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哲学系ダイアリー

哲学関連の勉強日記です。

困難な状態が続いている間は、彼は自分自身であろうと欲しないのです。
そういう状態が過ぎ去り、なにか変化が起ると、彼は戻り、再び自分自身となるのです。
ある程度までは彼は自己であったのに、しかしそれ以上のものにはならなかったのです。

真実に自己となるためには、内面をどこまでも追求しなければならないのですが、彼はこの方向から逸れることになります。
つまり、彼は自己をもてないのです。

それでは次に、永遠的なるものについての絶望を考えてみましょう。

これまでの絶望が「弱さの」絶望であったのにたいし、この絶望は「自分の弱さにかんする絶望」ということができるでしょう。
この人は、絶望することが自分の弱さのせいであることを理解しています。
しかし、この人は絶望の中に更に深入りし、自分の弱さに関して絶望するのです。

この絶望は、永遠的なるものと自己自身とを失ったということなのです。
この絶望は自己からやって来ます。
しかし、この絶望は、度が強まっているだけに、救済に一歩近づいているともいえるのです。

このタイプの絶望は、世間ではかなり稀です。

さて、これまでは、絶望して自己自身であろうとほっしない絶望をみてきましたが、ここからは、絶望して自己自身であろうと欲する絶望をみていきましょう。

この形態においては、再び、自己についての意識が上昇します。
この絶望が、受動的な悩みとして外から来るのではなく、自己の行為として直接自己から来ることを意識するのです。

絶望して自己であろうと欲するためには、無限な自己の意識がなければなりません。
このとき人は、自己自身を創ろうと欲するのです。
自己を、なりたい自己に創ろうと欲するのです。

一体彼の具体的自己は実に必然性と限界とをもち、全く規定された或る物であり、一定の能力・素質等々を有し、特定の具体的関係等々のうちにあるものである。しかるに彼はまずもってかの無限なる形式すなわち否定的な自己の助けをかりてこの全体を改造しつつ、そこからして否定的自己の無限形式によって生み出されたところのおのが希望通りの自己を獲得せんと試みる、――そしてその上で始めて彼は彼自身たらんと欲するのである(110頁)。

彼は、自己を自分で構成しようと欲するのです。

ですが、自己が自己自身の主人であるという、まさにこのことが絶望に他ならないのですけどね。
自分が絶望の状態にあることを知っている絶望、について考えてみましょう。

絶望者は大抵、朦朧とした意識のうちに生きています。
彼は、ある程度は自分の絶望に気がつきます。
でも、はっきりとは、その病気のことを認めようとはしません。
具合の悪い原因がどこか他にあって、それさえ取り除けば絶望しなくて済むだろうと考えるのです。
あるいはまた、気を晴らすため、仕事や忙しさで自分の意識を曇らそうとするでしょう。
しかし、彼には、絶望して自分がどのような振る舞いをしているのかは意識されていないのです。

その人が、自分の絶望状態を明瞭に意識していればいるほど、絶望の度はそれだけ強いのです。

それでは、絶望して自己自身であろうと欲しない場合、について考えてみましょう。

特に、地上的なものに関する絶望について。

これは純粋な直接性である、ないしは単に量的な反省を含んでいるにすぎない直接性である(80頁)。

そこには、絶望がどういうものであるかという意識は存在しません。
絶望は単なる受動的な悩みであり、内からの行為としては現われないのです。

その人は時間性や世俗性に規定されていますから、いつも「他者」とつながっています。
なにかを希望したり意欲したり享楽するときも、他者とつながっています。
ただし、いつも受動的なのです。
意欲する場合でさえも。
その人にとっての指針は快・不快であり、考えることは幸運・不幸・運命なのです。

彼を絶望させるものは外からやって来ます。
たとえば、生活の中心となっているものが奪い去られたとき、不幸になり、もはや自分では回復できないほどの打撃を蒙り、彼は絶望するのです。

しかし、本当の絶望は永遠的なものを喪うことで、地上的なものを失うことはまだまだ本当の絶望ではありません。
彼は、特に絶望でもないことを絶望だと言っているだけです。
もし、彼を絶望させた外的なものが消え、彼の願いが満たされると、彼は蘇り、生き生きと活動を再開するのですから。

もともと、このような直接的な人は、自己をもたないのです。
自己自身を知らないのです。
ですから、絶望しているときには、別の人間になりたい、とさえ願うのです。
絶望しているわりには無邪気ですね。
喜劇的です。
別の人間にならせてください、と頼んでいるのですから。
こうした直接的な人は、自己というものをただ外面性だけで認識しているのです。
しかし、実際は、「自己というものこそ外面性とは無限に異なったもの」(85頁)なのです。
彼は考えるのでしょう。
「もしおれが全く別の人間だとしたら、どんな感じだろう? 自分を新調するとしたら?」

彼の絶望は本質的には弱さの絶望なのであり、すなわち受動である。絶望して自己自身であろうと欲しないというのがその絶望の形態である(86頁)。
自己が絶望の状態にあることを知らないでいる絶望、について考えてみましょう。

人間にとって、感性は、大抵の場合知性よりも優先されるのではないでしょうか。
たとえば、真理から見るならば不幸であるにも拘らず、自分では幸福であると思い込んでいる人がいるとします。
たいていの場合、その人は、そこに満足し、本当のことなど知ろうとはしないのではないでしょうか。
そして、その環境から引き離されることを望まず、そうしようとする人には怒るのではないでしょうか。
それはなぜでしょう。
それは、彼が、感性的なもの、快・不快の範疇で生きていて、精神や真理などとは離れているからです。

絶望している人が、自分の状態が絶望であることを知っているかいないかは問題ではなく、その人は依然として絶望しているのです。
絶望に関する無知は、不安に関する無知と似ています。
無精神的に安心していても、そういう状態の底にこそ不安は潜んでいるのです。

自分が絶望していることに気づいていない人は、それに気づいている人に比べて、真理と救済からそれだけ遠ざかっていることになります。
真理に到達するためには、人は、あらゆる否定性を通り抜けなければならないのですから。
無知は、決して絶望を止揚したり無くしたりすることはできません。
逆にそれは、絶望のもっとも危険なものなのです。

自分を精神として意識していないということが、まさに絶望であり無精神性なのです。

こういう状態はときとして完全な無気力の状態でもあろうし或いはまた単なる酔生夢死の生活ないしはまたかえって精力の倍化された生活であるかもしれない、とにかくその秘密は何といっても絶望である(70頁)。

この形態の絶望は、世間ではもっとも普通なものなのです。