これまでに分かったように、身体とは、世界を直観するための出発点なのです。
それゆえに認識するということは、動物たることの本来の性格である(49頁)。
ですから、すべての動物は悟性をもっているはずなのです。
なぜなら、動物は客観を認識して、それが動機となって運動を決めるのですから。
そしてこの悟性は、因果性の認識という形式をもっています。
それは何のことはない、結果から原因へ、原因から結果への移行、というだけのものです。
この悟性が鋭ければ、自然現象のなかから未知の原因を探し出し、法則を見つけるでしょうし、また、それを応用した機械も考えるでしょう。
また、人間心理にたいしては、人の悪巧みを見抜くこともできるでしょうし、人々の特徴をよく考慮することで、彼らを自分の意のままに動かすこともできるでしょう。
この悟性の欠如を「愚鈍」というのです。
原因と結果の、動機と行為の、連鎖を把握することができないのです。
ショーペンハウアーは、「愚か者には自然現象の連関が見抜けない」(53頁)といいます。
ですから、愚か者は、魔術や奇跡を信じたがるといいます。
また、ある人たちが見かけでは関係ないようであっても共謀していることがあります。
彼らはそれに気がつきませんから、騙されるのです。
彼らは、他人の言動の、その裏に隠されている動機に気がつかないのです。
その原因は、因果律を応用する悟性の力不足なのです。
最後に少し、言葉の定義をみておきましょう。
悟性の欠如を「愚鈍」といいました。
「理性」の応用が欠けているのは「恥愚」です。
「判断力」の欠如は「単純さの愚かさ」です。
「記憶」の欠如は「狂気」です。
「理性」によって正しく認識されたものが「真理」です。
「悟性」によって正しく認識されたものが「実在」です。
すなわち、真理とは、「十分な根拠をそなえた抽象的判断のこと」(57頁)なのです。
そして、実在とは、「直接的な客観における結果からその原因への正しい移行のこと」(57頁)なのです。
「真理」に対立するものが「誤謬」です。
「実在」に対立するものが「仮象」です。
理性とは、あとから人間にだけつけ加えられた認識能力なのである。……理性がなし得るのはいつもただ知ることである。直観するのは悟性のみの働きであり、理性の影響は受けない(59頁)。
今回で『意志と表象としての世界』を終わります。
(抽象的な表象について、ここで勉強できなかったことをお詫びします)