哲学系ダイアリー

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哲学関連の勉強日記です。

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これをもって、本ブログの更新を終えます。

ここで扱った哲学書は、ほんの僅かで、しかも断片にすぎません。
あくまで、導入の役目を果しただけだと思います。
本当の勉強は、これから皆さん自身でお願いします。

素人の勉強にお付き合いいただき、ありがとうございました。
それでは、この本のタイトルでもある「善」について考えてみましょう。
善とは一体なんでしょう。

善とは一言にていえば人格の実現である。これを内より見れば、真摯なる要求の満足、即ち意識統一であって、その極は自他相忘れ、主客相没するという所に到らねばならぬ。外に現われたる事実として見れば、小は個人性の発展より、進んで人類一般の統一的発達に到ってその頂点に達するのである(217頁)。

さっそくですが、疑問が生じます。
満足することが、すなわち善であるのか、と。

実はこの両者は、矛盾するものではありません。
現象には、内外の区別はないのでしたね。
主観的意識というものも、客観的実在界というものも、同じ現象を違う方向から見たもので、そこにはただひとつの事実があるだけなのです。
言うならば、世界は自分の意識により成り立っているもので、そのため、自己と宇宙とは同一物なのです。
ですから私たちは、心の中に、真理や美や善の無限の意義を感じることもできるのです。
私たちが実在を知るということは、自分の外のことを知るのではなく、自己自身を知ることなのです。
ですから、実在する真や善や美というものは、そのまま自分にとっての真や善や美でもなければなりません。

それでは考えてみましょう、事実として善ではあるけど動機は善ではないものと、事実としては善ではないけど動機は善であるものとを。
前者については、それは人格実現を目的とした善行ではないですから、そこから与えられるものは単なる利益にすぎません。
それは、小さなものであっても善なる動機から出た行為に劣ります。
後者については、その原因を、その人にとっての至誠と他の人たちにとっての善とが必ずしも一致しないではないか、というところにあると考えられるかもしれません。
しかしそれでは解釈が間違っています。
「至誠」を「真に精神全体の最深なる要求」という意味で用いるならば、この誤解はなくなるでしょう。

このように、私たちの最深なる要求と最大の目的とは一致する、と考えられるのです。

我々が内に自己を鍛錬して自己の真体に達するとともに、外自ら人類一味の愛を生じて最上の善目的に合うようになる、これを完全なる真の善行というのである(221頁)。

こうして見ると善行は何だか難しそうですが、実際には誰にでも出来ることでなければなりません。
道徳というものは、自分の外にあるものを求めるのではなく、自分にあるものを見出すだけです。
最大の善というと、あたかも何か世界的人類的な大事業でもしなければならない、と思いがちですが。
何をするかは、その人の能力や境遇によって変わりますから、誰でも同じことをする必要はありません。
しかし、やることは違っても、同じ精神で働くことはできるのです。
どんなに小さなことであっても、人類愛にもとづき働いている人は、偉大な人格を実現しつつある人ということになります。

実地上真の善とはただ一つあるのみである、即ち真の自己を知るというに尽きている。我々の真の自己は宇宙の本体である、真の自己を知ればただ(注)に人類一般の善と合するばかりでなく、宇宙の本体と融合し神意と冥合するのである。……真の自己を知り神と合する法は、ただ主客合一の力を自得するにあるのみである(222頁。「ただ」の漢字は「帝」に「口」)。



今回で、『善の研究』を終わります。
意志の統一は、どこから起こるのでしょうか。
科学者はそれを、私たちの身体から起こると考えるでしょう。
有機体の目的は自己や種の維持発展なのですから、私たちの意志の目的も生活保存にあると考えるのです。
だから科学者は、私たちの様々な精神的なものも、この生活の目的ということで説明しようとするのです。

しかし、「意志の本を物質力に求め、微妙幽遠なる人生の要求を単に生活欲より説明しようとするのは頗る難事である」(144頁)。
もし科学者が考えるように、私たちの意志が単に有機体の物質的な作用によって起こるのであれば、物質にはどのような能力があると考えるべきなのでしょうか。
ふたつの考え方があります。
ひとつは、物質のなかにも合目的な力が潜在的に含まれているというもの。
もうひとつは、物質は単に機械的な力をもつにすぎないので、合目的な自然現象はすべて偶然であるというもの。
多くの科学者はおそらく後者を支持するのではないでしょうか。
しかし、このふたつの考えは、結局のところその根底は同じであるように思えます。
機械的な力にしても、どこかでその力を生じさせるものが内にあるということなのでしょうから。
こうしたことに関しては、物理学によって説明がなされるのでしょうが、そうすると結局、真理とは相対的なものにすぎなくなってしまいますよね。

さらに、実在的に見れば、物体とは意識現象の不変的関係に名づけたものにすぎないので、物体が意識を生じるのではなくて、意識が物体を作るのです。
客観的だと思われる機械的な運動も、私たちの論理的統一があればこそ成立するものなので、決して意識を離れたものではないのです。
そして意思こそが、私たちの意識の最も深い統一力なのです。
外から見ては単なる機械的な運動であったり生活現象にすぎないものであっても、その内面にあるのは意志なのです。

恰も単に木であり石であると思っていたものが、その真意義においては慈悲円満なる仏像であり、勇気満々たる仁王であるが如く、いわゆる自然は意志の発現であって、我々は自己の意志を通して幽玄なる自然の真意義を捕捉することができるのである(146頁)。

現象を、精神現象と物体現象とに分けて考えるなら、これは理解できないと思いますが、直接経験における具体的事実には内外の区別はなく、むしろこのような考えが直接の事実なのです。

そして、「動作は意志の表現である。外より動作と見らるる者が内より見て意志であるのである」(147頁)。