私たちは、純粋経験の外に出ることはできません。
どのような意識であっても、それが統一されているときには、いつでも純粋経験です。
しかしこの統一が破れ、他との関係に入ったとき、意味や判断を生じます。
意味とか判断とかが出てくるのは、現在の意識を過去の意識に結合するからです。
それは現在意識とその他との関係を示すのであって、意識系統における現在意識の位置を示しているに過ぎません。
たとえば、ある音が鐘の音だと判断したときには、過去の経験からその位置を定めたのです。
こうなると、純粋経験は破壊されます。
意味とか判断とかは、不統一の状態なのです。
さて、人間の実践というものは、すべて行為に集約されます。
それでは、行為とはなんでしょう。
それは、単なる物体的運動とは違います。
目的が明瞭ではない本能的動作とも違います。
行為とは、目的が明瞭に意識されている動作のことなのです。
行為は、動作を伴いますが、それは意識現象から起るものですから、つまり元にあるのは意志です。
それでは、意志は、どのようにして起るのでしょう。
私たちの身体は、生命保持の運動をするように出来ていて、それに沿って意識が発生しますから、はじめは単純な苦楽の情です。
そして、外界に対する観念がはっきりしてくるにつれて、運動は刺激に対して無意識に発するのではなく、まず結果を考えて、その手段となる運動を考えて、それから運動に移ります。
つまり、意志が発生するのです。
意志が起こるには「動機」が衝動的感情として現れます。
それに目的観念である「欲求」が伴います。
いくつかある欲求のうち、最も強いものにより動作に移るとき、これを「決意」といいます。
私たちの意志とは、このような意識現象全体を指すのです。
行為の要部は実にこの内面的意識現象たる意志にあるので、外面の動作はその要部ではない(137頁)。
今回から勉強するのは、西田幾多郎(1870-1945)です。
テキストとして『善の研究』(1950年、岩波書店)を使用します。
そして、この度の勉強をもって、本ブログの役目を終えることとします。
さて、西田の哲学を知るには、「純粋経験」というものを理解しなければなりません。
まずは、経験というものを考えます。
経験するというのは事実其儘に知るの意である。全く自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。純粋というのは、普通に経験といっている者もその実は何らかの思想を交えているから、毫も思慮分別を加えない、真に経験其儘の状態をいうのである(15頁)。
たとえば、色を見たり音を聞くとき、まだ、これが外からの働きであるとか、私はこれを感じているとかの考えがないだけでなく、この色この音は何だ、という判断すらない、その前なのです。
ですから、純粋経験とは直接経験と同じです。
自己の意識状態を直下に経験したとき、未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一している。これが経験の最醇なる者である(15頁)。
知識は経験ではありませんし、意識であっても他人の意識は自分には経験できませんし、自分の意識であっても過去を想い出すこと、目の前のことであっても判断を下したときにはもう純粋の経験ではないのです。
真の純粋経験は何らの意味もない、事実其儘の現在意識あるのみである(16頁)。
現在の意識を分析するとき、その分析されたものはもはや現在の意識とは同じではありません。
主客未分の状態とは、たとえば、崖をよじ登っているような場合です。
また、音楽家が熟練の曲を演奏しているような場合です。
全くの知覚の連続なのです。
これらの精神現象においては、知覚が厳密なる統一と連絡とを保ち、意識が一より他に転ずるも、注意は始終物に向けられ、前の作用が自ら後者を惹起しその間に思惟を入るべき少しの亀裂もない(18頁)。
純粋経験とは意志の要求と実現との間に少しの間隙もなく、その最も自由にして、活発なる状態である(21頁。旧漢字は新漢字に改めた。以下同)。
意志の本質というのも、未来にあるのではなく、現在の活動にあるのです。
意志というのは、主客の統一なのです。
ですから意志はいつも現在なのです。
テキストとして『善の研究』(1950年、岩波書店)を使用します。
そして、この度の勉強をもって、本ブログの役目を終えることとします。
さて、西田の哲学を知るには、「純粋経験」というものを理解しなければなりません。
まずは、経験というものを考えます。
経験するというのは事実其儘に知るの意である。全く自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。純粋というのは、普通に経験といっている者もその実は何らかの思想を交えているから、毫も思慮分別を加えない、真に経験其儘の状態をいうのである(15頁)。
たとえば、色を見たり音を聞くとき、まだ、これが外からの働きであるとか、私はこれを感じているとかの考えがないだけでなく、この色この音は何だ、という判断すらない、その前なのです。
