今回から勉強するのはヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel 1770-1831 独)です。
テキストとして『小論理学』(松村一人訳、岩波文庫、昭和26年)を使用します。
まず、「有」が次のように定義されます。
有は即自的にすぎぬ概念である。その諸規定は有的であって、それらが区別されている場合には互に他のものであり、それらの本性のより進んだあらわれ(弁証的形式)は他のものへの移行である。この進展は、即自的に存在する概念の不断の開示したがってその不断の展開であり、と同時に、有が自己のうちへはいって行くこと、すなわち有が自分自身のうちへ深まって行くことである(259頁。ドイツ語は省略、旧漢字は新漢字へ改めた、強調原著、括弧内原著。以下同)。
そして、それを次のようにみるのです。
有そのもの、および以下に述べられる有の諸規定、のみならず一般に論理的諸規定全般は、絶対者の諸定義、神の形而上学的諸定義とみることができる(259頁)。
ここから、「質」についての考察が始まります。
純粋な有〔あるということ〕がはじめをなす。なぜなら、それは純粋な思想であるとともに、無規定で単純な直接態であるからであり、第一のはじめというものは媒介されたものでも、それ以上規定されたものでもありえないからである(262頁)。
有は、「自我=自我」、「絶対の無差別」、そして「同一」などと規定されることができます。
「有」が絶対者の述語として使われるのなら、「絶対者は有である」という絶対者の最初の定義がえられます。
この観念論の道は……意識の内に……現はれるものから全経験へと進む。……このものは意識の事実ではない、経験の範囲には属しない、そこへ属するようなものはどうして哲学と呼び得ようぞ、何故なら哲学は経験の根拠を挙げ示さねばならず然るに根拠は必然的に根拠づけられたものの外にあるから。かのものは自由なる併し合法的なる思惟に依って生み出されたものである(64頁)。
観念論は、経験を知るために、規則に従ってそれを分析します。
それは、抽象すること、自由な思惟によって個々のものを捕らえることができるので、それを為し得るのです。
意識内には、表象の必然性だけではなく、その自由も現れるからです。
そしてこの自由はさらに、合法的であるか、あるいは、規則に従って操作しうるか、のどちらかです。
観念論は、自分自身を見出すのと同じく、経験という全体をも見出します。
この全体を合成することによって成立した系列のみが、自由によって生み出されるのです。
自由のこの作用に着手する人はこの系列を意識するでしょうし、そしてその人は、言うなれば新しい範囲・領域を彼の意識のなかに置くでしょう。
しかし、この作用に着手しない人にとっては、この作用によって制約されたものは、全然存在しないのです。
化学者は、物体の要素の結合を見ますが、ふつうの人は、それをただの金属として見ます。
しかし、別々のものを見ているのかというとそうではなく、彼らは、同じものを異なった仕方で見ているだけです。
化学者は個々のものを見て、ふつうの人は全体を見ているのです。
そして化学者は、その全体を組み立てる前に、分析が必要ですね。
分析しなければその合成の規則がわからない対象を扱わなければなりませんから。
しかし哲学者は、分析なくして組み立てることができるのです。
彼は、対象である理性の規則を、既に知っているのですから。
哲学の内容には、人が経験の根拠に関して何事かを思惟せんと欲すると云う制約の下に於ける必然的思惟の実在性以外の何の実在性も属しない(65頁)。
知性はただ能動的にのみ思惟できるのです。
そして、それ以外の実在性は存しないということです。
今回で『知識学への第一序論』を終わります。
観念論は、経験を知るために、規則に従ってそれを分析します。
それは、抽象すること、自由な思惟によって個々のものを捕らえることができるので、それを為し得るのです。
意識内には、表象の必然性だけではなく、その自由も現れるからです。
そしてこの自由はさらに、合法的であるか、あるいは、規則に従って操作しうるか、のどちらかです。
観念論は、自分自身を見出すのと同じく、経験という全体をも見出します。
この全体を合成することによって成立した系列のみが、自由によって生み出されるのです。
自由のこの作用に着手する人はこの系列を意識するでしょうし、そしてその人は、言うなれば新しい範囲・領域を彼の意識のなかに置くでしょう。
しかし、この作用に着手しない人にとっては、この作用によって制約されたものは、全然存在しないのです。
化学者は、物体の要素の結合を見ますが、ふつうの人は、それをただの金属として見ます。
