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哲学系ダイアリー

哲学関連の勉強日記です。

現存在は、いつも存在的に経験されているはずです。

存在について考えようとするとき、まず認識されるのは、自然という存在者ですね。
しかし、いくらこの存在者を見ても、そこには認識そのものは見当たりません。
また、認識することが存在していることだとすれば、それは認識する存在者にあるはずです。
しかし、この存在者(人間)にも、認識は存在していません。
それは、外面的なものとしては確認されないのです。
認識が、この存在者に所属していて、そして外面的性状ではないのだとすると、それは「内面」にあることになりますね。

認識することは、世界=内=存在としての現存在の存在様態のひとつであって、存在的にこの存在構成にもとづけられている(146頁)。

認識することは《世界のもとにすでにある(従事的)存在》にもとづいているのであって、そしてこのような(従事的)存在が現存在の存在を規定しているのです。
世界=内=存在は、配慮する世界に「気をとられて」いるのです。

認識的現存在は、どこまでも現存在として外に出ているのです。

こうした交渉のもっとも身近なものは、ものを操作し使用する配慮です。

そこで出会う存在者を「道具」と名づけます。
たとえば、書く道具、縫う道具、工作する道具、乗っていく道具、測定する道具、など。

道具は、ひとつだけで存在することはなく、いつでもひとまとまりの道具立て全体で存在します。
そしてその本質は、《……するためにあるもの》です。
たとえば、インク・スタンド、ペン、インク、紙、下敷き、机、ランプ、家具、窓、ドア、部屋は同じ属性のもとに存在します。
一番先に出会うのは部屋です。
それは住む道具として。
この部屋のなかから、備えつけられた「調度」が現われてきて、そしてこの備えつけのなかで、それぞれの「個別的」な道具が現われてくるのである。個別的な道具に気づく以前に、いつもすでに道具立ての全体性が発見されている」(162頁)。
今回から勉強するのは、ハイデガー(Martin Heidegger 1889-1976 独)です。

テキストとして、『存在と時間』(細谷貞雄訳、筑摩書房、1994年)を使用します。

存在と時間〈上〉 (ちくま学芸文庫)/マルティン ハイデッガー

ハイデガーは、「現存在」という言葉を使います。
現存在とは、「みずから存在しつつこの存在にむかって了解的に態度をとっている存在者」であり、「いつも私自身である存在者」です。

現存在の存在規定は、「世界=内=存在」という存在構成のもとにあるので、現存在を分析するには、この存在構成を解釈しなければなりません。

この現象は、次の三つのようにいえます。
・「世界の内に」ということ。
・いつも世界=内=存在というありさまで存在している存在者。
・内=存在そのもの。

内=存在とは、どういうことでしょう。

それは、ある物体的な事物(身体)がある存在者の「なか」に存在している、という意味ではありません。
内=存在とは、世界=内=存在という本質的構成をもっている現存在の存在を表わす形式的な実存論的な表現なのである」(133‐134頁。強調原著。以下同)。

世界の「もとにある」ということが、世界にたずさわり、世界に融けこんでいる、という意味で用いられます。

世界の「もとにある」存在は、事物が並んでいるというような存在を意味しはしません。
「現存在」という存在者と、「世界」という存在者が、並びあっている、というような事態は存在しないのです。
存在者が、世界の内部にある存在者に触れることができるのは、それが内=存在という存在様式をそなえている場合だけです。
つまり、「それが現に存在しているとともになにか世界というようなものが発見されていて、その世界のなかから存在者が触れてきておのれを現し、そうしてそれの客体的存在において近づきうるもののなっている、という場合だけ」(135頁)なのです。

内=存在の様式には、たとえば次のようなものがあります。
《なにかに関わりをもつ》、《なにかを製作する》、《なにかを整頓し、手入れをする》、《なにかを使用する》、《なにかを棄てたり、なくしたりする》、《企てる》、《やり通す》、《探す》、《問いかける》、《考察する》、《論ずる》、《規定する》など。
これらの様式は、配慮という存在様相もそなえています。
それには、《やめる》、《怠る》、《諦める》、《休む》や、《ただ……するだけの》など。
《なにかをしとげる》、《片づける》、《始末する》や、《なにかを調達する》なども。

現存在は、本質上このありさまで存在するゆえに、環境的に出会う存在者をことさらに発見し、それを関知し、それを指図し、こういう意味で「世界」をもつことができる(140頁)。
それでも彼は、自己自身であることを選びます。

なまじ救済されるよりも、苦悩の方を選ぶのです。

そこでは彼は自己の存在を憎悪しつつしかも彼自身であろうと欲するのである、惨めなままの自己自身であろうとするのである。彼が彼自身であろうと欲するのは単なる強情の故にではなく、むしろ挑戦せんがためである(119頁)。


これまで、絶望の種類をみてきました。
キルケゴールによると、人は絶望する存在です。
しかしまた、救済される方法もあるのです。
それは……勉強してみてください。


今回で『死に至る病』を終わります。