客観というものは、主観の表象として存在しているのですから、主観によって限定されているのです。
この限定作用のことを認識能力といいます。
そして、因果性を認識するものが「悟性」です。
つまり、いっさいの因果性・物質・現実の全体は、ただ悟性によって、悟性のなかに存在しているだけだといえるのです。
悟性の表現のはじまりは、現実世界の直観です。
それは、身体にたいする作用です。
ですから身体は、主観にとって「直接の客観」なのです。
あらゆる客観の直観は、身体によって媒介されるのです。
時間と空間のなかで直観された世界とは因果性であって、それは実在していて、因果律に基づいて連関しながら表象として現われるのです。
これが経験的な実在性なのです。
直観的な世界には、誤謬もなければ真理もありません。
そうしたものは、抽象や反省の領域にあるものなのです。
この直観的な世界では、感覚と悟性にたいして世界は開かれているのです。
そして身体が直接の客観なのであり、主観の認識の出発点をなしている表象なのです。
私たちが、直観的な世界を認識できるかどうかという可能性には、二つの条件があります。
第一の条件は……物体が相互に作用し、相互に相手に変化を引き起こさせる能力のことであって、これはあらゆる物体にそなわっている普遍的な特性だが、このような特性がなければ、動物の身体の感受力の助けをかりたにしても直観は可能にならないであろう(47頁)。
直観を可能にするのは悟性です。
因果律は悟性に由来するので、直観の世界は、悟性によってのみ成立するからです。
第二の条件は、動物としての身体の感受力のことであって、これはある物体が、主観にとっての直接の客観として成り立つ特性だと言いかえてもよい(47-48頁)。
感覚器官は、外からの影響によって変化を被ります。
この外からの影響が、苦痛も欲情も与えるものではない、意志にたいしては特に意味をもたない、たんなる「認識」にすぎないものであったとしても、その変化は、すでに表象なのです。
しかしこうした直接の認識は、悟性の適用をまだ受けていない感性的な感覚です。
それにたいして、本来の意味である客観の認識、直観的な表象は、悟性の適用後に初めて成立するのです。
ですから、身体が客観として認識されるのは、ある部分の他の部分への影響に因果律を適用することによってなのです。
つまり、眼が身体を見たり、手が身体に触れたり、といった方法で。
時間と空間とは、物質がなくても直観的に表象することができますが、物質のほうは、時間と空間がなければ表象できませんね。
想像してみてください。
数え切れないほどの現象や状態が、無限の空間のなかで存在でき、無窮の時間のなかで連続することができるとする。
その場合、そうして現象や状態の関係を規定する規則は、必然的ではなくなります。
そうするとその結果、現象や状態が、空間のなかに存在し時間のなかで変転しているにもかかわらず、時間と空間はそれぞれが別々に存立し、因果性などは成り立たず、因果性が物質の本質を決定するのだから、物質もないわけです。
空間のなかの「同じ場所に」ある状態があり、その後に続いて「もう一つ別の」状態があるということ、時間のなかの「同一のある一定時に」この状態があり、「あそこに」あの状態があるということ、それが変化の本質であり、それによって因果の法則がその意味と必然性とを得るのです。
「混乱している時間と空間とをこのように相互に制約しあうことのみが、規則に意味と同時に必然性とを与え、変化はその規則通りに発生せざるを得ない」(23頁)のです。
ですから、因果性は、空間と時間とをひとつにするものなのです。
そして私たちは、時間だけでも空間だけでも成り立たない「同時存在」ということを、物質を通して知るのです。
「時間だけなら、並存ということを知らないし、空間だけなら、先、後、今の区別を知らない」(24頁)のです。
しかし、さまざまな状態の同時存在こそが、現実なるものの本質を決定しているのである。なぜなら、同時存在によってはじめて、持続が可能になるからである(24頁)。
世界がもしも空間だけだとしたら、固定したまま動かず、なんの継起も、なんの変化も、なんの働きも起らないですよね。