ですから、純粋経験とは直接経験と同じです。
自己の意識状態を直下に経験したとき、未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一している。これが経験の最醇なる者である(15頁)。
知識は経験ではありませんし、意識であっても他人の意識は自分には経験できませんし、自分の意識であっても過去を想い出すこと、目の前のことであっても判断を下したときにはもう純粋の経験ではないのです。
真の純粋経験は何らの意味もない、事実其儘の現在意識あるのみである(16頁)。
現在の意識を分析するとき、その分析されたものはもはや現在の意識とは同じではありません。
主客未分の状態とは、たとえば、崖をよじ登っているような場合です。
また、音楽家が熟練の曲を演奏しているような場合です。
全くの知覚の連続なのです。
これらの精神現象においては、知覚が厳密なる統一と連絡とを保ち、意識が一より他に転ずるも、注意は始終物に向けられ、前の作用が自ら後者を惹起しその間に思惟を入るべき少しの亀裂もない(18頁)。
純粋経験とは意志の要求と実現との間に少しの間隙もなく、その最も自由にして、活発なる状態である(21頁。旧漢字は新漢字に改めた。以下同)。
意志の本質というのも、未来にあるのではなく、現在の活動にあるのです。
意志というのは、主客の統一なのです。
ですから意志はいつも現在なのです。
道具がその存在においてありのままに現われてくるのは、それぞれの道具に呼吸を合わせた交渉をしているときです。
たとえば、ハンマーをふるって打つときのように。
そのとき、存在者を出現する事物として把握しているわけでも、その道具の構造を知っているわけでもありません。
ハンマーをふるうということは、その道具的性格についての知識だけではなく、その道具をそれ以上ないほどに自分のものにしているということなのです。
ハンマーが単にものとして眺められるだけでなく、手っ取り早く使われるほど関わり合いは根源的になり、ハンマーはそれだけありのままの姿で出会ってくるのです。
このような存在様相を「用具性」といいます。
道具にはこのような「自体=存在」がそなわっているのであって、道具はだしぬけに出現するものではない。それがもっとも広い意味で手もとに具わってわれわれに用いられるのは、そのためなのである(163頁)。
ただ眺めるだけでは用具的存在者を発見することはできません。
たんに「理論的に」眺めるだけの眼には、用具性の了解が欠けているからです。
さて、そうすると、世界とはどのようなものでしょう?
現存在が世界=内=存在によって構成されていて、その存在には現存在の自己についての了解もそなわっているなら、現存在は世界の了解をもっていることになるのではないでしょうか。
世界=内=存在に内世界的存在者が出会うと、それの内世界性が現れると同時に、なにか世界というようなものも現れてくるのではないでしょうか。
してみれば世界とは、現存在が存在者としていつもすでにそのなかで存在してきたところであり、現存在がどのような行き方でそこをめざして行くにしても、いつもただそこへ帰って来るというありさまでしか到着できないところなのである(177頁)。
今回で『存在と時間」を終わります。
たとえば、ハンマーをふるって打つときのように。
そのとき、存在者を出現する事物として把握しているわけでも、その道具の構造を知っているわけでもありません。
ハンマーをふるうということは、その道具的性格についての知識だけではなく、その道具をそれ以上ないほどに自分のものにしているということなのです。
ハンマーが単にものとして眺められるだけでなく、手っ取り早く使われるほど関わり合いは根源的になり、ハンマーはそれだけありのままの姿で出会ってくるのです。
このような存在様相を「用具性」といいます。
道具にはこのような「自体=存在」がそなわっているのであって、道具はだしぬけに出現するものではない。それがもっとも広い意味で手もとに具わってわれわれに用いられるのは、そのためなのである(163頁)。
ただ眺めるだけでは用具的存在者を発見することはできません。
たんに「理論的に」眺めるだけの眼には、用具性の了解が欠けているからです。
さて、そうすると、世界とはどのようなものでしょう?
現存在が世界=内=存在によって構成されていて、その存在には現存在の自己についての了解もそなわっているなら、現存在は世界の了解をもっていることになるのではないでしょうか。
世界=内=存在に内世界的存在者が出会うと、それの内世界性が現れると同時に、なにか世界というようなものも現れてくるのではないでしょうか。
してみれば世界とは、現存在が存在者としていつもすでにそのなかで存在してきたところであり、現存在がどのような行き方でそこをめざして行くにしても、いつもただそこへ帰って来るというありさまでしか到着できないところなのである(177頁)。
今回で『存在と時間」を終わります。
