還暦過ぎたピアニスト -7ページ目

還暦過ぎたピアニスト

青が好き。色も、響きも、そしてその意味も。若々しい躍動的なイメージがあり、未熟な初々しいイメージもある。「ヨーロッパの赤には、青が一滴」という発想も素敵だと思う。シニアになった今も、できれば青の近くで、楽しみたい・・。

先日、演奏会があった。


友人と二人の、「二台ピアノの演奏会」


彼女は、年齢こそ二歳下なのだが、普段から判断力があって、頼り甲斐のある性格で、一緒に遊ぶ時も、一緒に弾く時も、何処かお姉さん的な安心感をもたらせてくれる相手なのである。


今回の演奏会も、チラシからプログラムまで、彼女が一手に引き受けてくれて、手作りで完成させ、私は練習さえしていればよいという、全く楽な役回りだったのだ。


演奏会は、彼女の故郷でもある当地で開いたのだが、前日に現地入りした彼女から、プログラムを東京の家に置き忘れてきたという、「世も末・・」、と言った感じの連絡が入った。


今回の演奏会は、そもそも彼女が楽譜を片づけていたら、我々がウィーンで師事していた先生の作品、「二台ピアノの為の曲」の手稿の楽譜が出てきた、というのが発端であった。


その楽譜が手元にあるいきさつは、全く覚えてないそうで、でもせっかくだから一緒に弾いてみようか、というのが演奏会を企画をした始まりであった。


演奏会の本番では、曲の合間のトークで、前日に急ごしらえをした簡易なプログラムの説明と、先生から楽譜を戴いたものの、すっかり忘れていたと、といったお話もした。


幸い、客席の皆様が温かく聞いて下さり、笑いの空気すら醸し出して下さったので、ちょっと胸をなでおろした我々だったのだが・・。


休憩が終わって、第二部のはじまりの曲は連弾だった。


お辞儀をして、椅子に座って、さて弾き始めようかと思った瞬間、横にいる彼女が「あっ!」と小声を出して、私の方を見た、その時の表情は、ちょっと忘れられない。


そして彼女は、「眼鏡を忘れてきた・・」と言うなり、舞台裏へと駆け出して行ったのである。


団塊の世代の演奏会だから、二人とも楽譜を見るためには、眼鏡が必需品なのだ。


まあ、これが生の舞台というものなのだろう。


お客様には、重ね重ねの失礼ではあったけれど、正直なところ、私個人としては、普段とは違った友人の行動に、とても癒されたのだった。

先日の本番は、「二台ピアノの演奏会」だったので、すべて楽譜を見て弾く。


通常ピアノソロの本番は暗譜が慣例なので、結構演奏する者にとっては、楽譜を覚え込むことに費やす労力は大きい。


しかし、暗譜することによって全体の構成も把握できてくるし、何と言っても弾きながら聴く事だけに集中できるのが最大の効用でもある。


それに引き替え、楽譜を見る本番というのは、中々微妙である・・。


伴奏となると、ソロを支える立場であるから、ソロのパート譜にも目をやりながら弾いていく、というコツはわかるのだけれど・・。


二台ピアノは、ソロが二人という役割の部分も多いし、当然楽譜は頭に入れておかなければ弾けないのだが・・。



二台ピアノの本番は、長い人生でも、そう度々本番で演奏する機会はなかったなあ。


今回、誘ってくれた友人には、楽しい機会が持てて感謝している。


プログラムが、彼女と共に学んだウィーン時代の恩師の作品と、彼女のお義父さまの有名な作品なのだから・・。

6~7年前、チェコのブルノへ行った。


其処で国際会議が開かれていて、主人の同伴者であった私は、パーティーでピアノを弾く事になっていた。


プラハから電車に乗って、豊かな田園風景を楽しみながら南下して6時間程だったか、ブルノ駅で下車すると、どうしてもタクシー乗り場がわからない。


タクシーは停まっているのだが、どうも其処は乗車場所ではないらしいのだ。


ホテルの場所は、ネットで調べてあったので、最後の手段として残るのは路面電車であった。


我が旅先での親友ともいえる、ガイドブック「地球の歩き方」を見て、ホテルの近くを通っている路線があるらしい事はわかっていた。


まず、切符売り場を探すのが大変ではあったが、身振り手振りで訊ねて何とか乗車券をゲット。


乗り場へ向かおうとすると、突然「ニホン、ノカタ、デスカ?」という声が聞こえた。


振り向くと、小柄な我々と同世代といった男性が、ニコニコと話しかけてきた。


「あの電車に乗るのなら、急ぎましょう」、と言って、何と私の荷物を持って満員の電車に一緒に乗り込んでくれたのだった。


ホテルの名前を訊いて「あなた方が降りる場所は、教えてあげます」と、流暢な日本語で言う。


日本へ行った事はないけれど、勉強したのだ、という。「こんな風に、日本の方のお役に立てると嬉しいのです」


丁度、ラッシュアワーで満員だった電車に、大きな荷物を抱えて私達だけで乗るのは多分無理だっただろう。


そのうち、電車が大きく揺れて道を曲がると、「次が、降りる場所です」と言って、又彼は私の荷物を持って一緒に降りてくれた。


「右の方に、大きな建物があるでしょう。あそこがあなた達の泊まるホテルです」と言うなり、私たちが十分にお礼を言う間も与えずに、「では、気を付けて」と言って、その人は違う方向へと立ち去ってしまった。


