向自有は、自分自身への関係としては直接性であり、否定的なものの自分自身への関係としては向自有するもの、すなわち一者である。一者は自分自身のうちに区別を含まないもの、したがって他者を自己から排除するものである(292頁)。
自己へ「否定的に」関係するということは、一者が自己を自己から区別すること、一者の「反発」、すなわち「定立」です。
これら一は「有的なもの」であり、その反発は「相互的」反発、相互的「排除」です。
そして、それら一は同じものです。
それら一は互に否定的な態度をとるのですから、それは本質的に「関係」することでもあるのです。
そして、一が関係するものとは一ですから、一は自分自身に関係しているのです。
したがって、反発は本質的に「牽引」なのです。
このようにして、一あるいは向自有は揚棄されます。
一のうちでその即自かつ対自的な規定態に達した質的規定性は、これによって揚棄された規定性としての規定性へ移ったのである。言いかえれば、量としての有へ移ったのである(296頁)。
ということで、ここから「量」の考察へ入っていきます。
量は、規定性がもはや有そのものとしてでなく、揚棄されたものあるいは無関心なものとして定立されている純有である(301頁)。
絶対者の根本規定をなしているのも量です。
また、空間や時間など、それを充たしている実在的なものが空間や時間に「無関係なもの」とされるかぎり、それは量なのです。
量は、まずその直接的な自己関係、あるいは牽引によって定立された自分自身との相等という点からみれば、連続量であり、そのうちに含まれている一というもう一つの規定からみれば、非連続量である。しかし連続量は、多くのものの連続にすぎないから、また非連続的でもあり、非連続量は同時に連続的であって、その連続性は多くの一の同一としての一、単位である(305-306頁)。
ですから、連続量と非連続量とは、二「種類」の量なのではなく、どちらの規定のもとに定立されているか、という違いなのです。
たとえば、空間や時間や物質に関して、もしそれらが連続量の規定で定立されるなら、それらは「無限に分割しうるもの」です。
しかし、非連続量の規定で定立されるなら、それらはそれ自身「分割されているもの」なので、分割されない一から成っているはずです。
どちらの見地も一面的なのです。
定有とは、直接的な、あるいは有的な規定性――すなわち質――としてあるような規定性を持つ有である(279頁)。
質は、有るところの規定性としては……実在性である。否定性はもはや抽象的な無ではなく……それは他在としてある。……質は向他有であり……質の有そのものは即自有である(281頁)。
「即自有」は、有の抽象にすぎません。
定有においては、規定性と有は同じですが、この規定性が否定としても定立される場合は、それが、「限界」「制限」なのです。
ですから、他在は、定有と無関係なのではなく、定有そのもののモメントなのです。
「あるもの」は、その質によって、有限であり可変的であって、あるものの有には、有限性と可変性とが属するのです。
難しいですね。
或るものは他のものになる。しかし他のものは、それ自身一つの或るものである。したがってこれも同じく一つの他のものになる。かくして限りなく続いていく(286頁)。
この無限は悪しきあるいは否定的な無限である(286頁)。
なぜなら、それは有限なものの否定であるのに、有限なものは再び生じ、揚棄されていないからです。
この果てのない進行は、有限なものはあるものであるとともにまた他者でもある、という矛盾を言い表しているだけなのです。
ここでわかることは、あるものが他のものになり、そしてこの他のものがまた他のものになる、ということです。
あるものは、他のものに対しては、それ自身が他のものですよね。
そうすると、両者は「他のもの」であるという同一の規定をもっているのですから、あるものが他のものへ移っていくと、「自分自身」と合うことになるのです。
このように、他者のうちで自分自身と関係することが「真の無限」なのです。
変化させられるのは「他のものの他のもの」、ともいうことができますね。
このときの有は、否定の否定です。
そしてこの有を、「向自有」というのです。
質は、有るところの規定性としては……実在性である。否定性はもはや抽象的な無ではなく……それは他在としてある。……質は向他有であり……質の有そのものは即自有である(281頁)。
「即自有」は、有の抽象にすぎません。
定有においては、規定性と有は同じですが、この規定性が否定としても定立される場合は、それが、「限界」「制限」なのです。
ですから、他在は、定有と無関係なのではなく、定有そのもののモメントなのです。
「あるもの」は、その質によって、有限であり可変的であって、あるものの有には、有限性と可変性とが属するのです。
難しいですね。
或るものは他のものになる。しかし他のものは、それ自身一つの或るものである。したがってこれも同じく一つの他のものになる。かくして限りなく続いていく(286頁)。
この無限は悪しきあるいは否定的な無限である(286頁)。
なぜなら、それは有限なものの否定であるのに、有限なものは再び生じ、揚棄されていないからです。
この果てのない進行は、有限なものはあるものであるとともにまた他者でもある、という矛盾を言い表しているだけなのです。
ここでわかることは、あるものが他のものになり、そしてこの他のものがまた他のものになる、ということです。