しかし、別々のものを見ているのかというとそうではなく、彼らは、同じものを異なった仕方で見ているだけです。
化学者は個々のものを見て、ふつうの人は全体を見ているのです。
そして化学者は、その全体を組み立てる前に、分析が必要ですね。
分析しなければその合成の規則がわからない対象を扱わなければなりませんから。
しかし哲学者は、分析なくして組み立てることができるのです。
彼は、対象である理性の規則を、既に知っているのですから。
哲学の内容には、人が経験の根拠に関して何事かを思惟せんと欲すると云う制約の下に於ける必然的思惟の実在性以外の何の実在性も属しない(65頁)。
知性はただ能動的にのみ思惟できるのです。
そして、それ以外の実在性は存しないということです。
今回で『知識学への第一序論』を終わります。
観念論について、少し詳しく見ていきましょう。
観念論は……意識の諸規定を知性の働らきから説明する。知性は観念論に取つて唯能動的であり絶対的であつて、所動的ではない……知性には何等本来の存在、何等の成立も属しない……知性は観念論に取つては行であり、絶対的にそれ以外何ものでもない(53頁。ドイツ語は省略、以下同)。
この知性の働きによって「規定された」表象がやって来るのです。
その表象とは、私たちの意識に現れる世界、現に存在する、実質的な、空間においてある世界です。
そして知性は、知性自身の本質に従って、ある仕方で働きます。
そこには、働きの法則、つまり知性の必然的な法則があるのです。
観念論が、知性のこの必然的な法則の予想をなす限りにおいて、それは、批判的観念論または先験的観念論と呼ばれるのです。
これに反して、超越的観念論は、自由で無法則的な働きから規定された表象を導くので、これは全然矛盾する予想だといいます。
「知性の仮定せらるべき働らきの諸法則は、それらが確かに知性の唯一の本質の内に根拠づけられてあるべき限り、自から一個の体系を形成する」(54頁)のです。
観念論を少しまとめてみましょう。
人が自由にある概念を思い浮かべるとき。
その人は、自分がある一定の仕方でやるように余儀なくされている、ということに気づくでしょう。
ここで、二つに分かれます。
一つは、自由によって遂行されるもので、もう一つは、必然的なものです。
後のものは、知性の本性に根拠づけられていて、恣意に依存しません。
観念論は、最初に根本命題として設定されそして意識に於て直接立証されたものが、同時に尚他の或るものが起ることなくしては、可能でなく、而してこの他のものは同時に第三の或るものが起ることなくしては可能でない、と云う事を示し、かくして遂に、最初に挙示されたものの諸制約が完全に尽され、このものがその可能性の上から全く理解されるに至る迄に及ぶのである(61頁)。
観念論は……意識の諸規定を知性の働らきから説明する。知性は観念論に取つて唯能動的であり絶対的であつて、所動的ではない……知性には何等本来の存在、何等の成立も属しない……知性は観念論に取つては行であり、絶対的にそれ以外何ものでもない(53頁。ドイツ語は省略、以下同)。
この知性の働きによって「規定された」表象がやって来るのです。
その表象とは、私たちの意識に現れる世界、現に存在する、実質的な、空間においてある世界です。
そして知性は、知性自身の本質に従って、ある仕方で働きます。
そこには、働きの法則、つまり知性の必然的な法則があるのです。
観念論が、知性のこの必然的な法則の予想をなす限りにおいて、それは、批判的観念論または先験的観念論と呼ばれるのです。
これに反して、超越的観念論は、自由で無法則的な働きから規定された表象を導くので、これは全然矛盾する予想だといいます。
「知性の仮定せらるべき働らきの諸法則は、それらが確かに知性の唯一の本質の内に根拠づけられてあるべき限り、自から一個の体系を形成する」(54頁)のです。
観念論を少しまとめてみましょう。
人が自由にある概念を思い浮かべるとき。
その人は、自分がある一定の仕方でやるように余儀なくされている、ということに気づくでしょう。
ここで、二つに分かれます。
一つは、自由によって遂行されるもので、もう一つは、必然的なものです。
後のものは、知性の本性に根拠づけられていて、恣意に依存しません。
観念論は、最初に根本命題として設定されそして意識に於て直接立証されたものが、同時に尚他の或るものが起ることなくしては、可能でなく、而してこの他のものは同時に第三の或るものが起ることなくしては可能でない、と云う事を示し、かくして遂に、最初に挙示されたものの諸制約が完全に尽され、このものがその可能性の上から全く理解されるに至る迄に及ぶのである(61頁)。
