この本のタイトルにもある「純粋理性」を、カントは、「或るものを端的にア・プリオリに認識する諸原理を含んでいるような、そのような理性」(131頁)であると、定義しています。
そして、この純粋理性の機関をうまく使えば、その体系が得られるだろうと考えるわけです。
しかし、これはなかなか難しそうで、また、私たちの認識の拡張は可能であるのかどうかも、まだ分かりません。
ですから、いまのところは、純粋理性とその源泉と限界とを判定するにすぎないだろうと。
この学のことを純粋理性の批判と呼ぶのです。
その効用は、理性の拡張にはなく、理性の誤謬を防ぐことにあります。
そしてこうした体系は、超越論的哲学と呼ばれるのです。
この哲学には、経験的なものを含んでいるいかなる概念も入ることはできません。
ア・プリオリな認識は、完全に純粋でなければならないのです。
超越論的哲学はたんに思弁的な純粋理性の哲学である。なぜなら、すべての実践的なものは、それが{動因}を含んでいるかぎり、経験的な認識源泉に属する感情にもとづいているからである(140頁)。
今回で『純粋理性批判』を、導入でしかありませんが、終わります。
しかし、ア・プリオリな綜合的判断の際には、経験に頼ることはできません。
たとえば、「生起するすべてのものはその原因をもつ」、という命題を考えてみましょう。
生起するというのですから、現存するということや、時間が先行するということは、分析的判断から引き出されます。
しかし、原因という概念は、生起するものとは異なったものを指示するのですから、生起するものには含まれていません。
それではどうやって、私たちはそれを認識するのでしょうか?
このとき、Xは何でしょう?
それは経験ではありえません。
というのも、「生起するすべてのものはその原因をもつ」というこの原則は、次のようなものだからです。
{経験が供給しうるより}いっそう大きな普遍性をもってのみならず、必然性の表現をももって、したがって全面的にア・プリオリに、またたんなる概念から、原因という第二の表象を生起するものという第一のそれに{付加する}からである(106頁。括弧内原著。以下同)。
ところで、分析的原則は概念を判明にしますが、綜合的原則こそが認識を拡張するものです。
ですから、これを明らかにすることが、純粋悟性認識を進歩させることになるのです。
それは、然るべき普遍性でもってア・プリオリな綜合的判断の可能性の根拠を発見し、そうした綜合的判断のそれぞれの種を可能ならしめる諸条件を洞察し、こうした全認識(これがそれらの種自身の類をなす)を、その根源的な源泉、区分、範囲、および限界にしたがって、一つの体系のうちで、粗略な輪郭によって描くのではなく、完璧に、またあらゆる使用に対して不足なく規定することにほかならない(107-108頁)。
たとえば、「生起するすべてのものはその原因をもつ」、という命題を考えてみましょう。
生起するというのですから、現存するということや、時間が先行するということは、分析的判断から引き出されます。
しかし、原因という概念は、生起するものとは異なったものを指示するのですから、生起するものには含まれていません。
それではどうやって、私たちはそれを認識するのでしょうか?
このとき、Xは何でしょう?
それは経験ではありえません。
というのも、「生起するすべてのものはその原因をもつ」というこの原則は、次のようなものだからです。
{経験が供給しうるより}いっそう大きな普遍性をもってのみならず、必然性の表現をももって、したがって全面的にア・プリオリに、またたんなる概念から、原因という第二の表象を生起するものという第一のそれに{付加する}からである(106頁。括弧内原著。以下同)。
ところで、分析的原則は概念を判明にしますが、綜合的原則こそが認識を拡張するものです。
ですから、これを明らかにすることが、純粋悟性認識を進歩させることになるのです。
それは、然るべき普遍性でもってア・プリオリな綜合的判断の可能性の根拠を発見し、そうした綜合的判断のそれぞれの種を可能ならしめる諸条件を洞察し、こうした全認識(これがそれらの種自身の類をなす)を、その根源的な源泉、区分、範囲、および限界にしたがって、一つの体系のうちで、粗略な輪郭によって描くのではなく、完璧に、またあらゆる使用に対して不足なく規定することにほかならない(107-108頁)。
カントは判断を二種類に分けます。
述語が主語に含まれているものを分析的判断とし、述語が主語の概念の外にあるものを綜合的判断とします。
主語と述語の結びつきが、同一性によって思考されるか否かで区別されるのです。
分析的判断は、述語が主語の概念に何かを付け足すことはなく、主語の概念を部分概念へと分解するだけです。
それにたいして、綜合的判断は、主語の概念に、主語の概念を分析しても引き出されない述語を付け足します。
たとえば、「すべての物体は拡がりをもつ」というのは、分析的判断です。
なぜなら、物体という概念を分析しさえすれば、拡がりという述語がその内に見出されるからです。
それにたいして、「すべての物体は重さをもつ」というのは、綜合的判断です。
なぜなら、物体という概念の内に重さは含まれないからです。
(拡がりをもつこと、つまり、長さ・幅・高さの三次元において空間を充たすことが物体の条件なのです。)
以上のことから分かることは、分析的判断によっては、私たちの認識は拡張されることはなく、ただ理解しやすいものになるということ。
そして綜合的判断の際には、私たちは、主語の概念のほかに何か別のもの(X)をもっていなければならない、ということです。
経験的判断における経験は、まさにこのXとなるのです。
なぜなら、物体という概念には重さという述語は含まれてはいませんが、私たちが物体を見るとき、いつでもそこに重さがあることに気づきますね。
ですから、このXには、述語と概念とを綜合する可能性があるのです。
述語が主語に含まれているものを分析的判断とし、述語が主語の概念の外にあるものを綜合的判断とします。
主語と述語の結びつきが、同一性によって思考されるか否かで区別されるのです。
分析的判断は、述語が主語の概念に何かを付け足すことはなく、主語の概念を部分概念へと分解するだけです。
それにたいして、綜合的判断は、主語の概念に、主語の概念を分析しても引き出されない述語を付け足します。
たとえば、「すべての物体は拡がりをもつ」というのは、分析的判断です。
なぜなら、物体という概念を分析しさえすれば、拡がりという述語がその内に見出されるからです。
それにたいして、「すべての物体は重さをもつ」というのは、綜合的判断です。
なぜなら、物体という概念の内に重さは含まれないからです。
(拡がりをもつこと、つまり、長さ・幅・高さの三次元において空間を充たすことが物体の条件なのです。)
以上のことから分かることは、分析的判断によっては、私たちの認識は拡張されることはなく、ただ理解しやすいものになるということ。
そして綜合的判断の際には、私たちは、主語の概念のほかに何か別のもの(X)をもっていなければならない、ということです。
経験的判断における経験は、まさにこのXとなるのです。
なぜなら、物体という概念には重さという述語は含まれてはいませんが、私たちが物体を見るとき、いつでもそこに重さがあることに気づきますね。
ですから、このXには、述語と概念とを綜合する可能性があるのです。