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哲学系ダイアリー

哲学関連の勉強日記です。

今回から勉強するのは、ショーペンハウアー(Arthur Schopenhauer 1788-1860 独)です。
テキストとして、『意志と表象としての世界』(西尾幹二訳、中央公論新社、2004年)を使用します。
意志と表象としての世界〈1〉 (中公クラシックス)/ショーペンハウアー

この本の第一巻第一節は、次の言葉から始まります。

世界はわたしの表象(目前に見えるように心に思い描くこと。心像、想像、観念など広い意味をふくむ)である(5頁。ドイツ語省略、括弧内原著。以下同)

この真理を意識することができるのは人間だけです。
実は私たちは、太陽も知らなければ大地も知りません。
ただ、太陽を見る目、大地を感じる手を、知っているだけなのです。
この世界は、ただ表象として存在しているにすぎないのです。

時間や空間や因果性なども、この形式を前提してあるものですよね。
ですから、時間や空間や因果性さえも、この形式の一部門にすぎないのです。
そしてこの表象は、ただ主観と客観とに分けられるだけなのです。

ですから、この世界とは実は、主観との関係における客観にすぎず、眺める者にとっての眺められた世界、表象にすぎないのです。
世界に属しているものはすべて、このような制約の下にあるわけで、ただ主観に対して存在するにすぎないのです。

すべてを認識するが、なにびとからも認識されないもの、これが主観である。それゆえ主観は、世界の担い手であり、主観は現象しているすべてのものを、すなわちすべての客観を成り立たせている普遍的な前提条件である。なにしろ存在するものは、主観に対して存在するに過ぎないから(11頁。強調原著。以下同)。

自分の身体さえ客観なのですから、それも表象なのです。
そして、身体は時間と空間のなかにおかれていますが、主観は、認識するもので認識されるものではないので、それは時間や空間といった形式のなかにはないのです。
むしろ主観のほうが、いつも時間や空間の前提となっているのです。

あるひとつの生物があるとして、それはひとつ(一人、一匹)にすぎませんが、それの表象する世界にはものすごい数の生物が存在しているも同じです。
そうすると、そのたったひとつの生物の消滅は、その表象された世界すべての消滅を意味しますよね。
この主客両面は、切り離すことができないのです。
ここで実際に起っていることは、限界そのものがなお持っている直接性が揚棄されるということである。限度においては最初質と量とが直接的なものとして存在し、限度は両者の相関的な同一性にすぎない。限度は自己を揚棄して限度のないものとなる(329頁)。

しかし、限度のないものは限度の否定ではありますが、それ自身は質と量との統一なのですから、限度のないものの内で限度はただ「自分自身」に出会うのです。

無限なもの、否定の否定としての肯定は、その二つの側面として、有と無、あるものと他のもの、などの抽象的なものではなく、質と量とを持つのです。
これは、まず質が量へ、量が質へ相互に「移行」し合い、このようにして「否定的なもの」なのでした。
しかし、両者の「統一」つまり限度の内で、両者はまず異なったものであり、それぞれは互いを「介して」のみ存在しているのです。
しかし、この統一の直接性が自己を揚棄するものであることが分かりましたから、それが即時的にあるものとして定立されているのです。
つまり、有を自己の内に揚棄されたものとして含んでいる、単純な自己関係として定立されているのです。

自分自身を否定することによって自分自分へ媒介され、自分自身へ関係する有、あるいは直接性、したがって自己を揚棄して自己関係、直接性となる媒介――これが本質である(329-330頁)。


ここでは「有論」に限りましたが、今回で『小論理学』を終わります。
量のうちには、他を排除する限定性が含まれているが、本質的にこのような限定性をもって定立されている量が定量である。すなわち、定量とは限られた量である(307-308頁)。

定量は、においてその発展と完全な規定性とに達する。数は、そのエレメントとして一を持ち、非連続性のモメントからすれば集合数を、連続性のモメントからすれば単位を、その質的モメントとして自己のうちに含んでいる(308頁)。

限界は定量そのものの全体と同一である。それは、自己のうちに多を含むものとしては、外延量であるが、自己のうちで単純なものとしては、内包量、すなわちである(311頁)。

連続量・非連続量は「量一般」に関係しますが、外延量・内包量は量そのものの「限界」や規定性に関係するのです。
そして、外延量・内包量もまた二種類に分かれるものではありません。

向自有的な無差別的な限界が絶対的な外面性であるというこの矛盾のうちに、量の無限進行が定立されている。すなわち、一つの直接態は直後にその反対物、媒介態(定立されたばかりの定量を越えること)へ転化し、媒介態はまた直接に直接態へ転化するのである(314頁)。

定量は、無限に増減し「うる」だけではなく、絶え間なく自己を「越え出る」ものなのです。
量の無限進行というのは矛盾でありますが、この矛盾が定量なのです。
そして、この矛盾が定立されたものが度なのです。

このように、向自有的な規定性を持ちながらも、自分自身に外的であるということが定量のをなしている。定量はこの外在性のうちで自分自身であり、自分自身に関係している。定量のうちには、外在性すなわち量的なものと、向自有すなわち質的なものとが合一されている。――それ自身に即してかく定立された定量がである(320頁)。

こうした規定性は、比であるとともに、またある定量の他の定量への「関係」なのです。

量的なものがそれ自身外在性のうちにありながらも自己関係であるという、あるいは、向自有と規定性への無関心とが合一されているという、それらの真理からすれば、比は限度である(321頁)。

限度とは質的な定量である。それはまず直接的なものとしては、定有あるいは質がそれに結びつけられているような定量である(323頁)。

それでは、限度のないものとはなんでしょう。

限度のないものとはまず、限度がその量的本性によってその質的規定性を超えたものである(327頁)。

しかし、最初の限度がないとしても、次の量的関係はやはり質的なのですから、限度のないものも一つの限度なのです。
こうした移行、つまり、質から定量への、また定量から質への移行は、無限進行なのですね。

かなり難しくなってきましたね。