還暦過ぎたピアニスト -12ページ目

還暦過ぎたピアニスト

青が好き。色も、響きも、そしてその意味も。若々しい躍動的なイメージがあり、未熟な初々しいイメージもある。「ヨーロッパの赤には、青が一滴」という発想も素敵だと思う。シニアになった今も、できれば青の近くで、楽しみたい・・。

母が、マリア様の奇跡の話をしてくれたのは、ルルドの奇跡と、ファティマの奇跡だったが、何故か私はファティマの方が印象に強く残っている。


母にとって、時期的にファティマの奇跡の方が、リアリティーがあったのかもしれない。


ポルトガル行が決まって後、ガイドブックを見て、初めてファティマの所在を知り、ぜひ訪れてみたいと思ったのだった。


ポルトの街からまず、かつて奇跡があったと言われる、ナザレ村へ向かった。バスを使って行ったのだが、当時まだ観光地でもなかった漁村行きのバスは、ポルトからの買い物帰りとも思われる、野菜やお魚などの袋を持った、地元の人々が乗り降りしている、何とものどかな路線であった。


ナザレは、ずっと昔マリア様の像が流れ着いた場所という言い伝えがあって、小高い山の上には、像を記念した教会がある。


翌朝、ケーブルカーに乗って山頂へ行った。それは、通勤用の乗り物だったらしく、日常的な表情をした、沢山の土地の人達が、何の感動もない様子で乗っていた。


見物する人もいない其処には、昔、馬で駆け上がってきた騎士が頂上の岸壁で行き詰まった処、突然現れたマリア様に助けられた、という奇跡の場所があった。


断崖絶壁の、見事な景観を臨む様にして、古い教会が建っていた。


中に入って、会堂特有のひんやりとした静けさの中に、私は暫く座っていた。ふと、黒いベールを被ったおばあさんが、何やら私を手招きしているのが見えた。


訳がわからないながら、おばあさんに付いていくと、彼女は祭壇の裏側まで連れて行ってくれて、「ご覧」といった風に何かを指さしていた。


それは、古くなって殆ど黒ずんでしまった、この教会のシンボルである、マリア様の像だったのだ。


見も知らない異邦人に、何の警戒心も抱かず、只親切に案内してくれたおばあさん・・。


その日、お昼のバスで、ファティマへ向かった。何処かのターミナルで乗り換えた、ファティマ行きのバスは直行便で、巡礼者らしき人達で埋まっていた。


ファティマは、100年ほど前、羊飼いの子供達三人の前に、マリア様が何度も姿を現したという、有名な奇跡の場所だ。周りには何もない草原の中に、ぽつんとできた聖地である。


バスを降りると、全員がバズィリカと呼ばれる聖堂の方向へ向って歩き始めた。みな無言だった。


歩き始めて周りを見ると、団体の人達もたくさん居た。それにも係わらず、いくら広い草原の中とはいえ、大勢の人々に包まれた無言の静けさは、私にとって尋常ではなかった。


そのうち、経路はタイル張りになり、中にはひざまずきながら歩を進めているおじいさんもいた。


バズィリカには、大勢の人が居て、ミサが執り行われている様子だった。


やっと来た、という思いは全くなく、「恐らくこの中で、自分一人だけが、神の子ではないのだ」という、思いだけがあった。


神様に、というよりも、そこに居る人たち全員に拒絶されている様な、そんな思いにとらわれた。


帰りに、お土産屋さんの並ぶ通りへ出た。


そこには、昔看護学校で見た様な子供っぽい宗教劇のお人形や、子供のころ神父さまに戴いた様な、聖画の描かれたカードなどがいっぱい並んでいて、何処にでも見られる名所のお土産屋さんと大差なかった。


