高校の友人 | 還暦過ぎたピアニスト

還暦過ぎたピアニスト

青が好き。色も、響きも、そしてその意味も。若々しい躍動的なイメージがあり、未熟な初々しいイメージもある。「ヨーロッパの赤には、青が一滴」という発想も素敵だと思う。シニアになった今も、できれば青の近くで、楽しみたい・・。

私が通っていた高校は、県立の女子高で、昔は○○高女と言われていた、よく言えば伝統のある、端的に言えば保守的な校風が、まだまだ残っている学校であった。


例えば、映画を見に行くにも、喫茶店に入るにも、保護者と一緒に、といった類の規則が沢山並んでいたのだ。


ピアノに打ち込んでいた私は、高校時代に映画を見に行った記憶は殆どないけれど、周りには、色々工夫して映画に通っている友人達も、結構居たようだった。


どうやらその当時は、プレスリーの人気が高かったらしく、週明けの休み時間にはそんな話題でよく盛り上がっていた。その中でも宇須井さんは「プレスリーが歌っている時は、顔を見ない様にして目をつぶって聴いてたわ」などと、特に熱心に話していた一人だった。


電車通学だったのだが、乗り換えのターミナル駅の上は、ショッピング街になっていて、その中には大きな本屋さんやヤマハの支店等もあったので、真面目な私達も時々は途中下車して、お店をのぞいたりしていたものだった。


一度、宇須井さんと一緒にヤマハ店へ立ち寄った事があった。その日は、新しく発売されたばかりらしい、チャイコフスキーのピアノコンチェルトのレコードが、棚の上にディスプレイされてあった。


それを見た彼女は、何とお店の人に、「あのレコードを見せて下さい」、と頼んだのだ。


当時のレコードは、女学生が学校帰りにふと思いついて気軽に買える様な、安価なものではなかったから、私はちょっと驚いた。


ところが宇須井さんは、ジャケットに入ったそのレコードを、暫く胸に抱きしめてから、「どうも有難うございました」と言って、丁寧にお店の人に返却したのだ。


世間知らずだった私は、宇須井さんの行動力と、芸術に対する真摯さに圧倒されてしまった。


そのうちクラスが変わって、余り交流は無くなったのだけれど、大学に進学して数年過ぎた頃、東京へ通う電車の中で、ばったり宇須井さんに出会ったことがある。


彼女は大学へは行かず、御茶ノ水にあるアテネ・フランセでフランス語の勉強をしていて、その時は既に最終コースに在籍しており、終了するとパリへ留学するという道があるのだ、と言う。


アテネ・フランセは、私も大学三年の頃、講義の数が減って少し暇になった為、数か月間フランス語講座に通った事のある、東京でも有名な語学学校である。


でも、その頃東京の隣の県に在住していた私は、大学の無い日にもわざわざ一時間以上もかけて通うのが負担になってしまって、結局途中で辞めてしまった、という情けない経験がある。


大学生にはなっても、サークルなどのカレッジライフを満喫している女子大生が多い時代に、遠距離にあるその語学学校にきちんと通い続け、最終コースまで完走間近だという、意志の強い彼女に、私は又々圧倒された。


私がウィーンへ留学する時には、既にパリに住んでいた宇須井さんに、留学生活の様子を教えて貰ったりした記憶もあるので、手紙のやり取りはあったのだろう。


ウィーンで勉強をして何年か経った頃、母がヨーロッパ旅行でウィーンへやってきて、私もパリに同行した事があった。


オペラ座の近くをお散歩していたら、「三越デパート」という看板が見え、懐かしくて中へ入ってみた。


母と、「宇須井さんも、こういった場所でお買い物なんかしてるのかしらねえ・・」等と話していたら、噂をすれば何とやら、じゃないけれど、まさにその宇須井さんが、そこで誰かと話しているのに出会ったのだ。



フランス人と結婚して、今は女の子のお母さんなのだと言っていた。でも、毎日家にいても退屈なので、時々お子さんをお姑さんに預かって貰って、三越に手伝いに来ているのだ、という話であった。



洋画の好きだった女子高生が、西洋に住むことを目的の一つとして語学を学び、ひたすら自分の思った道を歩んできて、今はフランスで家庭を築いている。

宇須井さんの初心貫徹で行動力のある姿勢はとても強烈で、私はその後も幾度となく思い出しては、密かに自らを鼓舞したものだった。