テンション について 2
前回からの続きです。私の生活はカラダ主体であります。もちろん何も考えないで行動しているわけでも悩みがまったくないわけでもありません。カラダを主体としての日常は、とても気持ちがいい。余計な心配事への思考がない脳の状態を、極力心がけるようにしています。自己問題解決の際には、ものの3秒でポンと結論が出ます。脳内のテンションへ切り替わる一瞬です。そしてすぐに、私のカラダの中にスッと戻る。これを、たとえばいつまでも心配して・・・出した答えを検証して分析して線引きして、その答えと実行するまでをシュミレーションしてみて、結果を想像し、その結果が予想外だったり意図しないものだった時の自分の対応・処理の仕方だとか・・・う~ん・・リアルすぎ。。。かつての私はこういう人間だったから、はい、よくお分りで(笑)。遭遇する問題の大きさにもよりますが、要するに 脳内のテンションにいつまでも縛られたような状態では・・・いわゆる病気になってしまうのですね。でも脳も単純で奥が深い生き物ですから、その状態の中でも辛うじてバランスをとって、違う方向でもって、カラダへの悪影響を最小限に食い止めようとします。まあこれも、ある程度経験を積んだ大人ならではの、成せることではあると思います。・・・しかし、自分のカラダのすべてに対して、あまりにも傲慢ではなかったですか?と自分に問う。脳内のテンションでもって喧嘩した、子ども同士の仲直りは、お互いのチカラでどのように解決すると想像されますか?カラダを使って一緒に遊ぶ、という行為をもって、心から許し許される仲間となっていきます。そこから少し成長すると、そのカラダを使って遊ぶ最中に「さっきはごめんね。」という言葉が自然に出てくる。カラダが、そうさせてくれるんですね。常にカラダに任せて生活していると、躊躇心なく、ここぞという見極めと判断が、自然にできて、尚且つほぼ正当な答えがそこにあったかのように存在します。相手があっての問題も、自分自身の問題でも、それは同じでした。だけどこの「カラダに任せる」ということがミソであり、反面、極めて誤解を招きやすい。そして真に理解した体内のテンションを、極普段の生活の中に常に取り入れられている、という自然な状態になるまでには、何重もの階層と段階があります。(これに関しては、私の歩みとして、ずっとずっと、じわじわと長くかけて記事にしてきました。)私の今の時点でも、あ、自分はまだまだだったんだ・・・もっとカラダに潜っていける・・・と感じることがあるし、新しいキャンバスのような真っさらなカラダを、今日は実感できなかった・・・と思うこともしばしばあるからです。羽鳥 操 著 『野口体操 感覚こそ力』より気持ちがいい という感覚は、あくまでも自分自身の内側のものでありながら、その時のあり方や環境や条件に深く関わってくる。そこに多くの困難な問題が生まれる。快感の大もとは 楽に呼吸ができること、次いで 楽な状態で重さに任せることができること。この二つがまず最初にある。快感といっても実に多様。あらゆる階層がある。しかし、それは、丁寧・大事・大切・勿体無い というような感じをいつも味わっていることから生まれる。音楽家のフォーカルジストニアは、演奏時の症状のみ・特定の部位の症状のみ をなんとかしようという考えでは、それ自体の目の付け所がそもそも違っており、決して治ってはいきません。「楽だ・気持ちがいい」ということが 単純で軽薄だという人は、そのコトバの中身が極めて複雑多様・繊細微小で 底知れない深さがあることなどを、本気で味わったことのない気の毒な人なのである。「する」と「なる」の在り方の違いを・・・。透明平静の感じが大事。そうなんです。体内の張りというものは、軽くて、薄くて、小さくて、微細で、静かで、丁寧で、大事で、大切で、勿体無いという味わいのものから生まれる。これらの大切なものに対して、なにか大きな力でもって威圧し、取り違い・混乱を正当化させ、結果、傷をつけてしまったような気がするんですよね。体性感覚野への神経の伝達障害、云々・・・そこを言うならば、障害 のまえに 傷害 が、知らぬ間にあったのではないかと。その大切なものを、体内レベルで感じ取り、修正していかなければ治っていかない。これが "脳だけの問題ではない" ことの、一つであります。そう"する" のが脳内のテンションによるもので、そう"なる" のが体内のテンション。そういう意味において、私にとって、脳からの学び・知識も必要不可欠なのです。著名なピア二ストをはじめ、アマチュアでいらっしゃることがもったいないくらいの素晴らしい音楽性を持った演奏家さんはたくさんいらっしゃいます。ピアノの先生でも、お教室の発表会などで、脳内は、それこそ大変なテンションであろうにヒーヒー言わず、ご自身も、そつなく演奏をこなせる方。学校の先生も、フットワークの軽い先生ほど、児童・生徒の些細な行動や一人一人の個性を見逃しません。我が家のピアノや、自分主催のコンサートなど、専属に調律師さんがついてくれていますが、この方の仕事は素晴らしい。音への感性度が抜きん出ている。よって確かな腕はもちろんのことであります。結果、YA○AHAをご退職なさってからも仕事の依頼は依然変わらず、引っ張りだこ。仕事でお会いするたび、" この方の仕事へ向かうそのテンションは、どこから湧き出てくるのだろうか? " と、よく観察したものです(笑)。耳の感性は、調律師さんだから当たり前として置いといて、正直言って、申し訳ない言い方ですが、少なくとも頭は使っていない。その代わり、体内のテンションがものすごく漲っている様子が伝わってきます。しかしですね、その最中にも、突然の私の質問に対して、ものの2,3秒で答えがポンと返ってくる。脳内のテンションとの、「行き来」・「めりはり」が、はっきりと垣間見える瞬間です。わからないことは、「わからない」と言うし、ニコニコしながら「なんでだろーねー!?」と、" 解らない "ことを楽しんでいる風すら思わせる。「退職して自分で営業もするようになって思うけど、頭が完全にそっちいってると、ピアノに集中するのが難しいね。だから、発表会で自分の演奏もするピアノの先生は凄い、と思うよ。」「そうですよね~、凄いですよね~。」←自分は出来ていない派だから、すっかり他人事(笑)。という、私の返事もなんだか?摩訶不思議。(そこを突っ込んで悩んでも何の意味も持たないことを、ニヤリと、お互い感じたからかもしれないし。)・・なんて話を最近したけども、いやいや、そこらへんのお考えが素直に出てくること自体、何十年もの経験と実績をお持ちの方が発せられるセリフではないです。まさに子どものような喋り姿でありました。余談ではありましたが・・・このように、私を取り巻いている小さな世界の中にも、結果がきちんとついてきている仕事人から学ぶ、カラダの在り方を知るヒントがたくさん溢れています。自然な穏やかなカラダからのテンションの目覚めを信じ、その中で、自身を生かせているのです。そうすれば 自然なあり方を、からだ、それ自体が選んでくれる。長文でした。。。感謝をこめて。。。最後まで長々お読みくださった皆さま、ありがとうございました