それだけに、その俗っぽい場所こそが、拒絶された私にとって、唯一身近な存在なのだ、という気がしてきた。


何とも言えない寂しさと共に、私は一人でリスボン行きのバスに乗り込んだのだった。





子供の頃住んでいた街には、何故か教会がたくさんあった。


幼い記憶だから、あいまいながら、外国人の神父さまや黒衣の修道女達が、道を歩いているのも、よく見かけた様に思う。


西洋志向の強かった幼い私は、異国情緒溢れる教会や修道女達の俗離れした様子に、その頃から憧れを抱いていたものだった。


多分、母にもその傾向があったからなのだろう、と今になって思う。 


女学校時代の担任の先生が、敬虔なカトリック信者だったそうで、その尊敬する先生の紹介で父と出会って結婚した、という話だったから、そこにはきっと、キリスト教の影響が色濃くかかわっていたに違いない。


我が家はクリスチャンではなかったけれど、聖書は勿論、お祈りの本や神様に関する色々な本があったし、母からもマリア様の奇跡の話等、折に触れて聞かせて貰ったものだ。


母の友人が住む家の近くには、カトリック系の病院があって、その側には付属の看護学校があった。


友人のご主人が、その病院のお医者さんだった関係で、学園祭には其処の子供達と連れだって一緒に宗教劇等を見に行ったりもした。


子供の記憶だから、総合的には繋がってはいないのだが、その近くには大きなカトリックの教会があって、時折クリスチャンの親戚に連れられて、私も一緒に日曜日のミサに参列するのが、どうやらその教会の様であった。


母に連れられて友人宅で遊んでいたある日。お天気の良い昼下がりだったと思う。其処の家の姉妹と弟と私の四人は、家の中でのごっこ遊びにも飽きて、元気よく戸外へと繰り出していった事があった。


昔の事だから、周りは広い道端や原っぱなど遊ぶ場所には事欠かず、いつの間にか私たちは、教会の前の広場で、ボール投げなどしながら、大声を上げて遊び興じていた時。

 

教会の向かいにある修道院らしき建物から、お顔に見覚えのあるメンラード神父さまが出ていらした。


「ひゃっー!」というのが、私の内心のさけびだったなあ・・。


荘厳なミサの席で、いつも祭壇の前に立たれて手を広げてお説教などをしてらっしゃる、あのドイツ人の神父さまが、突然遊びの場に現れたのだ。


四人の中で私は、わずかながら年長だったし、何処かに、教会の前でこんな風に騒いで良いのか、という後ろめたさを封じ込めていた事もあり、まさに突然悪さを見つけられた、窮鼠の思いだったのだ。


しかも、神父さまは、流暢な日本語で「ちょっと、いらっしゃい」と言うではないか。


他の三人は、深刻さがまるでわかっておらず、それでも悪さが見つかった照れ笑いをこらえながら、修道院の薄暗い廊下を、神父さまの後についてぞろぞろと歩いている。


大分歩いた挙句、神父さまと私達は、小さなお部屋に着いた。


「どうぞ、中にお入りなさい・・」と、私たちを招き入れて下さった神父さまは、何と「あなた達に、良いものをあげましょう」とおっしゃったのだ。


そして、マリア様が幼いイエス様を抱いている、聖母子像の絵が描かれているきれいなカードを、一枚ずつ私たちに渡して下さった。


それは、長じて後、ヨーロッパの何処かの美術館で再会できた、ラファエロの有名な聖母子像を模した、小さなカードだった。


その、マリア様の衣の、明るい青の美しさは、メンラード神父さまの優しかった声と共に、今でもはっきりと思い浮かべる事ができる。



長女が9歳、長男が8歳の時、主人の仕事で一年間カナダに住んだ。


出かける前に、父親は子供たちに「赤毛のアンの国に住んでみようか・・」と言った。その小説がちょうど、アニメ番組で放映中だった為、子供達にもおなじみの響きだったからだ。私にとっては、これでプリンス・エドワード島への旅が保証されたかな、とわくわくした。


10月にカナダの首都オタワに転居して、まずは長~い冬が続いた。毎日、最低気温がマイナス10度を超え、最高でもマイナス8度、なんていう日が続いたのだ。


オタワの中心部を流れている運河、「リドーカナル」は、冬には全面凍結してしまい、世界一長いスケートリンクとなる。全長8キロ弱位。地元の人たちは、リュックサックを背負ってスケート通勤していたり、赤ちゃんを乗せたバギーを押しながら、すいすいと滑る若い女性もいて、それらは一つの風物詩になっていた。


