自然療法と自然農は同じ軸でつながっている

 

私にとってそれは「哲学」なのだが

人によっては「宇宙」とか「天」とか「神様」と表現したりする

 

言葉はなんだっていい

今の世の中に必要な考えだと思うのでご紹介しておきたい

 

 

自然農の川口由一さんを紹介した本

『畑から宇宙が見えるー川口由一と自然農の世界』より

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すべての生き物は勝手に生まれてきている、それが自然ということ

「・・・すごいなと思うのは、すべての生物も無生物も、勝手に生まれてきていることです。太陽が生まれたのも、銀河の星々が生まれたのも、地球が生まれたのも、地球の上に人類が生まれたのも、何か目的があって生まれ、今を生きているのではなく、目的があってやがて死んでいくのでもありません。すべて無目的で、それが自然の出来事です。宇宙生命界の出来事はすべて自然で、自ら然らしめるというのはこういうことなのかと気づき、悟り知りました。」

 

 

自然は常によくなろうとする営み

「自然は常によくなろうとする営みである。いのちの道に沿っていれば、自ずから然らしめる(自然にそうなる)ということは間違いない」

 

手作業じゃないといのちと向かい合えない

「手作業じゃないといのちと向かい合えない」自分の手で触り、体を使うことではじめて、生命とは何かという実感を得ることができるのだ

 

生まれた目的を探すのでなく・・・

「生まれた目的を探すのでなく、自分が必要とされていることは何か、それを見つけた方がいい」

 

その答えを生きなさい

「問題を解決しようとしないこと。その答えを生きなさい」

川口さんにとってのそれは、どんな社会問題が起ころうが、

今日も畑に行く それが川口さんにとっての答えを生きるということ

「一人一人が自分のできること、やるべきことを選択し続ける。本当に重要なことです」

お薬の影響ではないかと思われる事件事故が

多すぎる!

しかし

事件とお薬の関係は

検証されることもないし

報道されることもない

 

仕方がないので

資料集めがてら書き留めておこうと思う

 

 

 

令和7年5月6日 yahoo!ニュースより

 

 

 

3月24日、

浜松市で小学生の列に軽トラックが突っ込み、

4人が死傷した事故のその後の聞き取り調査

 

78歳の男性

 

・事故の時には直前に気を失っていた

「事故現場の20〜30m手前から・・・気を失ったと思います」

「・・・トラックの下に自転車を巻き込みながら。それで止まったところですぐに目を覚ましました」

「大変なことをしてしまったっていうことは頭に思い浮かべましたけれど、小学生が前を走ってるっていう記憶がないものだから、どこから気を失ったか

 

・数週間前にも同じような形で物損事故を起こした?

「3月24日に起きた事故の3週間ぐらい前・・・

木の10cmぐらいの太い根っこに当たったように記憶しています。当たって、すぐ止まりかけて、交差点で止まりかけたとこでちょっと目がくらんで、何かおかしいと思ったら、もうちょっと、かすっていまして、降りたら自分の車が少し傷が、筋がついていたのと、へこんでいたのと、その程度でしたので、修理店へ行って、すぐ直してもらって・・・」

 

毎年、人間ドックは受けているものですから、1年間に1回、全体のドックは受けております。通院は1か月に1度ぐらい、同じ医師に通って、朝昼晩、いくつかの病気の薬を飲んでるものですから、その中で何か見つかればいいかなっていう風な程度で過ごしていました」

 

子どもの命を奪った犯人は

真面目に医者にかかって

言われた通りに薬を服用している

素直なご老人

 

狂気を孕んだ悪人というわけでもない

だから誰でも犯人になる可能性はある

 

どんな薬をどんな組み合わせで服用しているか

事故との関連を

調べなくていいのだろうか

公表しなくていいのだろうか

 

同じ薬を服用している人に

注意喚起しなくていいのだろうか

 

また子どもが犠牲になる可能性が

ないと言えるのだろうか

 

No!と言わない生き方は

理不尽な社会にYes,welcome!と言ってるのと

同じじゃないのかな

 

 

前回の続き・・・

 

養老先生の箴言は

「自分よりも『世間』は先に存在している」

 

だから世間に従え、などと

説教くさいことを言っているのではない

 

 

もっと重要なことがその先にある

 

 

当人たちは

「世の中が自分を受け入れていない、

世の中のルールを俺に相談なく勝手に決めやがって」

という不満を抱えているのだが

一方で

自分自身も世の中を受け入れていないということに

気づいていない、そこが問題だ、と。

 

そんな人について養老先生は言う、

「何歳になっても子どものような人、成熟しない人は困ったものです。」

職場でそのような人がいれば、

「尻ぬぐいをする必要があったのです」

 

私もこれは身の回りで実感している

年齢立場関係なく

いつまでも「社会のお客様」然とした人が増えている

 

世の中での自分の立ち位置を

常にもてなされる側でしか考えられない人

 

 

それがいいか悪いかを論じたいのではない

 

「社会のお客様」の立場の人で

充実した人生を幸せに送っている人は

一人もいない

ただ、それだけのことである

 

 

 

五月病の季節

退職代行モームリ が話題になっている

 

退職のことだけでなく

若い世代に共通すること、

養老さんの視点がするどい

 

自分の好きなこと、自分の得意なこと

自分に合った仕事…

 

もちろんそれは大事なことなんどけど

自分自分だけが先をいくと

世の中と空回りしてしまう

 

養老さんは言う、

「まず存在しているのは『穴』のほうです。

需要といってもいいでしょう。

自分のやりたいことが先にあるのではなく、

求められることが先にある」

 

「何をどう思おうが、

どれだけ不満を抱こうが、

自分よりも『世間』は先に存在している」

 

 

どんな偉業も

最初は『穴』を埋めることから始まっている

自分が自分が・・・ということではない

 

これは若い世代へ、というよりは

若い世代をこれから世に送り出す

親の世代にこそ必要な視点だと思う

 

 

 

 

 

社会の病理も

ヒトの病理も

こんなところから始まっている

 

人間は考える葦である

って、賢い誰かが言っていたのに

 

物質的に豊かになりすぎたぬるま湯世界に

どっぷり浸かって生きていると

人は考えることを放棄したくなるみたいだ

 

考えることを放棄した人の価値観は

○かXか

正解か間違いか

正義か悪か

そんな二元論に終始する

 

〇〇主義というカテゴリーの中に身をおいて

範疇外のものは価値が低いと

さらにカテゴライズする

この価値基準は上下関係も大好きで

常に自分の立ち位置と他人の立ち位置を比較している

 

自分の心の傷に応じて

やたらと自虐的になったり

過度に攻撃的になったりする

 

今の世の中の問題、たいていがこれ

 

 

何かを特別な正義として

考えることを放棄する

 

医者にかかることが正義

学校に行くことが正義

 

いやいや、

その医療や学校のシステムが

正義を名乗るのにふさわしいものなのか

まずそこを考えよう

 

考えようよ

 

だって

 

考えることを放棄したら

その時点でもう

人間ではなくなっているのかもしれないから