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哲学系ダイアリー

哲学関連の勉強日記です。

今回から勉強したいのはカント(Immanuel Kant 1724-1804 プロイセン)です。
テキストとして『純粋理性批判』(原佑訳、平凡社、2005年)を扱います。
純粋理性批判 (上) (平凡社ライブラリー (527))/イマヌエル・カント
ただし、この難解な著作をすべて扱うのは難しいので、ここでは、序文(第一版)と序論(第一版)に絞りたいと思います。

さっそくですが、その序文は次の一文から始まっています。

人間的理性はその認識の或る種類において特異な運命をもっている(25頁)。

それというのも、人間的理性は、拒絶することも解答することもできない問題に悩まされるからです。
拒絶することができない訳は、それが理性の本性だからであって、解答することができない訳は、それが理性の能力を超えてるからです。

個人的な意見ですが、哲学することなどは、まさにそれですね。
明確な答えがありそうもないことに時間やエネルギーをかけるなんて、無駄に見えるかもしれません。
哲学は何の役に立つかとか、何の意味があるかとか、言われるかもしれません。
しかし、役に立つかどうか、意味があるかどうかは、わかりませんし、どうでもいいことです。
それが「理性の本性」だからやっているだけです。
なぜかわからないけど、そうしたいのですね。
この学問が数千年来続いていることを考えても、それは簡単にわかりますね。

このことはカントの、「人間的本性にはその対象がどうでもよいものではありえないような、そのような諸探求に関して無頓着を装うとしても、それは徒労である」(28頁、強調原著。以下同)という言葉にも示されていますね。

さて、この著作のタイトルにある「批判」とは、何を意味するのでしょう。
カントはまずそれを説明します。

理性が、すべての経験に依存せずに、切望したがるすべての認識に関しての、理性能力一般の批判のことであり、したがって、形而上学一般の可能性ないしは不可能性の決定、またこの形而上学の源泉ならびに範囲と限界との規定のことであるが、しかしこれらすべてのことは原理にもとづいてなされるのである(29頁)。

理性の能力が知れるのはどこまでか、形而上学の限界はどこまでかを知るのが、この著作の目的のようです。
前回までに明らかになったように、バークリーは、観念のすべてを神であるとしました。
この世界の複雑な自然現象は、私たちの感官に働きかけますが、「全体を動かす手それ自身は、血と肉とを具えた人間には知覚できない」(169‐170頁)のです。
しかし、考えようとしない、肉体に囚われている、怠惰な者にはそうであっても、「偏見のない注意深い心には、存在物の全体系を形作り規制し維持する全智な精神の親しく現存したもうことほど、平明に読み取れることはない」(170頁)、というのです。

私たちは、こう思うかもしれません。
神がいるならば、なぜ「悪」は存在するのだと。
バークリーは、答えます。
もっと視界を広くして、物事のさまざまな目的や関連や依存関係、快苦、自由、生まれてきた意味、そういったものを了解すれば、そのとき「悪」と見えるものも、存在するものの全体系と繋げて考えるならば、「善」なることがわかるだろうと。

そしてバークリーは、自らの信念を示す次の一文をもって結論とするのです。

福音書の有益な真理を知りかつ実践することこそ、正しく人性の最高な完成なのである(174頁)。


今回で『人知原理論』を終わります。
物体が心の中にだけある受動的な観念であるのにたいして、霊魂は次のように考えられます。

不可分・非形体的・非延長的で、従って朽滅することがない。〔それゆえ、〕自然の諸物体が時々刻々に蒙るのを見る運動や変化や衰頽や解体は……能動的で単純で非複合的な実体にはいささかも影響を及ぼすことができない。……従って、かような〔単純で非形体的非延長的な〕存在物は自然の力によって解体させられることができない、すなわち、人間の霊魂は自然の性として不滅なのである(161頁)。

霊魂と観念では、全く違うのです。

ところで、自然にあるもの、私たちが知覚する観念や感覚は、人間の意志によっては生み出されないのでしたね。
そうすると、こうした観念や感覚をひきおこす他の精神があることになります。
そうした観念や感覚は自存しないのですから。

私たちの意志とは関係なく、自然の諸物には、規則性や、美や、精巧さや、全体の調和、そして動物たちがあります。
そうしたことを考えれば、そして、一とか永遠とか完全などについて考えれば、先ほどの精神がわかるでしょう、というのです。
もうお分かりだと思いますが、この精神を「神」というのです。

神は見たことがないので信じない、見たら信じる、という人がいます。
ところで、人間の精神や人格は観念ではないので、知覚することはできません。
ですから、ある人の色や大きさや形や動きを見たときに、私たちは自分の心の中に、ある感覚や観念を知覚するだけです。
この感覚や観念が、私たちに他の精神の存在を示すのに役立つのです。
ですから、私たちが人を見るというとき、厳密には、私たちは人を見ているのではなく、ただ観念の集合を見ているだけなのです。
こうして私たちは、自分以外の人間を知るのです。

神を見るのも、これと同じだといいます。
ただ違うのは、ふつうの観念のように狭くはなく、どこを見ようと、私たちはいつでもどこにでも神の記号を見るのです。
私たちが見たり聞いたり触れたりするすべての知覚するものは神の記号であって、人間の動きそのものについての私たちの知覚さえも神の記号なのです。
私たちの観念の一切は神の記号なのです。

それゆえ、誰にもわかるように、いささかでも省察できる者にとってこれ以上に明白なもののありえないことは、の存在である。すなわち、私たちの心に親しく現存して、私たちを絶えず感触する一切の多様な観念ないし感覚を私たちの心に産む精神、私たちが絶対かつ完璧に依存する精神、一言で言えば、そのうちに我々が生き動き、また存在する精神、そうした精神の存在なのである(167-168頁)。

しかし、このことに気付くのは極少数の人だけだと、バークリーは嘆いています。