長い冬の後に来る北国の春は、街中にうきうきした気分が漂う。こんなにも人が住んでいたのかと疑うばかりに、どっと人々が屋外に現れるのだ。


私たちも、まずはナイアガラの滝へ車で出掛ける事にした。オタワからは、一泊で戻れる距離だ。ここは数年前アメリカに住んでいた頃に訪れたことがあり、その言語を絶する滝のダイナミックさに深い感銘を受けていた。前情報なしに出会った人の驚きは、いかばかりであったろう。


ナイアガラはカナダの方からの眺めが有名だが、その時はアメリカ側から「霧の乙女号」という船に乗って滝のすぐ近くへ行った。滝の下は凄まじい水しぶきで、船上でカッパを貸してくれた位だった。


当時はまだ、よちよち歩きだった子供たちに記憶はないし、私も改めてカナダ側からも見てみたいとも思った。


アメリカには、世界的な観光地がたくさんあるけれど、カナダではきっと、ナイアガラは有数な名所なのであろう。それとも国民性なのか。滝の近くには、ホテルやレストランが並び、お土産屋さんやゲームセンター等の、どぎついカラーのネオンが光っていた。


「霧の乙女号」の乗り場はカナダ側にもあって、そこにはかなりの列が続いていた。ふと、対岸のアメリカ側に目を向けると、そちらには余り人影がみえなかったので、急に思い立って国境になっているレインボーブリッジを渡り、アメリカへ行った。


大きな河を隔てると、気候が違ったりするものだが、ナイアガラ川の南にあたるアメリカに着くと、太陽の日差しが急に明るくなった気がした。駐車場も広々としていたし、観光船にもすぐ乗れた。


滝の落下地点は、急激な水流のため一年に60センチメートルだったか後退していく、と本で読んだ事がある。そう思って眺めると、以前に見た場所は大分変化していて、新しく立ち入り禁止のチェーンが張りめぐらされている所もあった。主人は以前に撮った場所を思い出して、再度カメラに収め、帰国してから二枚の写真をアルバムに並べて貼っていた。


ゆったりとしたアメリカから、そのまま戻る気にもなれず、その晩は近くのモーテルに宿をとった。そして、西部劇にでも出てきそうな、地元のレストランへ行った。


入口に近いカウンターの向かい側に、ゲーム機が数台並んでいて、子供たちの興味は、すぐそちらに向かう。25セント硬貨を入れると、一回ゲームができるシステムだ。


「遊んでも良い?」と訊く子供たちに、「自分でできるなら・・」と答えると、二人は嬉々として飛んで行った。カウンターに腰かけている常連らしい客が、アルコールを飲みながら、それを見るともなしに眺めている。地元の人だろうか、カウボーイ・ハットでも似合いそうな雰囲気だ


カナダコインを入れても通用しなかったらしく、カウンター内のおばさんに交換して欲しいと頼んでいる様子だ。クォーターと呼ばれる二つの国の25セント硬貨は、一見似ているがレートが違うので、米国硬貨はカナダで通用するが、カナダ硬貨はそうはいかない。


国境沿いのレストランで、そんなことはよく承知のおばさんが、何度もゲーム機との間を往復する子供たちに、優しく対応してくれたのだった。


まあ、レートに関する思い出は期間限定もので、まだその頃は、東西ドイツが分割されていて、ベルリンの壁も健在だった、遠い昔の話だけれど・・。


翌日も、良いお天気だったので、セント・ローレンス河沿いに、米国サイドの道を走った。オタワはそこから北東方面に位置するので、ぎりぎり地点までアメリカを満喫した挙句、小さな国境を通過した。


「米国内で買い物したものはありませんか?」と中年女性の審査官に型どおりに質問されて、主人と私が半日を振り返っていると、すぐさま「オーケー、サンキュー」と、笑いながら言われた。それは、後ろの席から娘が身を乗り出して、マクドナルドで買った小さなキャラクターを差し出していたからだった。


