この病は、肉体的な死をもっては終わりません。
絶望の苦悩は、死ぬことができないところにあるのです。
「死ぬほど病んでいる」ものの死ぬことは出来ず、だからといって生きられる希望があるわけでもない、いや、死という最後の希望さえもそこにはないのです。
死が最悪であるとき、人は生を願いますね。
ですが、さらなる最悪があるとき、その人は死を願いますね。
死を願うほどに最悪なこと、死ぬという希望さえも失われていること、絶望とはそういうことなのです。
自己自身を食い尽すことも自己自身から脱け出ることも無に帰することもできないことの故にこそ彼は絶望したのである、いな絶望しているのである(28頁)。
人が「何か」について絶望しているようにみえても、本当は「自己自身」について絶望しているのであって、そこで、自己自身から脱け出ようと欲しているのです。
たとえば、帝王になりたい人がいるとして、彼が帝王になれなかったら彼は絶望するでしょうが、それは、彼が帝王になれなかった自分自身に耐えられないからです。
もし、彼が帝王になっていたら、絶望して自己を脱け出したでしょうが、彼は帝王になれなかったので、絶望して自己を脱け出すことができないのです。
どちらにしても、彼は絶望しているのですけどね。
なぜなら、彼は自分の自己をもっていない、つまり、彼自身ではないのですから。
もし帝王になったら、彼は自己自身にならず自己自身を脱け出し、もし帝王になれなかったら、なれなかったことに絶望するのです。
ですから、「何か」について絶望することは、まだ本来的な絶望ではないのです。
絶望の真相は、「自己自身」について絶望していることなのですから。
たとえば、恋のため絶望している女性があるとします。
彼女は、恋人が失われてしまったことに絶望している(恋人は死んだのか、あるいは裏切られたのか…)。
しかし、このときはまだ彼女の絶望は、その真相を現してはいません。
その真相は、彼女が自己自身に絶望することです。
いまや、彼のいない自己であらねばならないのですから。
彼が死んだなら、この自己は空虚であり、彼に裏切られたなら、自分は彼に裏切られた人間であることを自己が想い起こさせるのですから。
ですから、自己に絶望すること、絶望して自己自身を脱け出ようと欲することが、絶望の定式なのです。
言い換えれば、自己自身を脱け出ることができないという苦悩なのです。
絶望とは、このような状態であり、死によってこの病から救われるということもないのです。
今回から勉強したいのはキルケゴール(Sφren Aabye Kierkegaard 1813-1855 デンマーク)です。
テキストとして『死に至る病』(斎藤信治訳、岩波書店、昭和14年)を使用します。
はじめに言っておくと、「死に至る病」とは「絶望」のことです。
まず、人間とは何かを考えます。
それは精神だといいます。
それでは、精神とは何かを考えます。
それは自己であると考えます。
そして、人間を次のように考えるのです。
人間は有限性と無限性との、時間的なるものと永遠的なるものとの、自由と必然との、綜合である。要するに人間とは綜合である(18頁)。
絶望には三つの場合があります。
「絶望して、自己をもっていることを意識していない場合」、
「絶望して、自己自身であろうと欲しない場合」、
「絶望して、自己自身であろうと欲する場合」。
ところで、抽象的に考えるならば、絶望は優れたものなのです。
この病に罹るということは、人間が他の動物よりも優れているということです。
なぜなら、それは人間の精神性の高さを示しているからです。
しかし、現実に絶望するということは不幸であり悲惨であり堕落ですらあるのです。
さて、絶望を定義すると次のようになります。
絶望とは自己自身に関係する関係としての自己(綜合)における分裂関係である(22頁。括弧内原著。以下同)。
絶望は、可能性として、人間そのもののうちに潜んでいるのです。
もし、人間が綜合でないならば、絶望するということはありえないのです。
さて、絶望はどこから来るのでしょう?
「綜合が自己自身へと関係するその関係から来るのである」(23頁)。
人間を関係というものにした神は、人間を自分の手から解放したともいえ、こうして人間は自己自身に関係するところの関係となるのです。
そして、その関係が精神であり自己であるという点に責任があり、あらゆる絶望はこの責任の下にあるのです。
絶望している人が、いかに自分の絶望を、外から襲いかかってきた不幸であるかのように、自分の責任ではないかのように訴えても、それは変わりません。
しかし、絶望が出現したからといって、それは必ず持続し続けるというわけではありません。
絶望している人は、瞬間ごとに絶望を自分に「招き寄せている」のですから。
絶望はいつも現在に在るのです。
テキストとして『死に至る病』(斎藤信治訳、岩波書店、昭和14年)を使用します。
はじめに言っておくと、「死に至る病」とは「絶望」のことです。
まず、人間とは何かを考えます。
それは精神だといいます。
それでは、精神とは何かを考えます。
それは自己であると考えます。
そして、人間を次のように考えるのです。
人間は有限性と無限性との、時間的なるものと永遠的なるものとの、自由と必然との、綜合である。要するに人間とは綜合である(18頁)。
絶望には三つの場合があります。
「絶望して、自己をもっていることを意識していない場合」、
「絶望して、自己自身であろうと欲しない場合」、
「絶望して、自己自身であろうと欲する場合」。
ところで、抽象的に考えるならば、絶望は優れたものなのです。
この病に罹るということは、人間が他の動物よりも優れているということです。
なぜなら、それは人間の精神性の高さを示しているからです。
しかし、現実に絶望するということは不幸であり悲惨であり堕落ですらあるのです。
さて、絶望を定義すると次のようになります。
絶望とは自己自身に関係する関係としての自己(綜合)における分裂関係である(22頁。括弧内原著。以下同)。
絶望は、可能性として、人間そのもののうちに潜んでいるのです。
もし、人間が綜合でないならば、絶望するということはありえないのです。
さて、絶望はどこから来るのでしょう?
