ジストニアになって、真剣にカラダと向き合うようになり、
自分にとっての音楽・自分にとってのピアノという楽器の存在価値を求めること(その求める過程)は、今思えば当たり前であったと思います。

「自分は、自分にしか救えない」

と確信をもって感じとった時、その道筋を貫く勇気を与えてくれるものは 愛情 でありました。

自分の存在を自ら 手放しで愛すること

ジストニアという病いを学び、カラダを学び、学術を学び、精神を学び、
そして失敗を恐れず有りのままの自分をもって作品・ピアノに向き合い、アプローチしていこうとすることは、
紛れもなく、私自身を、とことん愛していくことへの、何物でもなかったとも言えます。


しかし、そんな自分を幾度もピアノの前に置いてきて、そこから本当に見えたもの・・・

それはまったくもって真逆の世界であったのです。

音楽・ピアノという楽器にとっての 自分の存在価値

それは、音楽と自分のそれぞれの関係性を見つめること であります。
今正に向き合う作品と自分との距離感の在り方なのです。

たとえば、これは経験のある方も多いと勝手ながら思うのですが、

その作品を愛し、研究し、たくさん練習して、難易なパッセージも弾きこなせるようにり、想う表現も現実になった。だけど、そのような達成感とともに、どこからともなく、喪失感もやってくる・・・

満足しているはずなのに、何かを失った感じも否めない・・・

この感覚は、その言葉どおり、正にその作品を " 失っている " のです。しかも永久に。

これはとても悲しいことです。解釈してきた自分が、その作品の中で主役となってしまったがために勝利を収めるような振る舞いをしていた ということの証しであるからです。



公私混同。

ここで言う「公」とは、「作品」です。

これは音楽の前において、実は、不健康そのものであると思います。
みんながやっている練習や、一般的に弾けるようになると言われている 或いは教え を、自分に課し、行動することは、自己満足でしかないし、
(この方法で練習していれば習得できるはず。という)自分に対する甘えでもあります。
奴隷と化していることの裏返し、とまでも言いましょうか。
逆に、嗜好を表現するために作品があるわけではないことは、言うまでもありません。

自分だけの 暖かいもの・大切なものとして、心の中の宝箱からいつでも手にとって磨いていく作品とはならない ということなのです。





少なくとも私のジストニアには、いわゆる 好転反応(良くなる前には 必ず悪くなる 現象)が付き物であった訳ですが、

表面的な筋肉の緊張による障害

または、
障害によって起こる表面的な筋肉の緊張

これを克服すべきは、すべて、カラダの内側の動きに感覚を注いでいくこと。

表面的な筋肉で取り繕ってきた生活そのものを捨てていく作業です。
一旦、無心にならなければ、それは実現不可能です。
その過程において、異変と感ずるものは必ず起こります。
その過程を経ないと、内面は見えてきません。

これは音楽の世界でもまったく同じことが言えます。

音楽への直感を失わないために、無欲になる。

現実に起こる現象に直面すると、これには正直、恐怖に近いものを感じます。
アレクサンダーからの学びで、言葉をお借りするならば、
既知(誤)から 未知(正)への道のりでは、まず、自発性(未知ゆえの自然発生的現象)の喪失が起きる。
からです。
しかし、
" 私は健全である " かのように振る舞い(表面的な筋肉での繕い)、作品に向かっていた 既存の独自の感覚の喪失こそが、神聖な音楽へ向かうための、何にも代え難い、第一歩なわけです。

作品を永遠に失わないために。

直感を失わずに作品と向き合う習慣を獲得・実現化するために。

内なる動きが、音楽と連動し、作品の秘境へカラダの意識が繋がっていく・・・その第一歩。


音楽に向き合うということは、異変や失敗を恐れず、むしろそれらを受け入れ、無欲になる  ということ。


必ず

必ず、

それは " チカラ " になる

と確信しています。

作品(作曲家)の意図が、自分を通して表面化し、自由自在に実現させることのできるチカラです。

言い換えるならば、音楽に携わる者の生き方となり、正しく生きるための、そして 自身を上手に使って生きていく賢さ・謙虚さへの、それは " チカラ " になるのです。








前回UPからずいぶんと間が空いてしまいました。(相変わらず、小難しいことを書いておりますが。)
留守中にもかかわらずお越しいただいた皆さま、そしてまたこうして再びページを開いてくださっている皆さま、ありがとうございます。
書きたいことは、ずーっと、沢山あったのですが、
今までになかった(であろう)大きな未知の扉を開け、勇気をもって一歩踏み出す作業に気持ちを注いでおりました。
夢に向かう楽しい作業です。
今を大事に生活しながら、こんな自分でも、出来ることの可能性を広げていくことは幸せなことです。
小さいけれど、私という存在を解放し、誰かのためになるならば、この幸せを分かち合うことを、神さまはきっと見守っていてくれるのではないかな・・・。


よくわからない独り言(笑)。

ふ~ん・・・そうなんだ・・・程度で、お許しくださいませ。