カナダの生活も数か月過ぎて、子供たちが少しずつ英語になじみ始めた頃の、思い出である。

15年程前、ドイツのボーデン湖畔にある、コンスタンツを訪れた事がある。


最寄りの国際空港が、隣国スイスのチューリッヒ、という小さな街だ。飛行機の時間の関係で、チューリッヒにまず泊まった。


その夜は、何かのお祭りがあったらしく、ホテルの傍は行き交う人達や屋台などで、大変賑わっていた。 私はそこで食べた、夕食の付け合せに盛りつけられたポテト料理、レスティの美味しさが忘れられない。


翌日は日曜日だったので、ホテルで教えて貰って近くの教会へ行った。 本場のオルガンの音色が聴きたくて。


ヨーロッパにやってきたんだ、という実感が周りに溢れ出てくるようで、中々の感動だった。


出口で、牧師さんに挨拶されて、「家内が、オルガンを聴きたいと言いまして・・」と答えた主人には、「失礼だから、もうこんな形で教会へ行くのはやめようよ」と戒められたけど・・。


チューリッヒからコンスタンツまでは、電車で二時間位だっただろうか・・。


駅の改札口の様な、簡略な入国審査の場所では、審査官がわざわざ仲間を呼び寄せて、私達のパスポートを珍しげに眺めていた・・。


ボーデン湖は、ドイツ、スイス、オーストリヤに囲まれた、大きな湖で、私たちは湖畔のコンスタンンツの側にあって、短い橋でつながっている小さな島に滞在した。


その島全体が、かつては修道院の建物だったという、アイランドホテルの敷地になっていて、湖に囲まれたそこから眺められる景観は、それは素晴らしいものだった。


そこで開催された会議に出席した人々は、殆ど夫人同伴で、私も他の夫人達と共に、一週間ばかりの素敵な時間を過ごしたのだった。


そう、それは本当に素敵な時間だった。


「明日のレディース・エクスカージョンに参加したい人は、明朝10時にロビーに集まって下さい。」


最初の夜の歓迎会の席で、簡単なお知らせがあっただけで、翌朝10時になったら、集まった人の数だけ確認して、三々五々という感じで歩き始める。


案内役はドイツ人のイングリッドさん。今回のレディースプログラムは全て、議長夫人の彼女が手配してくれたらしい。


ちょっと小柄な、素晴らしい美人である。 エキゾチックな雰囲気の洋服を、個性的に着こなして、パッと目を惹く様子にもかかわらず、シャイな性格なのか余り多くは喋らない。


全く英語を話さない、フランスから来た会長夫人達三人組を、流暢なフランス語で相手をしているのが、又何ともかっこよい。


船に乗って、他の島に渡る。 長い歴史のある島らしく、古い要塞があったり、階段を昇っていく道の両側には、小さなお土産屋さんがずらりと並んでいた。


どことなく、宮崎駿のアニメで見たヨーロッパの田舎町の様だった。


昼食は、高台にあるレストランのテラスで、イングリッドさんは、いくつかのテーブルに思い思いの相手と腰かけていた私たちの間を縫って、メニューの説明をしてくれている。


余りに、その説明が詳しいので、「どうして、そんなに良くご存じなのですか?」と訊いてみると、彼女は淡々と 「アイ・ウォズ・ボーン、 オン・ザ・レイク」 と、言ったのだ。


この表現は、聞き憶えがあるな、とその時思った。


ずっと昔、カナダに住んでいた頃。


湖のほとりのお宅でパーティがあって、「ハー・ハウス・イズ、 ン・ザ・レイク」と、その場所を教えてくれた人が言ったのだ。何て素敵な表現だろう、と強く印象に残っていた。


つまり、イングリッドさんの実家は、このすぐ近くなのだった。


毎日、ゆったりと近隣の植物園や、美術館などを案内してもらって、そのうち夕方になると、会議を終えた旦那様たちが、どこからともなく、といった風に合流してきて、ディナーが始まる。


船上で夕食があった夜。生のバンドが演奏していて、皆の食事もそろそろ終わりかけた頃。イングリッドさんとご主人が立ち上がって、二人で踊り始めた、そのさりげなさ・・。


皆の拍手を聞き流しながら、イングリッドさんが席に戻ると、旦那様が今度は、フランスの会長夫人に、手を差し伸べたのだ。


驚いた様に笑いながら立ち上がった、優しいおばあちゃまと言った雰囲気の彼女は、先ほどお土産屋のジーンズショップで試着していた、その新しいデニムのブラウスとスカートの装いで、シックに踊り始めたのだった。

