運動の哲学的〔ないし学問的〕考察は、感官によって知覚されかつ物体と関係ある〔相対的な〕空間と別個な絶対空間の在ることを含意しないのである(137-138頁)。
相対的な空間は、心の外には存在できないのでした。
まして、あらゆる物体を排除した純粋空間などというものは、想像すらできないのです。
なぜなら、たとえば運動について、自由に抵抗なく動かせるのであれば、空間があるといえる。
でも、そこに抵抗があれば、物体があるいう。
そしてこの抵抗の大きさに応じて、空間はそれだけ純粋であるとかないとかいうのです。
ですから、空間という言葉を、物体や運動と切り離して考えることは出来ないのです。
名詞が抽象観念をつくってしまうのではないでしょうか。
自分自身の身体以外の全世界が消滅したと想定すると、純粋空間は残ると考えるでしょうか。
それは、自分の身体がなんの抵抗も無くどこへでも動きうる、という意味です。
ですが、自分の身体すら消滅したら、そのときは、どんな運動もあるはずはないので、どんな空間もないのです。
さて、ここからは、精神について少し考えてみたいと思います。
精神の特長は、どのようなものだったでしょう。
精神〔という実体は〕……思考しない存在物すなわち観念が存在できる唯一の実体ないし支持者であるが、さりとて、観念を支持する・換言すれば知覚する・実体がそれ自身観念であったり或いは観念に似寄ったりすることは明白に不合理なのである(156頁)。
つまり私たちに精神(実体)を知ることはできないのです。
いくら探してみても、精神は、観念や感覚のようには知られないのです。
ですから、霊魂を見るというのも不可能なのです。
霊魂や精神というのは、知覚されるのではなく、観念を知覚したり思考する側なのです。
これまでのことから、人知は、観念と精神に分けられることがわかりました。
私たちは、感官の対象について、二重の存在を想定するから混乱するのだ、といいます。
二重の存在とは、理解できる(心の中の)存在と、真実の(心の外の)存在のことです。
その際、観念は、精神に知覚されるのとは関係なく存在できるのだ、と考えることが間違いなのだと。
色や形や運動や大きさなどは、心の中の感覚であるから知られるのです。
精神とは、「能動的で不可分な実体」(112頁)です。
観念とは、「無力ではかない・依存的な・存在物で、それだけで存立しなく、心すなわち精神的実体によって支持される、換言すれば、心すなわち精神的実体のうちに存在する」(112頁)のです。
私たちは、私たち自身(という精神)の存在を、感じや内省によって解りますし、他の精神の存在も、推理によって解ります。
心についても、厳密な意味での観念ではないものの、知識や思念をもつことはできます。
同じく、もの相互間(観念間)の関係を知ることもできます。
一たい、感官に印銘された観念は実在の〔もしくは真実の〕事物である。換言すれば、かような観念は実在する〔もしくは真実に存在する〕。……しかし、観念がこれを知覚する心の外に存立できること、或いはまた、心の外に存在する原型の類似物であること、この点は私たちの否定するところである。なぜなら、感覚ないし観念の存有は実に知覚されることにあるし、観念は観念以外の何ものにも似寄らないからである(113頁)。
感官によって知覚されるものは、私たち自身が生み出したものではないので、その意味で外的ではありますね。
だから、可感的事物は心の外にあると言われるのです。
すなわち、ある他の心の中にあるのです。
たとえば、私が眼を閉じても、私の見たものは依然として存在できます。
ただしそのとき、このものは、他の心の中にあるのでなければなりません。
私たちは、感官の対象について、二重の存在を想定するから混乱するのだ、といいます。
二重の存在とは、理解できる(心の中の)存在と、真実の(心の外の)存在のことです。
その際、観念は、精神に知覚されるのとは関係なく存在できるのだ、と考えることが間違いなのだと。
色や形や運動や大きさなどは、心の中の感覚であるから知られるのです。
精神とは、「能動的で不可分な実体」(112頁)です。
観念とは、「無力ではかない・依存的な・存在物で、それだけで存立しなく、心すなわち精神的実体によって支持される、換言すれば、心すなわち精神的実体のうちに存在する」(112頁)のです。
私たちは、私たち自身(という精神)の存在を、感じや内省によって解りますし、他の精神の存在も、推理によって解ります。
心についても、厳密な意味での観念ではないものの、知識や思念をもつことはできます。
同じく、もの相互間(観念間)の関係を知ることもできます。
一たい、感官に印銘された観念は実在の〔もしくは真実の〕事物である。換言すれば、かような観念は実在する〔もしくは真実に存在する〕。……しかし、観念がこれを知覚する心の外に存立できること、或いはまた、心の外に存在する原型の類似物であること、この点は私たちの否定するところである。なぜなら、感覚ないし観念の存有は実に知覚されることにあるし、観念は観念以外の何ものにも似寄らないからである(113頁)。
感官によって知覚されるものは、私たち自身が生み出したものではないので、その意味で外的ではありますね。
だから、可感的事物は心の外にあると言われるのです。
すなわち、ある他の心の中にあるのです。
たとえば、私が眼を閉じても、私の見たものは依然として存在できます。
ただしそのとき、このものは、他の心の中にあるのでなければなりません。
いままでのところから予想すると、感官の対象、つまり私たちが知覚するものは、私たちが知覚する間だけ存在する、ということになるのでしょうか。
知覚と知覚の合間には、物体は存在しないと。
物体は、瞬間ごとに消えたり現れたりするのだと。
バークリーの答えはこうです。
「私たちが知覚せずともそれらの対象を知覚する或る他の精神がありうる」(78頁)と。
その精神とは一体なんでしょう?
それこそが、「神すなわち事物の通常の経過を維持し支配する叡知」(90頁)なのです。
ですから、私たちが知覚しない間も、公園の木や部屋の本は存在しうるのです。
たとえ物質は私たちによって知覚されないにせよ、それにもかかわらず、神によって知覚され、この神にとって物質は、私たちの心に観念を喚起する機会因なのである(96頁)。
知覚と知覚の合間には、物体は存在しないと。
物体は、瞬間ごとに消えたり現れたりするのだと。
バークリーの答えはこうです。
「私たちが知覚せずともそれらの対象を知覚する或る他の精神がありうる」(78頁)と。
その精神とは一体なんでしょう?
それこそが、「神すなわち事物の通常の経過を維持し支配する叡知」(90頁)なのです。
ですから、私たちが知覚しない間も、公園の木や部屋の本は存在しうるのです。
たとえ物質は私たちによって知覚されないにせよ、それにもかかわらず、神によって知覚され、この神にとって物質は、私たちの心に観念を喚起する機会因なのである(96頁)。