あるものは、他のものに対しては、それ自身が他のものですよね。
そうすると、両者は「他のもの」であるという同一の規定をもっているのですから、あるものが他のものへ移っていくと、「自分自身」と合うことになるのです。
このように、他者のうちで自分自身と関係することが「真の無限」なのです。
変化させられるのは「他のものの他のもの」、ともいうことができますね。
このときの有は、否定の否定です。
そしてこの有を、「向自有」というのです。
ところでこの純粋な有は純粋な抽象、したがって絶対に否定的なものであり、これは同様に直接的にとれば無である(266頁)。
ここから、絶対者は「無」であるという第二の定義が生じました。
たとえば、「神は最高の存在である」という場合には、神は無規定で無形式で無内容な否定性として表されています。
また、仏教で、万物の始まりであり目的でもある無も、同じです。
無はこのように直接的なもの、自分自身に等しいものであるから、逆にまた有と同じものである。したがって有ならびに無の真理は両者の統一であり、この統一が成である(270頁)。
「有と無とは同じものである」といわれても、なかなか受け入れられませんよね。
それは逆のものに思われますから。
ですが、有と無には、区別がまだ規定されていないので、そこにあるのは「言いあらわしえないもの」、たんなる「意向」にすぎない、といいます。
成が有と無との統一であるというのは、たとえば、「はじめ」について考えると分かりやすいかもしれません。
はじめにおいては、事柄はまだ「存在していない」のですが、それは単なる「無」ではなく、そのうちには「有」も存在していますよね。
一層の進展が見込まれるそれは成なのです。
ですから、「成は有および無の成果の真の表現であり、両者の統一」(274頁)といえるです。
この、有は無への移行であり無は有への移行であるという成の命題は、「無からは何も生じない」、あるものはあるものからのみ生じるという命題が対立しますね。
ヘーゲルは、後者のほうを、古代人の考えだと言います。
成のうちにある、無と同一のものとしての有、および有と同一のものとしての無は、消滅するものにすぎない。成は自己内の矛盾によってくずれ、有と無が揚棄されている統一となる。かくしてその成果は定有である(277頁)。
一般に、矛盾、対立する二つの規定があると、一つの規定に固執し、もう一つの規定を失くそうとしますよね。
たとえば、「ゆえにそれは無である」といった結論のように。
ですから、運動が矛盾であることを指摘したゼノンは「ゆえに運動は存在しない」と言うのですし、「発生」と「消滅」に関して古代の人々は、一者すなわち絶対者は発生もしないし消滅もしない、と言うのです。
こうした考え方には、「有」を含んでいる「無」、無を含んでいる有、という発想はないのです。
それにたいして、定有は、有と無の矛盾が消滅した、有と無の統一なのです。
これは揚棄された矛盾ですから、有といっても、否定性・限定性をもつ有なのです。
ここから、絶対者は「無」であるという第二の定義が生じました。
たとえば、「神は最高の存在である」という場合には、神は無規定で無形式で無内容な否定性として表されています。
また、仏教で、万物の始まりであり目的でもある無も、同じです。
無はこのように直接的なもの、自分自身に等しいものであるから、逆にまた有と同じものである。したがって有ならびに無の真理は両者の統一であり、この統一が成である(270頁)。
「有と無とは同じものである」といわれても、なかなか受け入れられませんよね。
それは逆のものに思われますから。
ですが、有と無には、区別がまだ規定されていないので、そこにあるのは「言いあらわしえないもの」、たんなる「意向」にすぎない、といいます。
成が有と無との統一であるというのは、たとえば、「はじめ」について考えると分かりやすいかもしれません。
はじめにおいては、事柄はまだ「存在していない」のですが、それは単なる「無」ではなく、そのうちには「有」も存在していますよね。
一層の進展が見込まれるそれは成なのです。
ですから、「成は有および無の成果の真の表現であり、両者の統一」(274頁)といえるです。
この、有は無への移行であり無は有への移行であるという成の命題は、「無からは何も生じない」、あるものはあるものからのみ生じるという命題が対立しますね。
ヘーゲルは、後者のほうを、古代人の考えだと言います。
成のうちにある、無と同一のものとしての有、および有と同一のものとしての無は、消滅するものにすぎない。成は自己内の矛盾によってくずれ、有と無が揚棄されている統一となる。かくしてその成果は定有である(277頁)。
一般に、矛盾、対立する二つの規定があると、一つの規定に固執し、もう一つの規定を失くそうとしますよね。
たとえば、「ゆえにそれは無である」といった結論のように。
ですから、運動が矛盾であることを指摘したゼノンは「ゆえに運動は存在しない」と言うのですし、「発生」と「消滅」に関して古代の人々は、一者すなわち絶対者は発生もしないし消滅もしない、と言うのです。
こうした考え方には、「有」を含んでいる「無」、無を含んでいる有、という発想はないのです。
それにたいして、定有は、有と無の矛盾が消滅した、有と無の統一なのです。
これは揚棄された矛盾ですから、有といっても、否定性・限定性をもつ有なのです。