「ジェーン・オースティンの読書会」というアメリカ映画を見た。随分前の事だけれど。


私の知らない名前だったが、高名な英国の作家で根強いファンがいるらしい。


六人の登場人物達が、オースティンの主要作品の六作の中から、それぞれ好きな小説を選ぶ。月に一回持ち回りで担当者の家に集まり、選んだ一冊を囲んで、読書会というパーティーをするのだ。


素敵な映画であった。


広々とした家でホームパーティーをするのが、いかにもアメリカ人らしい雰囲気だったし、一つのテーマを囲んで意見を出し合うのも楽しそうだった。


映画を見ながら、数十年前に、主人の仕事の関係でアメリカの東部にある大学街に住んでいた頃、大学内の「ピアノ・クラブ」という夫人達の集まりに、参加させて貰っていた事を思い出した。


10人位のメンバーは、お互いに親しそうだったし、長い間続けてきたクラブだった様だから、パンフレットでみつけて、いきなり電話で「入会したいのですが・・」と言ってきた私を、よく迎え入れてくれたなあ、と今になって思う。


大学の研究員だった主人とキャンパス内に住んでいる短期滞在者で、英語にもまだ不慣れというのが、メンバーの人達の警戒心を和らげてくれたのかもしれない。


その会は、月に一度、持ち回りでメンバーの自宅が会場になって、開催されていた。


私が最初に伺ったお宅は、リビングの半分が温室になっている様な、ちょっと不思議な家だった。


スタインウェイのグランドピアノが置かれているお部屋に案内されると、まず其処のセィンディさんがピアノを弾いた。どうやら、まずホステスから弾き始めるのが、ルールらしかった。


何人かの人が、ショパンや、シューマンなどを弾いた後、一人の人が「Are you going to play?」と、身を乗り出す様にして、私に聞いた。


何故かその時の、ヴィヴィアンさんの声や表情を、今でもはっきりと思い出すことができる。


それは、自己紹介をしたり道を尋ねるといった教科書的な英語とは違って、私が話しかけられた、初めての生きた英語だったからかもしれない。


私は、その言葉に勇気を得て、アメリカに転居して間がなく、殆ど練習もしていなかったけれど、モーツァルトのソナタを弾いた。


その場では、ピアノを弾く事が、最も近道の自己紹介だっただろう。


そしてセィンディさんが、たまたま私達のホストファミリーと親しかったこともあって、ピアノ・クラブの人達は、急速に私を仲間の一人として受け入れてくれたのだった

「25年目の弦楽四重奏」という映画を見た。


世界的に有名な演奏家として、共に活動を続けてきた四人の仲間たち。その中の一人で最年長者のチェリストが、パーキンソン病の為に、引退を考えざるを得ない、というところからドラマが始まる。


25年間という長い時間、どうやらバランスを保ってきたらしい彼らの間が、それを機にして揺らぎ始めるのだ。


ヴィオラを担当している女性は、第二ヴァイオリン奏者の妻であり、老いたるチェリストには、親代わりになって愛情深く育てて貰ったらしい。


その他にも、名門ジュリアード音楽院を卒業したプライドある彼らには、様々な時間と共に流れた複雑な関係や過去もあるらしい。


後任のチェリストを迎える問題で、それぞれの考えがぶつかり合い、その一方で若い女の子に、「第一奏者になりたいとは、思った事がないのか?」と訊かれて、それまで封印してきた「セカンドに甘んじてきた自分」という見方に自ら傷ついてしまう、第二ヴァイオリン奏者。


前に「ダウト」という映画で、神父役を演じていたこの役者さんの存在が、特に素晴らしかった。


「ダウト」で、保守的な修道女を演じたメリル・ストリープとのやり取りも、鬼気迫るものがあったが、神父や芸術家といったイメージからはちょっとはずれた彼の外貌が、何と言ってもリアリティーを感じさせていたのだと思う。ちょっと私の中で、風間杜夫と重なった。


