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哲学系ダイアリー

哲学関連の勉強日記です。

それでは、自我と物とでは、どちらが第一のものなのでしょう。
これは最早理性的にではなく、恣意的に決められるのです。
この恣意はどのように決められるかというと、それは、「傾向性」と「関心」だというのです。
ですから、観念論者と独断論者との相違の最終根拠は、彼らの関心の違いだといえるのです。

最高の関心、他の一切の関心の根拠、は吾々自身に対する関心である(42頁。強調原著、以下同)。

これは学者たちにおいても同様で、論議における自分の立場を維持して主張するのも、目には見えない関心からですよね。
さて、人類の二段階があるといいます。
そして、後の段階に至る前には、人間は、進歩に合わせて二つの族に分かれるといいます。
自己の自由と絶対的自立性との充分なる感情にまで高まっていない人々は自己自身をば単に物を表象することに於てのみ見出す」(42頁)。
彼らから物を奪えば、彼らの自己は失われてしまいます。
実際、物の所産にすぎない人は、自己を、決して物以外のものとは見ないでしょう。
だから、彼が、自己や自己の類のものについて語るあいだは正しいのでしょう。
独断論者の原理は、彼ら自身のための物にたいする信仰であって、散乱した客観物によってのみ支えられる自己にたいする間接の信仰なのです。

併し自己の自立性と自己の外なる総てのものからの独立性とを意識する人……かかる人は彼れの自己を支持する為めに物を要しない、またそれを用いることが出来ない、何故なら物は夫の自立性を廃棄しこれを空しき仮象に変ずるからである」(43頁)。
彼が所有し、彼を関心づける自我が、物にたいする信仰を棄てさせます。
彼は彼の自立性を信じるのであって、自己自身にたいする彼の信仰は直接なのです。

だからフィヒテはこう言うのです。

如何なる種の哲学を人が選ぶかは、従って、如何なる種の人間で彼があるか、に係る。……生来弛緩した人物や精神的隷属と博学の贅沢と虚栄とに依って弛緩せしめられ撓められた人物は決して観念論に迄高まつて来ないであろう(44頁)。
しかし哲学者は、抽象することができる、といいます。
つまり、経験においては結合されているものを、思惟によって分離することができるのだ、と。
経験においては、「物」と「知性」は結合しています。
哲学者は、そこから一つずつ取り出すことができるのであって、そのとき彼は、経験を超え出たことになるのです。
物を抽象するならば、経験にたいする知性自体の関係を抽象して、経験の説明根拠とすることができます。
知性を抽象するならば、物自体が経験において現れるということを抽象して、経験の説明根拠とすることができるのです。
前者のほうは「観念論」と呼ばれ、後者のほうは「独断論」と呼ばれます。

そして、観念論の客観と独断論の客観とは区別されるのです。
その区別の前に、まずは、この客観というもの自体について考えてみます。
ここから少し難しいです。
私たちが意識するすべてのものは、意識の客観と呼ばれます。
これがまず二つに分かれます。
知性の表象によって生み出されるもの(A)と、知性の助けなくして存するもの、とに。
後者のほうは、さらに二つに分かれます。
性質上においても規定されているもの(B)と、性質上からは自由なもの(C)、とに。

Aは虚構に属しますし、Bは経験の対象に、そしてCはいますぐ示そうと思う唯一の対象に属します。

つまり、私は、あれこれと思惟することができるように、私をも自由に考えることができるのです。
それは、私自身を私にとっての客観とすることもできる、ということです。
そしてそれは、私の知性に依存する、予想された客観にすぎません。

これこそが観念論の客観であり、それは、実在的なものとして現実に意識に現れるのです。
「自我自体」として。
それは経験の対象として現れるのではなく、ただ私によって決められるのです。
私による決定がなければ、それは無です。
つまり、経験を超えたものとして現れるのです。

独断論の客観は、これにたいして、ただ自由な思惟によって生み出されます。
このとき物自体はたんなる虚構であり、実在性をもたず、経験にも現れず、この経験も思惟以外の何ものでもないのです。
そうすると、独断論においては、何かあるものを実在性の根拠として検証しようとしても、それは不可能なことですね。
観念論の客観は、意識内において実証できるものですが、独断論のそれは、たんなる虚構にすぎません。

こうして見ると、観念論のほうが優れているように思えますが、フィヒテの考えでは、観念論は独断論を論駁しないし、独断論もまた観念論を論駁しない、ということです。
今回から勉強するのは、フィヒテ(Johann Gottlieb Fichte 1762-1814 独)です。
テキストとして、『知識学への第一序論』(『全知識学の基礎』所収、木村素衛訳、岩波書店、1949年)を使用します。

この著作の始まりの次の言葉には、フィヒテの考えがよく示されているでしょう。

汝自身を注視せよ、汝の眼をば汝を取り囲む総てのものより転じ、汝の内面に向けよ、これが哲学がその学徒に向って為す第一の要求である。関するところは汝の外なる何ものでもなく、唯々汝自身である(27頁。歴史的仮名遣・旧漢字は筆者が現代仮名遣い・新漢字に改めた。以下同)。

フィヒテは考えます。
私たちの表象の、あるものは自由であるが、またあるものは必然であると。
(表象というのは、意識に現れる外的対象の像のことです。)

問題となるのは必然的な表象の根拠であって、その問いに答えることが哲学の課題だといいます。
この必然的な表象の体系は、経験とも呼ばれます。
そのため哲学は、経験の根拠を示さなければならないのです。

そしてこの課題を解く学問を特に、「知識学」というのです。

経験の根拠は、それは客観的である必要がありますから、経験の外になければなりません。

しかしこれを見つけるのは難しそうです。
なぜなら、「有限なる理性的生類は経験以外に何ものをも有たない、経験こそは彼れの思惟の全素材を含むものである」(31頁)からです。
哲学者といえどもこの制約の下にあるのですから、どうやって彼らが経験を超え出るのか、不思議ですよね。