り飛ばして、卒業試験は大学の楽器を借りて演奏した、という伝説の持ち主であった。


私はもともと、武勇伝が好きだし


作曲科に再入学してからの彼は、年齢を重ねている経験もあるのだろうけれど、二年生で既に自作品がコンサートで演奏される程の、際立って嘱望される逸材であった。


確かに、その作品はとてもユニークであった。


たまたま私は、彼のクラスの人達の演奏会に、ピアノ演奏者として出入りしていたので、顔見知りではあった。


或るとき、大学のロビーで出会った彼に、思い切って「音楽会で演奏された曲の、テープがあったらを貸して戴けませんか・・」と頼んでみたのだ。


作曲科の学生にとって、まず演奏してくれる人、そして聴いてくれる人、というのは、実に貴重な存在である訳だから、快く貸してくれた。


インパクトの強い曲だったけれど、私は毎晩の様にその曲を聴いた。


すると暫くして、彼から、自作の歌曲のピアノ・パートの演奏依頼があった。


それからは、お蔭で何度か会う機会があったけれど、彼の思考は自作品をいかに思い通りに演奏してもらうか、全てがそれにかかっている、そんな様子であった。


それも、傍で見ていて、かっこよかったなあ・・。


それは一年前に、彼が作曲科の4年生として、「声とピアノ」という課題で作曲されたもので、彼の作品は、古事記を題材とした歌曲であった。


アルトを担当したのは、既に声楽家として活躍し始めていた大学院生で、彼女が歌うのを前提として作曲されたそうで、殆ど共作という感じで書かれていたらしい。


其処に、私が突如として、ピアノパート担当として参加したのだ・・。


大変、光栄な話だったのに・・・。


素直に、ピアノに専念していればよかったものを、今思えば、彼に何か印象を残したいという、頭でっかちな対応に終始してしまった気がする。


確かに個性的な、ピアニズムとはかけ離れた、実に弾きにくい曲ではあったのだが・・。


結局、実力の差だったのだろう。


ごく普通に演奏会は終わり、その後、私は間もなく大学を卒業して、はかない片思いの物語も終了してしまったのだった。


何処かで・・。


第二のエンマ・バルダックか、あるいは、アルマ・マーラーを、夢見ていたのだろうか・・。


まあ、夢見たとすれば、クララ・シューマンというところだろう。


我が、青春の一頁。


四月に演奏会が二度あって、フォーレの連弾曲「ドリー」は、その両方の会のプログラムに入っている。


一回目は下のパート、二度目は上のパートで。


連弾の相手もそれぞれ違うので、練習していて何とも楽しい。


「ドリー」というのは、フォーレが親しくしていたバルダック家の娘エレーヌの愛称で、フォーレは一才の誕生日から毎年一曲ずつ作曲してプレゼントしたという、6曲からなる曲集である。


母親は、後にドビュッシーと再婚したエンマ夫人であり、当時はフォーレの愛人だったとも言われていて、ドリーはフォーレの子ではないか、とも囁かれているらしい。


そう思って弾くせいか、「子守唄」と名付けられた一曲目はもの悲しげで、単調な流れの中で和音が微妙に変化していくのが、作曲者の複雑な気持ちの投影の様にも聴こえてくる。


勿論「子守唄」は、愛情に満ちた母と子の歌、というパターンだけではなく、子守という役を押し付けられた不幸せな少女たちの寂しげな歌だったり、様々なドラマがあるのだけれど・・。


でも、ひそやかに聴こえてくるこの悲しさは、やはり不義の子に対する思いなのかも知れない。


母親のエンマ夫人は、声楽家だったらしいが、フォーレとドビュッシーという二人の天才に愛されて、波乱に富んだ人生を送った人だ。


ウィーンの作曲家グスタフ・マーラーの夫人アルマ・マーラーは、何人もの天才を惹きつけた女性として有名だが、エンマ夫人に関しては、クロード・ドビュッシーと不倫の末に再婚して、娘クロード・エンマを生んだという程度で、余りよくは知られていない。


邦訳された本が無いだけかも知れないが・・。


中々、興味深い女性である。







私が入学したのは40年ほど前の事だから、ウィーンの入学試験も今はきっと、様変わりしているのだろうけれど・・。


当時ウィーンアカデミーという名称だった国立音楽大学では、入学するに当たって、受け入れてくれる先生が居るかどうか、というのがまず必須事項なのであった。


私の場合は数か月前、先生宛てに自分の演奏したテープを送って、その門下に入れて貰えるという返事は一応届いていた。


その後ウィーンに着いて、入試の一週間程前に先生のお宅に伺って、試験用に準備した曲を弾いた。


先生は「君のレッスン日は、毎週火曜日の13時半だからね。それから、もう試験の曲は練習しなくて良いから、次回までに新しい曲を勉強して来なさい」とおっしゃって、4曲の宿題が出されたのだった。