アンサンブルは、サイズの大小にかかわらず、全ての比重が同等であっては成立しない。それは、ピアノで和音を弾くのによく似ていると思う。


例えば、ピアノの鍵盤で、四個のキイを同時に押して和音を作るとき。それぞれの音の大きさや響きが、バランスよく調和すれば、初めて四個の音が一個のハーモニーとして聞こえてくるのと同じである。


最後は、演奏会のステージ上で、結局皆の求めているものは一つの音楽なのだと確認する、感動的な場面で終わる.のだが、物語としては予想通りの運びなのかもしれないけれど、始終BGMとして流れていたベートーヴェンの弦楽四重奏曲作品131の崇高な響きが、全てを包み込んで、静かなメッセージを老境に差し掛かった私に力強く伝えてきたのだった。

ヤーツェックの家は、ポーランドの北東に位置する、ツェルナーという村にあった。

ハンティングが趣味というワルシャワの友人が、大きな森のそばにあるツェルナーに別荘を建てたので、そこに滞在させて貰っている時に出会ったのだ。


最初に会った頃、彼は森の番人をしていた。家の庭に電車の車体が一両置いてあって、その車両を彼は事務所として使っていた。英語を得意としない彼とは、友人を通しての会話なので、余り詳しく背景はわからないのだが、とても優しそうな彼には、お料理が飛び切り上手な美しい奥さんのエヴァと、お母さん似の可愛い女の子が三人いた。


「森を管理していると、死んでいる動物の処理を頼まれたりするのだ」と言って、ヤーツェックは車のトランクに積んであったイノシシを見せてくれた。その前日、森の中を一人でジョギングしていた主人の面前を、突然のっしのっしと横切って行ったイノシシが、でも何事もなく去って行った、という話でもちきりだったせいもある。


初めてイノシシを近くで見る私の為に、ヤーツェックは友人と二人で車のトランクから外に持ち出して、私があたかも手で撫でているかの様な瞬間を、写真にとってくれたのだった。


その日は、エヴァが遠来の客である私たち夫婦をもてなしてくれて、イノシシの肉のローストをはじめ、様々なポーランド料理をご馳走してくれた。一番上の、まだ小学生だったカーシャが、パパの仕事にくっついてワルシャワに出かけた話をしている様子だった。「来年は、あなたの番ね」と、すぐ下の妹に話しているらしい雰囲気は、昔テレビで見た「森は生きている」といった、遠い異国の世界を垣間見た様な気がしたものだ。


四年後に再びツェルナーを訪れた時、ヤーツェックは通信教育で大学卒業資格をとって、町の教育委員をしているという話だった。家も、子供達の教育を考えて町に転居したという。奥さんのエヴァは、町はずれに、小さなブティックを開いたそうだ。


最初から私たちは彼らに会う事を想定して、子供さんたちに小さなお土産を用意していた。それはディズニーの小さなキャラクターが、飛んだり跳ねたり喋ったりするおもちゃで、末っ子のエナに最初に渡したのが作戦成功だったのか、隣で興味深げに見ていた二人のお姉ちゃん達にも続けて差し出すと、オーッといった歓声が上がって楽しい時間が流れていった。


中学生になって英語を習い始めたカーシャによれば、パパの事務所に写真が飾ってあるので、私たちのことは憶えていたらしい。私が友人宅で開いた寿司パーティのお皿には、余り手が延びなかったけれど・・。


翌日ヤーツェックが、「自分の町の中学校で、ピアノを弾いて貰えないだろうか」と、私に頼みにやってきた。ポーランドの中学校へ行けるなんて、ピアノを弾いてきた甲斐があったわ、とばかり私はノリノリで引き受けたのだ。

中学校に着くと、素敵な英語の先生が通訳に付いてきて下さって、ピアノのあるお部屋へと、ぞろぞろ連なって行った。「100年もたった、古いピアノで・・」と申し訳ながる先生のお話を聞きながら、こんな田舎町に100年も前からピアノがあった事に、むしろ私は文化の違いを感じていた。