プラハのある北部のボヘミアと違って、此処南部のモラヴィアは、風土も違い食べ物や人々の気質も異なるらしい。


プラハで既に、素晴しく美味しい上に、信じられない程安いビールが、すっかり気に入ってしまった主人と私は「老後は、チェコに移住しようか・・」とその夜、美味しいモラヴィアン・ビールを呑みながら、冗談交じりに話し合っていた。


10何年前に訪れたポルトガル、その後に滞在したスペイン南部に続いて、「老後に移住しようか、候補」が、どんどん増えていく・・??

子供たちが小学生の時、一年間カナダの首都オタワに住んだ事がある。


子供が通う小学校の編入手続きに行って、特に印象に残っているのが、宗教という問題であった。


手続き上、家族の履歴書の様な内容を記入していった時、宗教という項目が目に入った。


いくつかの言葉があって、そこから選択するパターンだったと思う。


たしかその時私は、無宗教という言葉を選んだはずだが、今和英辞典で探しても適当な単語が見つからない。


何故、無宗教を選んだ事だけが、記憶に残っているかというと・・。


その手続きは、校長室で校長先生が直接説明して下さるのを聞きながら書いていたのだったが。


私が無宗教を選んでるのを見て先生が、「無宗教というのは、神を信じないという強い思想を表わしますが、如何ですか。特にそういった意向がなければ、日本の方は、普通仏教を選ばれますが・・」とおっしゃったのだ。


オタワは首都なので、外交官の家庭が多く、その小学校には日本人の子供達が何人も通っていたのだ。


そうか。「まず、宗教ありき」の環境で、宗教を持たないという事は、そこに必ず意志が働いているという事なのだ。




大学時代の恩師が亡くなって、もう30年近く過ぎてしまった。


祖母と同じ年の明治生まれだった先生が、長い間教えていらしたその門下生達は、マンツーマンの個人レッスンが基本である音楽大学にしては相当な数に上る。


そして、顔ぶれが凄い。


先生が亡くなられた後、ホテルオークラだったか、はっきり記憶にはないけれど、お別れの会が盛大に営まれた。


二つの大学で教えていらした、それらの関係者や、音楽界の著名な方々も殆ど顔を揃えていらした。


そこで、追悼の為に、大勢のピアニストの中で只一人演奏をした、先輩。


皆が献花をしている長い間、門下生の有志たちが次々とピアノの演奏を続けてはいたのだが、それらはあくまでもBGMとしての音楽であった・・。


宴もたけなわというタイミングで、皆が聴衆という立場で耳を傾ける場で、ピアノを弾いたその先輩の心意気は、私から見れば大変なものであった。


大体、パーティーの席で演奏するには、コンサートと違った緊張感が伴う。


しかも、亡くなった先生にゆかりのあった、日本の音楽界を総なめにした様な錚々たる方々が、先生を忍んで耳を傾けているのである。


そんな中で、門下生代表として登場した先輩は、先生へと捧げる謝辞にふさわしい、実に落ち着いた、格調の高い感動的な演奏を、聴かせてくれたのだった。


そして、後日。


「あの時、どんな精神状態で弾いたのですか?」と訊ねた私に、先輩は「私は、いつもピアノを弾く時には集中しているから、どんな場所でも集中して弾けるのよ・・。」と、こともなげに応えたのだった。