物質とは働きですから、働きがなくなれば、物質もなくなってしまいます。
そして、世界がもしも時間だけだとしたら、すべては直ぐに移り変わり、なんの固定も、なんの並存も、なんの同時性も起らないでしょう。
その結果、持続はないのですから、やはり物質もありえないでしょう。
時間と空間の結合によってはじめて、物質が生じるのであり、すなわち同時存在があり得ることになり、これによって持続もあり得ることになり、この、持続があり得ることによってさらに、状態は変化しても実体は不変だということがあり得てくるのである(24-25頁)。
物質は、時間と空間の両方によって特徴づけられているのです。
物質が空間を基礎にしていることは、物質が形態をもつということからも明らかなのですが、物質の固定不変(実体性)によって証明されるのです。
この固定不変がア・プリオリ(先天的)に確実であることは、空間がア・プリオリに確実であることから導き出されます。
そして、物質が時間を基礎にしていることは、物質が現象する原因である質という属性に示されています。
この質というのは、因果性であり、他の物質に及ぼす働きかけのことです。
それは変化に外なりません。
そして、変化というものは、ひとつの時間概念です。
こうして私たちは、物質の次のような特性がア・プリオリであることを認めなければならないのです。
第一に空間の充満、つまり不可入性、いいかえれば作用性ということ。第二には、延長性、無限の可分性、固定性、すなわち破壊不可能性ということ、そして最後に、可動性ということである(26頁)。
想像してみてください。
数え切れないほどの現象や状態が、無限の空間のなかで存在でき、無窮の時間のなかで連続することができるとする。
その場合、そうして現象や状態の関係を規定する規則は、必然的ではなくなります。
そうするとその結果、現象や状態が、空間のなかに存在し時間のなかで変転しているにもかかわらず、時間と空間はそれぞれが別々に存立し、因果性などは成り立たず、因果性が物質の本質を決定するのだから、物質もないわけです。
空間のなかの「同じ場所に」ある状態があり、その後に続いて「もう一つ別の」状態があるということ、時間のなかの「同一のある一定時に」この状態があり、「あそこに」あの状態があるということ、それが変化の本質であり、それによって因果の法則がその意味と必然性とを得るのです。
「混乱している時間と空間とをこのように相互に制約しあうことのみが、規則に意味と同時に必然性とを与え、変化はその規則通りに発生せざるを得ない」(23頁)のです。
ですから、因果性は、空間と時間とをひとつにするものなのです。
そして私たちは、時間だけでも空間だけでも成り立たない「同時存在」ということを、物質を通して知るのです。
「時間だけなら、並存ということを知らないし、空間だけなら、先、後、今の区別を知らない」(24頁)のです。
しかし、さまざまな状態の同時存在こそが、現実なるものの本質を決定しているのである。なぜなら、同時存在によってはじめて、持続が可能になるからである(24頁)。
世界がもしも空間だけだとしたら、固定したまま動かず、なんの継起も、なんの変化も、なんの働きも起らないですよね。
物質とは働きですから、働きがなくなれば、物質もなくなってしまいます。
そして、世界がもしも時間だけだとしたら、すべては直ぐに移り変わり、なんの固定も、なんの並存も、なんの同時性も起らないでしょう。
その結果、持続はないのですから、やはり物質もありえないでしょう。
時間と空間の結合によってはじめて、物質が生じるのであり、すなわち同時存在があり得ることになり、これによって持続もあり得ることになり、この、持続があり得ることによってさらに、状態は変化しても実体は不変だということがあり得てくるのである(24-25頁)。
物質は、時間と空間の両方によって特徴づけられているのです。
物質が空間を基礎にしていることは、物質が形態をもつということからも明らかなのですが、物質の固定不変(実体性)によって証明されるのです。
この固定不変がア・プリオリ(先天的)に確実であることは、空間がア・プリオリに確実であることから導き出されます。