多分、先生も含めて日本人を見るのは初めてだったであろう、中学校の人たち。一緒に行った友人が撮ってくれた簡易ビデオには、中学生の男の子たちが真剣な面差しで私のピアノを聴いてくれている様子や、すっかり文化人になったヤーツェックの優しい笑顔が見える。


日本がどの辺にあるのかもよく知らない生徒たちが、次々と質問してくるのに答えるのも、楽しい時間だった。私は、日本でのクリスマス・イヴについて話をした。サンタクロースのプレゼントがとっても楽しみだった子供時代の思い出等を・・。


二年後に又ツェルナーを訪れた時は、ピアノを弾く事になるかもしれないなと、いささか期待していたのは否めない。


前回同様、寿司パーティーを企画して、友人がヤーツェック達にも声をかけたのだが、連絡した日につながった彼らの携帯はワルシャワからで、翌日帰宅するけれど夫婦だけの参加でよいかという事だった。聞くところによると、エヴァのブティックでは最近、家庭電化製品も扱う様になって、仕入れの為にしょっちゅうワルシャワへでかけているという事だった。


久しぶりに会うエヴァは、真っ赤なジャケットが映える都会的な雰囲気で、食事中にも電話が頻繁にかかってきている様子。相変わらず優しい表情のヤーツェックは、「エヴァ イズ ア ビジネスウーマン!」と言って、隣で笑っている。忙しそうな二人は早々に帰って行ったが、見違えるほど素敵になったエヴァに比べて、ヤーツェックが心なしか元気のないのが、気になった。中学校の話も、全く出なかったし・・。


その夜、別荘の主である友人の話を聞いた。ヤーツェックは少し前の、町長選挙に立候補して、ほんの僅差で敗れたのだそうである。立候補の為に、前職は辞職してしまったとか。奥さんのエヴァが、自分の地元で随分頑張ったのだが、ヤーツェックが森番をしていた地域の票が延びなかったのだそうだ。


翌日、エヴァのブティックを見に、皆で連れだって行った。生憎、夫妻は不在だったけれど、私は深みのある青い色のカーディガンを見つけて購入した。帰りに、ヤーツェックの家に寄った。


子供達三人が居ただけだったが、長女のカーシャは170センチ位の身長になって、一人前のレディに見えた。他の部屋で勉強でもしていたらしい妹達を居間に呼び集めて、彼女は我々の友人の奥さんと親しそうに話をしながら、私たちに紅茶とケーキをふるまってくれた。


初めて会った時からエヴァは、素敵なママで素晴らしい主婦ぶりだった。失礼ながら、ヤーツェックには出来過ぎた奥さんに見えたけれど、すっかり都会的になったビジネスウーマンのエヴァを見て、私はきっと、ご本人も自分の素晴らしさに気付いたのでは、と思ったのだ。


でもママにそっくりなカーシャの礼儀正しいホステスぶりをみて、ヤーツェックはやっぱり出来過ぎた家族を持っているんだな、と一人で納得したのだった。

「赤毛のアン」に関する、思い出話だが・・。


グリーンゲイブルズに住む、マシュウとマリラの兄妹は、男の子を養子にして育ててみる決心をしたのに、手違いから思いがけなく女の子がやって来る。


この出会いは、きっとこの本の愛読者なら忘れられない場面だろう。


特に、始めはアンを孤児院へ送り返そうとした、気の強いマリラが、少しずづ情にほだされていって、結局はアンを引き取る決心をしていくというあの辺は、小説の定型パターンかもしれないけれど、好きなところだ。


カナダに住んでいた頃、子供たちの通っていた学校で、生徒たちが「赤毛のアン」のミュージカルをする、というので見に行った事がある。


夏休みには、小説の舞台になったプリンスエドワード島を旅行して、其処でもミュージカルが見られたし、少し前に放映されていた連続テレビドラマの再放送などもあって、たった一年間の滞在期間だったが、思いのほか「本場のアン」を堪能することができた。