あれは、普段通りの先輩の姿に過ぎなかったのだ。




偶然、教会のある集まりに参加させてもらった。


生まれた時から教会員だった方が、老齢の為、長野県の施設に移られるお別れの昼食会。


85歳というその男性は、お母様のおなかの中の時代から、教会に通っていたのだという。


惜別の言葉を語ったおばあ様は、その方とは母親同士が親しくて、お家も近かったそうで、幼稚園、小学校とずっと一緒だった、と色々思い出話を並べていらした。


昔は遊ぶところなんか無くて、いつも教会で遊んでいた、とか。


結婚した後、遊びにいらした時も二人で賛美歌を歌った、他の歌は知らなかったから、とか。


クリスチャン・ファミリーというのは、日本の社会の中にあって、きっと特殊なコミュニティーだったのだろう。


意識が高くて、学歴もある人達の世界・・。


西洋から入ってきた文化というか宗教だから、賛美歌を歌い慣れている彼らにとって多分、楽譜も一般的な日本人に比べて違和感が少ないのだろう。



そして、今日の牧師さんのお説教は、いつも通りとても説得力のある内容だった。


何時の日か、私もこの人たちの中の一員として、仲間になれるだろうか・・。








私は、木村拓哉のファンなので、その魅力を一つ一つ数えあげるのは容易ではない。


でも、木村拓哉が多分、相手役の女優さんとの相乗効果で、見事な役作りをしているらしい事は感じられる。


例えば・・。


テレビドラマの「空から降る一億の星」で相手役を演じた、深津絵里。


彼女のエキセントリックな演技に、木村拓哉がかなり啓発されたのだろう事は想像に難くない・・。


あの時の木村拓哉も、結構不思議な役柄だったけど、深津絵里が時折みせる、ちょっと滑らかさに欠ける台詞は、それだけで世界観が現われるくらいに素晴らしかった。



それから「HERO」で演じた、松たか子の演技も、やはり印象に残る。


「ゆで卵の様な顔」と、ドラマの中でいわれた位に、汚れの知らない高貴な顔立ちでいて、その一方で見ているものを潜在的にイライラさせる程に生真面目な、余裕のない考え方の事務官、という役どころを、一体どこからイメージして作り上げたのだろう。


何とも言えず可憐で邪魔くさい、あの台詞のイントネーションとか。

その顔の表情からは、ちょっとした口の動き等で心の動きが伝わってくるし・・。


これが、DNAというものなのだろうか・・。

「赤毛のアン」シリーズでは、二巻目の「アンの青春」に出てくる、ミス・ラヴェンダーの物語が好きである。


ある日、午后のお茶に招かれていたアンとダイアナが、森の中で迷った挙句にたどり着いた、人里離れた「石の家」。


そこで出迎えてくれたのが、風変りなオールドミスと言われているミス・ラヴェンダーだった。


食卓の上には見事なアフタヌーン・ティーの用意がされていて、女主人らしくドレスアップした、白い髪には不釣り合いな程若々しいミス・ラヴェンダーが、二人をお茶に誘うのだ。


他のお客様に悪いからと遠慮する二人に、来客の予定があるのでなくて、実はシャーロッタ四世という風変りな名前の女中と二人で、パーティごっこをしているのだと、打ち明けるミス・ラヴェンダー。


今初めて気づいたが、私が仕事を辞めてすぐに、それまではずーっと染めていたヘヤースタイルを躊躇することなく白髪に戻したのは、何処かにミス・ラヴェンダーの記憶があったのかもしれない。



演奏会の日に。


朝ごはんを作ったり、後片付けをしながら、必ず思い出すピリスのエピソード。


ポルトガル出身のピリスは、とても自由な人で、ミュンヘンに留学していた頃、厳しい事で有名なローズル・シュミット先生のクラスをよくサボった、となにかで読んだ覚えがある。


自転車でふらふらと出かけてしまって、レッスン時間を忘れてしまったりするらしい・・。


そんなピリスだから、ピアニストになってからも、いつも自然体で、演奏会の日でも、家を出るまではいつも通りに、家族の為にアイロンをかけて居たりするとか。


その人生観が、あの自由で飾らない演奏となるのだろう。


東京に住んでいた頃、ピリスの演奏会を追いかけるようにして、何度も通ったなあ。


何処のホールだったか、客席にラドゥ・ルプーの姿を見かけた事もあったっけ・・。


自然体のピリスだから、日によっては不調なこともあったけれど、その日は殊の外、素晴らしい演奏だった。



かつて、通勤で乗っていた山手線の電車の窓から見えていた「リラ・マイ・リラ」という看板。池袋から、目白の間だっただろうか・・。


高架線を通る電車の窓からは看板しか見えなくて、どんな種類のお店なのか、只想像するだけだったのだが・・。


刺繍屋さん? 小さなアクセサリーを置いているお店? 子供用の洋服屋さん? 造花屋さん?


店主が女性であることは間違いないだろう。


リラ・マイ・リラ、だなんて。


「赤毛のアン」シリーズ全10巻の最後の物語、「アンの娘リラ」に由来する名前である事にはまず確信があったけれど、そこから連想するお店はどんな世界だったのだろう。


美しい末っ子の、皆からリラと呼ばれていたマリラが、後に戦死してしまう兄のウォルターから呼ばれていた、特別なニックネーム、「リラ・マイ・リラ」


そして、出征した幼友達ケンが、戦争が終わるまでじっと待ち続けていたリラに、物語の最後で無事に戻ってきて呼びかける名前、「リラ・マイ・リラ」


いつか途中下車して覗いてみたい、と思いつつ、ある日その看板は消えてしまっていた・・。


何処かで「グリーンゲイブルズ」という喫茶店を見かけた事があるけれど、

「リラ・マイ・リラ」だなんて、ちょっとマニヤックだし、それに反応してしまう私も、相当なアン・オタクである。