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哲学系ダイアリー

哲学関連の勉強日記です。

経験というものを捨てるならば、どこから来たのかを知らない認識や、起源がわからない原則を信頼するのではなく、どうしたら悟性はア・プリオリな認識へと達するのか、また、どれほどの範囲・妥当性・価値をア・プリオリな認識はもちうるのか、と思うのが普通でしょう。
このことに関して、数学的な認識は、ア・プリオリな認識の一部だといいます。
数学は、経験に依存しないからですね。
それによって人間は、どんどん認識を拡げたがります。
その後、自らの認識の土台は果たして確かなものかどうかを調べるとします。
しかし私たちは、自分を慰めるためであったり、吟味するのが面倒であったりするので、色々と言い訳をするのです。
だから次のことは、そんな私たちを喜ばせます。
私たちの理性の仕事の大部分、おそらくはその最大部分は、私たちがすでに対象についてもっている概念の分析にあるということにほかならない」(96‐97頁)、ということは。
この仕事は、すでに思考されているものの説明や解明にすぎませんが、形式的には新しい洞察と等しいものと評価されます。
しかし実質的には、私たちがもっている概念を拡げることはなく、分析しているだけです。
理性はこのことに気づかずに騙されてしまいますから、人は、この問題を思い浮かべることすらしません。
だからカントはまず、認識様式を区別するのです。
今回から、序論に入ります。

経験は、疑いもなく、私たちの悟性が、感性的感覚の生まの素材を加工することによって産みだす最初の産物である(77頁)。

人々の生活は、すなわち経験ですし、知識もそこから得られます。
だからといって、それが全てであるわけではありません。
経験は、存在しているものが何であるかを教えてはくれますが、その存在の必然性までは教えてくれません。
ですから、経験は、私たちに真の普遍性を与えてはくれませんし、それでは理性は満足しないのです。
ところで、経験に依存しない普遍的な認識は、ア・プリオリな認識と呼ばれ、経験に依存する認識は、ア・ポステリオリな認識と呼ばれます。

私たちの経験のうちへすら、おのれのア・プリオリな起源をもっているにちがいなく、またおそらく、私たちの感官の諸表象を脈絡づけるためにだけ役立つ認識が混入しているということは、明らかである(79頁)。

私たちの経験から、感官(感覚器官とその知覚作用)からくるものを全て取り除いたとしても、ある種の概念やそこから生じた判断は残るだろうし、これらのものこそア・プリオリに成立したものだというわけです。
そして、そうした概念や判断にこそ、たんなる経験的な認識にはない、真の普遍性と厳密な必然性があるだろうと考えられるのです。

或る種の認識は、すべての可能的経験の分野をすら捨て去って、いかなる対応する対象も経験のうちではどこにも与えられえない概念によって、私たちの判断の範囲を経験のあらゆる限界を越えて拡張するように見える(90頁)

私たちが探求したいのは、感性界を越えた、経験が導くことはできない認識なのです。
カントは、人間理性に能力はないとして理性の問題を投げ出すということはせず、むしろ、それらの問題を種別化し、理性の誤解を発見し、それらの問題を理性が満足ゆくまで解決したのです。
カントがこの著作で問題としているのは、「理性自身とその純粋思考」(31頁)なのです。

カントが確実性に関して目的とするところは悟性の究明であって、それは悟性の規則と限界を規定することなのです。
悟性というのは、感性に与えられたものを認識させる能力のことです。
これは感性と理性の間にあり、これがなければ科学的思考はできません。
カントが問題としたのは、「何を、またどれほど悟性と理性とは、すべての経験から離れて、認識しうるか」(34頁)ということだったのです。

カントによれば、形而上学は、その完結が期待される学問だといいます。
だから、後世の人々がやることは、整頓ぐらいしか残らないだろうと。
なぜなら、それは、純粋理性によってえられた私たちのすべての財産の、体系的に整理された財産目録にほかならないからである。ここには私たちが見落としているものは何ひとつとしてありえない」(36頁)、とまで言うのですから、その自信はすごいです。
それというのも、理性が産み出すものは、理性によって見つけられるからだといいます。