石原慎太郎・裕次郎兄弟について
書かれていた。それを拝読して
思い出したこと。
余りにも当該記事の趣旨と外れて
一部だけに反応した
私の単なる思い出に過ぎず心苦しいので
リブログはしませんが
トップの赤太字から飛べます。
大変な読書家さんによる
とても内容の濃い記事なので是非。
石原慎太郎さんは美濃部亮吉都知事の
対抗馬として都知事選に立候補した。
この記事を拝読するまで
私は1972~73年頃だろうと
ずっと思い込んでいた。
ところが実際は75年だという。
子どもの頃の2~3年の記憶のズレは
今よく感じる、たかが2~3年ではなく
ずっと大きな差である。
何故そう思っていたのか。
私が住んでいたのは都内最大の
マンモス団地だった。
大きな票田と言うことで
石原裕次郎が応援に駆けつけたのだ。
当然近所の奥様たちは大騒ぎ
私の友達も遊びを放り投げて
裕次郎を見に行ったのである。
私はその時逆方向に自転車を走らせ
一人で遊んでいたのは鮮烈に覚えている。
だから裕次郎を知らなかった時代
全く関心を抱いていなかった頃
太陽にほえろがまだ放映されていなかったか
放映され始めたばかりの頃だろう
と思い込んでいたわけだ。
ところが実際は75年4月。
当番組の絶頂期
テキサス刑事が登場して半年経った頃。
太陽にほえろはクラス中の話題で
男女とも見ていない子どもはいなかった。
特にテキサスは子ども人気が高かった。
私も例外では無く
テキサス・ボン期はリアルタイムで
最も熱心に視聴していた時期なのだ。
なのに他の友達と何故、ボス
裕次郎を見に行かなかったんだろう。
考えられるのはただ一つ
両親が慎太郎氏立候補を
散々ディスっていたからだろう。
母は裕次郎に全く関心は無かったが
父はあの世代共通であろう
裕次郎の大ファン。
1月末におかしくなるまでは
裕次郎の歌を毎日のように聞いていた。
でも慎太郎氏は別だったらしい。
特に母の批判が凄くて
団地中に貼られたポスターを見る度に
ってな具合だったかと思う。
その影響を大きく受けて
慎太郎の選挙演説など
見に行ってはいけないとなったのだと思う。
あるいは大スターではない
単なる「弟」の裕次郎を
見ても仕方ないと思ったのか。
いやそんな大人びた発想ではなかったはずだ。
今はまるで変ってしまった両親だが
些細な事でも過去の元気だった頃
その影響を大いに受けていたこと
が思い起こされるわけだ。
慎太郎氏のベストセラー
『スパルタ教育』
私の子ども時代だ。
今振り返ると、学校でも家庭でも
この影響は凄まじかったのだと思う。
私の両親のように彼には否定的でも
全否定したわけでは無く
ところどころ肯定していたかも知れない。
母は違っただろうが 父はね。
今だと「発達障害」と言われて
昨今のその烙印をすぐ押してしまうことの
是非については
ここで安易に書くことは出来ない。
ただその言葉のなかった時代
当時、その傾向があった子どもは
石原さんの著書は
相当ツラかったと思いますよ。
これは身に染みていますw
ちなみに慎太郎さんは
4人のお子さんに
著書のような教育は施さなかったとかw
本日は疲れまくって
意気消沈してヤヴァイ感じなので
記事が多めになってます^^;
下は発達障害に対する
母との思い出記事
20年8月ですが考えはぶれてません
以下、石原慎太郎さん絡みの記事2つ