その練習が、どんなに大変であったか・・。その証拠に、40年過ぎた今でも、それらの曲をはっきり記憶している位である。


ショパンの遺作のエチュード、バッハのパルティータの5番、ベートーヴェンの熱

情ソナタ、ドビュッシーの映像第一集。


最初のレッスン日は、入試の3~4日後であったが、真面目な日本人学生であった私は、試験の曲も練習しないでは居られなかったし、それからは、毎日10時間くらいピアノに向かっていた気がする。


でも実際の処は、試験をする小さなホールに一人ずつ入って行き、先生たちの前で、用意してあった曲の中から一曲をしばらく弾いていると、途中で「はい、結構です。では、次の曲をどうぞ」と言われる。次の曲を弾いていくと、又途中で次の曲を、といった風に、何とも気楽な雰囲気で、あっという間に終わってしまった。


私は、自分の試験が終わると、とにかく宿題の曲を練習しなければと、大急ぎで帰宅してしまった。後で聞くと、さすがに先生も「あの子は、試験の結果も聞かずに帰ってしまった」と、おっしゃってたらしいけれど・・。


それ程にも、日本の緊張感からかけ離れた、ウィーンの入学試験であったのだ


そしてそれが、異なる文化の中で価値観の違いに触れた、私の最初の体験。

それから、音大が暇になる3月になると、半月ばかりウィーンへ出掛けるのが、マイブームになった。


3月はみな暇な月で、ウィーンへ研修に出かけていた学生に出会ったり、楽友協会ホールで先生仲間に名前を呼ばれたり、目抜き通りのケルントナーで見覚えのある声楽科の先生に出会ったりもした。

 

何度めの時だったろう。


「薔薇の騎士」を観た翌日。道を歩いていたら、前方から歩いてくる長身の華やかな女性は、近づいてみると昨夜、元帥夫人役を歌っていたロットであった。


眼の悪い私は、きっと凝視していたに違いない。


「薔薇の騎士」にはタイミング的に中々出会わないので、その年は二度目の公演のチケットも購入していた。


今晩は又、「薔薇の騎士」、という日。


私は、手紙を出しに近くの郵便局へ出かけた。


すると、国際郵便はあちらのカウンタ―です、と言われた方へ向かうと、列の最後尾に並んでいたのは、ロットその人であった。


これは、話しかけろという啓示だと思い、「今晩、又見に行きます」と、低い声で語りかけてみた。


「前回、とても素晴らしかったから・・」というと、「ダンケ」と答えた後に彼女は、振り返って、「前にも、お見かけしましたね」と言ったのだ。


確かに、ヨーロッパでは異邦人である私の方が、むしろ目だった存在だったのかも知れない。

楽しみにしていた、「フィガロの結婚」


その夜の私の席は、たまたまオーケストラピットがよく見えるボックス席だったのだが、始まってすぐ、私にもちょっと違和感はあった。


何となく、歌手の調子が悪いのかな、といった、「音程大丈夫?」的な違和感といおうか・・。


処が、オケピットを眺めていると、曲の途中で、自分のパートが休みになると、隣の人と私語らしきを交わしている人が、あちこちに見えて、いささか驚いた。


そのうち、ちょっと長い休みの間に、コンマスと指揮者までが私語を交わし、そのうちヴァイオリンパートの一番後ろの人が、演奏をやめて楽屋へと引っ込んでしまったのだ。


そして、一幕が終わると、大急ぎ、という風にチェンバロが運び出されて、他のチェンバロが運び込まれていた。


それ以後は、素晴らしいオペラだったけれど、一体何があったのだろうという疑問は、当然残った。


数日後、懐かしい日本人留学生仲間だった人から、ホテルに電話がかかってきた。


私が事前に連絡を取っていた友人から、私のウィーン再訪を聞いたのだという。


当時彼女の旦那様は、ウィーンフィルのチェリストで、私としては多分、蜜に群がるアリたちの様に、入場券のつてを求めて近づいてくる人達に彼らは辟易しているだろうと思って、あえて連絡はしていなかったのだ。


でもたまたま、「フィガロの結婚」が始まる前に、関係者入口から入っていく彼女の旦那様を見かけていた事もあり、その電話はとても嬉しかった、


彼女は思いがけず、「次のウィーンフィルのリハーサルを、一緒に聴きに行こうよ」と、誘ってくれた。


三月だったが、その月は例外的に、ウィーンフィルの公演が二度もあったのだ。


リハーサルの後、彼女の旦那様も一緒に連れだって、飲みに行った。


勿論私は、「フィガロ事件」について尋ねると、彼も長年オペラで弾いているけれど、あんなスキャンダルは初めてだ、と言っていた。


あの夜は、チェンバロが誤って半音高く調律されていて、演奏が始まるまで、チェンバロ奏者がチェックしていなかった為に気づかなかったのだ、という事だった。


私が、「あの晩は、始まる前にあなたを見かけた・・」というと、彼は「何で、声をかけてくれなかったんだい?」と社交的に応えたので、「だって、今も彼女の旦那様かどうか、わからなかったから・・」と答えると、それが何故か彼のツボにはまったらしく、大受けであった。