セリフが全て理解できないだけに、知った名前などの響きが出てくると耳に残りやすい。


特に、それまで私の中ではカタカナでお馴染みだった、登場人物達の名前の発音が、随分異なっているのは、とても新鮮だった。


マリラ・クスバートと頭の中で馴染んでいた名前は、マッリッラ・カッスバートに聞こえたし、親友のダイアナは、ダイアーナと呼びかけている様だった。


そして、一番頭に残ったのが、マシュウは果たして兄さんなのだろうか、という疑問だった。普段英語では、呼びかけるときに相手の名前を呼ぶので、マリラが「兄さん」と呼びかけるシーンはなかった様に思った。


あの気の強いマリラと内気なマシュウが、もし姉弟であったなら、という想像はちょっと楽しいものだ。


実際のところは、どうなのだろう。カナダで出会った人の中には、私ほどの「アンおたく」がいなかったので、確認しそこなっているのだが・・。

遠い昔、まだ私が音楽学生だった頃。

ヨーロッパで音楽修行をする為に、希望に燃えて一人で横浜を出発し、ロシアを経由して、ウィーンへと旅立った40数年前。


9月の始めだというのに、既に寒々としたモスクワの町を後にして、行き着いた目的地ウィーンの街並みは、初秋の明るさに輝いて、まるで若かった私を勇気づけてくれるかの様であった。まだ1ドルが360円の時代で、日本人も珍しかったらしく、道を歩いていると、知らないおばあさんに「こんにちは。まあ、遠くからはるばる勉強に来たの?シナからかい?」などと、親しげに声をかけられたものだ。


ウィーンに着いてまだひと月も経たない頃。受講クラスの手続きをしに学校へ行って、階段ですれ違った相手は思いがけなく、東京の同じ大学で見覚えのある人だった。それまで話もした事がなかったのに、見知った顔の人というだけでこみ上げる懐かしさは、同朋の絆と呼ぶべきなのか・・。


取り留めもなく話をしているうちに、その人は自分の住む下宿の近くに、凄い宮殿があるんだと教えてくれた。今の様にガイドブックが出回っているわけではない時代だったので、ウィーンと言っても、ウィーンフィルとオペラ座位しか知識のなかった私にとって、宮殿という響きだけでも魅惑的なものがあった。


校舎から外に出ると、その日はたまたま素晴らしいお天気で、そのまま私は当然の様に、彼の下宿方面へと向かう電車に一緒に乗り込んだ。降りた駅には、「シェーンブルン」という名の看板がかかっていた。


何の予備知識もなくぶらぶらと歩いて行って、小さな門を通り抜けると、突然目の前に広がったのは、美しく壮大な宮殿で、その偉大なる存在感は、私はを圧倒した。


マリア・テレジア女帝にちなんで、テレジアン・イエローと呼ばれるその建物の色は、渋く落ち着いた黄色で、乾燥した空気のせいかどこまでも透明で真っ青な空に、その色合いはいかにもよく調和していた。まさに、文化は風土と共に発展するのだろう。


宮殿の中に入って、数人の見学者と共にガイドさんの説明を聞いた。7歳だったモーツァルトが、御前演奏をした時の絵もあった。滑って転んだモーツァルトが、助け起こしてくれた王女様のマリー・アントワネットに、「将来、僕のお嫁さんにしてあげますよ」、と言ったとかいうエピソードを、ガイドさんはわざわざ私に向かって「まだ、7歳のモーツァルトよ!」と指を立てて強調した。私が音楽留学生だというのは、一目瞭然だったのだろう。


説明が続くうちに、フランツ・ヨーゼフ皇帝とエリザベート皇后という名が頻繁に出てきて耳に残った。その時突然、私は子供のころに見たドイツ映画「プリンセス・シシー」の事を思い出したのだ。たしかあれは、ウィーンの宮廷が舞台で、主人公はエリザベート皇后だったし、皇帝はフランツと呼ばれていたではないか。


勇気を出して私は、「エリザベート皇后は、子供の頃シシーという名だったのですか?」と聞いてみたのだ。すると、そのガイドのおばさんは、若かった私にそっと近寄って、「シシーはね、エリザベートのニックネームなのよ」と、子供に語りかける様に言ったのだ。


それは、独りぼっちだった私が、ウィーンの街に一歩近づいた瞬間だった。


翌日から、シシー関連の本等を買い集めて、すっかりシシー・ファンになったのは、言うまでもない