「綜合が自己自身へと関係するその関係から来るのである」(23頁)。
人間を関係というものにした神は、人間を自分の手から解放したともいえ、こうして人間は自己自身に関係するところの関係となるのです。
そして、その関係が精神であり自己であるという点に責任があり、あらゆる絶望はこの責任の下にあるのです。
絶望している人が、いかに自分の絶望を、外から襲いかかってきた不幸であるかのように、自分の責任ではないかのように訴えても、それは変わりません。
しかし、絶望が出現したからといって、それは必ず持続し続けるというわけではありません。
絶望している人は、瞬間ごとに絶望を自分に「招き寄せている」のですから。
絶望はいつも現在に在るのです。
これまでに分かったように、身体とは、世界を直観するための出発点なのです。
それゆえに認識するということは、動物たることの本来の性格である(49頁)。
ですから、すべての動物は悟性をもっているはずなのです。
なぜなら、動物は客観を認識して、それが動機となって運動を決めるのですから。
そしてこの悟性は、因果性の認識という形式をもっています。
それは何のことはない、結果から原因へ、原因から結果への移行、というだけのものです。
この悟性が鋭ければ、自然現象のなかから未知の原因を探し出し、法則を見つけるでしょうし、また、それを応用した機械も考えるでしょう。
また、人間心理にたいしては、人の悪巧みを見抜くこともできるでしょうし、人々の特徴をよく考慮することで、彼らを自分の意のままに動かすこともできるでしょう。
この悟性の欠如を「愚鈍」というのです。
原因と結果の、動機と行為の、連鎖を把握することができないのです。
ショーペンハウアーは、「愚か者には自然現象の連関が見抜けない」(53頁)といいます。
ですから、愚か者は、魔術や奇跡を信じたがるといいます。
また、ある人たちが見かけでは関係ないようであっても共謀していることがあります。
彼らはそれに気がつきませんから、騙されるのです。
彼らは、他人の言動の、その裏に隠されている動機に気がつかないのです。
その原因は、因果律を応用する悟性の力不足なのです。
最後に少し、言葉の定義をみておきましょう。
悟性の欠如を「愚鈍」といいました。
「理性」の応用が欠けているのは「恥愚」です。
「判断力」の欠如は「単純さの愚かさ」です。
「記憶」の欠如は「狂気」です。
「理性」によって正しく認識されたものが「真理」です。
「悟性」によって正しく認識されたものが「実在」です。
すなわち、真理とは、「十分な根拠をそなえた抽象的判断のこと」(57頁)なのです。
そして、実在とは、「直接的な客観における結果からその原因への正しい移行のこと」(57頁)なのです。
「真理」に対立するものが「誤謬」です。
「実在」に対立するものが「仮象」です。
理性とは、あとから人間にだけつけ加えられた認識能力なのである。……理性がなし得るのはいつもただ知ることである。直観するのは悟性のみの働きであり、理性の影響は受けない(59頁)。
今回で『意志と表象としての世界』を終わります。
(抽象的な表象について、ここで勉強できなかったことをお詫びします)
それゆえに認識するということは、動物たることの本来の性格である(49頁)。
ですから、すべての動物は悟性をもっているはずなのです。
なぜなら、動物は客観を認識して、それが動機となって運動を決めるのですから。
そしてこの悟性は、因果性の認識という形式をもっています。
それは何のことはない、結果から原因へ、原因から結果への移行、というだけのものです。
この悟性が鋭ければ、自然現象のなかから未知の原因を探し出し、法則を見つけるでしょうし、また、それを応用した機械も考えるでしょう。
また、人間心理にたいしては、人の悪巧みを見抜くこともできるでしょうし、人々の特徴をよく考慮することで、彼らを自分の意のままに動かすこともできるでしょう。
この悟性の欠如を「愚鈍」というのです。
原因と結果の、動機と行為の、連鎖を把握することができないのです。
ショーペンハウアーは、「愚か者には自然現象の連関が見抜けない」(53頁)といいます。
ですから、愚か者は、魔術や奇跡を信じたがるといいます。
また、ある人たちが見かけでは関係ないようであっても共謀していることがあります。
彼らはそれに気がつきませんから、騙されるのです。
彼らは、他人の言動の、その裏に隠されている動機に気がつかないのです。
その原因は、因果律を応用する悟性の力不足なのです。
最後に少し、言葉の定義をみておきましょう。
悟性の欠如を「愚鈍」といいました。
「理性」の応用が欠けているのは「恥愚」です。
「判断力」の欠如は「単純さの愚かさ」です。
「記憶」の欠如は「狂気」です。
「理性」によって正しく認識されたものが「真理」です。
「悟性」によって正しく認識されたものが「実在」です。
すなわち、真理とは、「十分な根拠をそなえた抽象的判断のこと」(57頁)なのです。
そして、実在とは、「直接的な客観における結果からその原因への正しい移行のこと」(57頁)なのです。
「真理」に対立するものが「誤謬」です。
「実在」に対立するものが「仮象」です。
理性とは、あとから人間にだけつけ加えられた認識能力なのである。……理性がなし得るのはいつもただ知ることである。直観するのは悟性のみの働きであり、理性の影響は受けない(59頁)。
今回で『意志と表象としての世界』を終わります。
(抽象的な表象について、ここで勉強できなかったことをお詫びします)
