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哲学系ダイアリー

哲学関連の勉強日記です。

前回の続きです。

それまでの個人的な生産のなかに、社会的な生産が現れたのでした。
工場では、独立の生産者よりも、生産物を安く生産することができます。
なので、独立の生産では最早やっていけなくなり、生産方法は社会的生産が主流になります。

ところで、中世の個人的生産にあっては、労働の生産物が誰に属するものか、という問題は起こりようがありませんでした。
初めから、本人に属していたからです。
しかし、生産は最早社会的なものになりました。
そうすると、どういう問題が起こるでしょう。

今やそれは彼の生産した物ではなくて、全然他人の労働の生産物であるにかかわらず、労働手段の所有者がこれまでどおりその生産物を取得することになったのである。こうなると、社会的に生産されることになった生産物を取得する人は、生産手段を現実に動かし、生産物を現実に生産する人ではなくて、資本家であった(70頁、強調原著)。

生産方法は社会的なものになったにもかかわらず、取得形態は依然として個人的なままです。
生産物を得るのは、実際に生産する人ではなく、生産手段を持つ人だ、というわけです。
生産手段とは、仕事場とか土地とか道具でしたね。
そして、生産手段を持つ人を資本家というのです。

これが、資本主義の基本的な矛盾とされます。

これにより、個人的な生産者は、賃金を求めて資本家のところに行くより仕方がなくなりました。
賃労働が生産の基本形態となったのです。

一方では資本家の手に集中された生産手段と他方では自分の労働力のほか何ももたぬようにまでなった生産者、この両者の分離は完成した。社会的生産と資本主義的取得との間の矛盾は、いまや、プロレタリアートとブルジョアジーとの対立となって、明白に現れてきたのである(71頁、強調原著)。

それでは、資本主義の発展についてです。

エンゲルスは、初めに言います。

生産、それについでその生産物の交換が一切の社会制度の基礎であると、また、歴史にあらわれるどの社会でも、生産物の分配、さらにまた、階級あるいは身分というような社会的編成は、何がいかに生産されるか、その生産物がいかに交換されるかによってきまる(65頁)

社会や政治の変化の原因は、生産と交換の方法の変化にあるというのです。
それは経済だ、と。

いまの社会制度は不合理で不正だといったり、条理は通らないといったり、善意が非難の種となったり、要するにそういう考えが広まるのは、生産方法と交換形態が暗黙のうちに変化して、これまでの経済的条件にあわせてつくられていた社会秩序が、それにうまく合わなくなってきたという証拠にすぎない(65頁)。

しかし、そうした弊害を除去する手段もまた、その生産関係そのもののうちに存在するといいます。
そしてこの手段は、頭で発明されるのではなく、生産という物質的条件のなかに、頭をつかって発見されるものだというのです。

生産方法と生産力は衝突します。
それでは、なぜこの衝突は起こるのでしょう。

資本主義以前の中世では、労働者が生産手段を私有する小規模経営が一般的でした。
労働手段(土地、農具、仕事場、道具)は、生産者自身のものでした。
そんな生産手段を集めて、拡大して、強力な生産の梃子(てこ)とすることが、資本主義的生産方法とブルジョアジーの役割だったのです。

仕事場は、個人のものから、大規模な工場に変わりました。
そうなると、生産は、個人的行為から、社会的行為に変わります。
そして、生産物は、個人的生産物から、社会的生産物に変わったのです。
たとえば、工場から作り出される製品に関して、それは多くの労働者が共同して作ったものですから、これは自分が作ったものだとか、これは自分の生産物だとかは、言えないですね。

今回から勉強したいのは、エンゲルスです。
テキストとして、『空想より科学へ』(大内兵衛訳、1946年、岩波書店)を使用します。

空想より科学へ―社会主義の発展 (岩波文庫 白 128-7)/フリードリッヒ・エンゲルス

この、「社会主義の発展」という副題を持つ本がつくられたのは、1880年です。

エンゲルスはまず、空想的社会主義を批判します。

かつての革命の先駆者たちは、とにかく理性を重視しました。
理性国家、理性的社会をつくろうとしたのです。
しかし、フランス革命がこの社会・国家を実現しようとしたものの、その実際は決して理性的なものではありませんでした。
革命は理性どおりにはいかないものだ、といいます。

なぜ、理性は無力だったのでしょう。
当時はまだ、資本主義的生産方法、そしてブルジョアジーとプロレタリアートの対立は未発達でした。
大工業は、フランスではまだ知られてさえいませんでした。
しかし、「この大工業こそ、一方で生産方法の変革を、その資本主義的性質の除去を、強制的な必然にまで高める闘争を―ただに大工業によって生み出された階級と階級との闘争だけでなく、それによって作り出された生産力と交換形態との闘争をも―発達させる」(37-38頁)のです。
大工業自体が、この闘争を解決する手段を発達させるというのです。
(※ブルジョアジーというのは資本家階級のことで、プロレタリアートというのは賃金労働者の階級のことです。)

資本主義自体がまだ未熟であったため、その理論もまた未熟で、社会問題の解決方法は隠れていたので、頭で作り出すしかなかったのです。
社会の悪習を取り除くのが理性の仕事だったのです。
そこで、完全な社会制度を発見し、宣伝し、実験の実例をつくり、外から社会に押しつけようとしたのです。
なので、これらの社会理論が空想的になるのも、仕方のないものだったのです。