そして、物質が時間を基礎にしていることは、物質が現象する原因である質という属性に示されています。
この質というのは、因果性であり、他の物質に及ぼす働きかけのことです。
それは変化に外なりません。
そして、変化というものは、ひとつの時間概念です。
こうして私たちは、物質の次のような特性がア・プリオリであることを認めなければならないのです。
第一に空間の充満、つまり不可入性、いいかえれば作用性ということ。第二には、延長性、無限の可分性、固定性、すなわち破壊不可能性ということ、そして最後に、可動性ということである(26頁)。
われわれのすべての表象には、直観的と抽象的との二つの大きな区別がある。抽象的な表象は、種類がひとつあるだけで、これがすなわち概念である。この地上で概念をもっているのはただ人間だけであって、概念をもちうる能力が昔から理性と名づけられて、人間をあらゆる動物から区別してきたのである(14-15頁)。
まずは、直観的な表象について考えてみましょう。
直観的な表象の相手は、肉眼で見える世界と経験です。
時間と空間とは、それだけを切り離して抽象的に考えることもできますが、直接的にも直観することができます。
そしてこの直接的な直観は、経験から独立するものです。
根拠の原理が形をなすのは、純粋時間そのもののうちにおいてであり、根拠の原理のこの形態化がすべての勘定と計算の基盤となっている。このような形態化を認識した者は、もって時間の本質をも完全に認識したことになるであろう。……時間のうちにすがたをあらわす根拠の原理の形態とは、継続ということである。継続こそ時間の全本質である(19-20頁)。
また、根拠の原理は、純粋に直観された空間のなかを支配しているのですが、このような根拠の原理を認識する者は、空間の原理さえも極めつくすことになるでしょう。
この原理は物質をも支配するのですから、それを認識する者は、それはつまり因果の法則を認識する者のことですが、その人は物質そのものの本質を完全に認識できるということになります。
なぜなら物質とは、因果性以外のなにものでもないのですから。
つまり、「物質の存在とは、物質の働き(作用、影響、活動)のこと」(20頁)なのです。
働きなくして、物質の存在を考えることはできません。
働く(活動する)ものとしてのみ、物質は、空間と時間を充たしているのですから。
物質が身体に何らかの働きかけをすると、身体に直観が引き起こされるのですが、物質の存在とは、そのような直観のなかだけにあるのです。
したがって、「原因と結果とが、物質の全本質である」(21頁)。
まずは、直観的な表象について考えてみましょう。
直観的な表象の相手は、肉眼で見える世界と経験です。
時間と空間とは、それだけを切り離して抽象的に考えることもできますが、直接的にも直観することができます。
そしてこの直接的な直観は、経験から独立するものです。
根拠の原理が形をなすのは、純粋時間そのもののうちにおいてであり、根拠の原理のこの形態化がすべての勘定と計算の基盤となっている。このような形態化を認識した者は、もって時間の本質をも完全に認識したことになるであろう。……時間のうちにすがたをあらわす根拠の原理の形態とは、継続ということである。継続こそ時間の全本質である(19-20頁)。
また、根拠の原理は、純粋に直観された空間のなかを支配しているのですが、このような根拠の原理を認識する者は、空間の原理さえも極めつくすことになるでしょう。
この原理は物質をも支配するのですから、それを認識する者は、それはつまり因果の法則を認識する者のことですが、その人は物質そのものの本質を完全に認識できるということになります。
なぜなら物質とは、因果性以外のなにものでもないのですから。
つまり、「物質の存在とは、物質の働き(作用、影響、活動)のこと」(20頁)なのです。
働きなくして、物質の存在を考えることはできません。
働く(活動する)ものとしてのみ、物質は、空間と時間を充たしているのですから。
物質が身体に何らかの働きかけをすると、身体に直観が引き起こされるのですが、物質の存在とは、そのような直観のなかだけにあるのです。
したがって、「原因と結果とが、物質の全本質である」(21頁)。