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哲学系ダイアリー

哲学関連の勉強日記です。

私たちは心の中に、いろいろな観念を勝手につくることができますね。
あれこれと、自由に想像(イメージ)できますね。

でも、感官(感覚器官)によって現実に知覚される観念は、私たちの思い通りにはなりませんよね。
眼で見るときには視界にあるものが見えるだけですし、そのほかの感覚についても同様に、それは私たちの意志の創造物ではありませんよね。

でも待ってください。
そうすると、外的物体を認めることになりませんか?
それは無かったはずじゃありませんか?

これについてバークリーは言うのです。
そうした観念を産む、他の精神や意志があるのだと。

私たちにとって、感覚器官を通して知覚したものは、単に想像しただけのものよりも強いし、生き生きと、はっきりとしています。

前者(感官の観念)は定常性と秩序と整合性とを有し、人間の意志の結果である観念がしばしば乱雑に喚起されるようには乱雑に喚起されなく、規則正しい系列ないし序列において喚起される。こうした系列ないし序列の賛嘆すべき結合は、その造り主の智慧と仁愛とを十分に証示するものである(65頁。括弧内筆者)。

その規則を、自然法と呼ぶのです。

これによって私たちは先を見るのです。
どんな行動によって快を得られ苦を除けるのかを知るのです。
たとえば、食べ物によって私たちは養われるとか、睡眠によって休息できるとか、火によって暖まるとか。
この目的のためにはこの手段が有効であるなどを、自然の法則の観察によって知るのですね。

この、自然の下にあって感官に知覚される観念を、実在物と呼びます。
それにたいし、想像だけのものを、事物の観念とか心像と呼ぶのです。
とはいえ私たちの感覚は、どんなに活き活きとはっきりとしていても、観念にすぎません。
感官の観念(実在物)といえども、それは心の中に存在するだけです。

妄想的観念も実在物も、等しく、心の中に存在する観念なのです。
さて、我々の観念・感覚、換言すればどんな名前によって区別されようと私たちの知覚する事物、これはすべて明らかに非能動的である。すなわち、力能ないし作力はそれらのうちに少しも含まれていない。それゆえ、一つの観念すなわち思惟対象は他の観念すなわち思惟対象のうちにいかなる変更も産むことができない、換言すれば、変更を作ることができない(61‐62頁)。

前回のところについて、それでは感覚は外的物質の証拠にはならないのか、と思われたかもしれません。
実際に、物質に触れるではないか、と。

観念は心のうちに存在するのでしたね。
知覚されるものの他には何も観念のうちにはないのでした。
そしてその観念を注意してみれば、そこには力能や能動性といったものは無いことがわかるでしょう。
ですから、観念が何事かをなすこと、それが何事かの原因になることはないのです。
また、観念は能動的存在物の類似物や型像であることもできません。
ですから、大きさや形や動きは私たちの感覚の原因ではありえないのです。
それゆえ、感覚が心の外にある物質の力能の結果である、とは考えられないのです。

少し難しいですが…。

ところで、私たちは連続的な観念を知覚しますよね。
新しく出てくる観念もあれば、変化するものもあり、消えてしまうものもある。
そのため、こうした観念が依存する、そして観念を産んだり変化させたりする、原因があるはずです。
この原因自体は観念ではありえないので、これは実体でなければなりません。
そして、実体は物質的ではないのでしたね。
そうすると、これは何かというと、「非形体的能動的実体すなわち精神」(63頁)というのです。

精神は一つの単純で分割されない能動的な存在者である。精神が観念を知覚するとき、精神は知性と呼ばれ、観念を産み或いはそのほか観念に作用するとき、意志と呼ばれる(63頁)。
物体について私たちのもつ観念に対応して、固性と形状と可動性とを有する実体が心の外に存在できるとしても、私たちはどうしてそれを知ることができるか。これを知るには感官によるか、理知〔ないし理知的推理〕によるか、そのいずれかでなければならない(55‐56頁)。

私たちが知れるのは感官によって知覚されるようなものだけで、心の外にある存在を知覚なしに知ることはできません。
そうすると、もし私たちが外的なものを知るとすれば、知覚されるものから外的なものの存在を推理するしかありません。
しかし、どのような推理によって、それはできるのでしょう?
物質と私たちの観念との間にはなんら必然的結合があるとはいえないのですから。
私たちは、たとえもっている観念と似たような物体が心の外になかったとしても、観念によって心を感触されることができます。
だから、外的物体は観念を産むのに必要ではない、というのです。

かりに外的物体があるとしても、これを知るようになることは断じて不可能である(57頁)。

バークリーは、これは簡単にわかることだといいます。
音や形や動きや色が心のうちに、知覚されずに存在するかどうか試せばいいだけであると。

これらは私たちの知覚なしには存在できない、というのが彼の考えるところなのでしょう。

それではたとえば、公園の木とか、私の部屋の本とか、いまそれはどうなっているのか?
私はいまそこにいないのだから、それは存在しないのか?
でもこのように考えるとき、私たちはすでにそれを想像していますよね。
それはもう、木とか本とかの観念を自分の心の中につくっていますよね。
つまり知覚しているのです。

ですから、もし私たちの思惟の対象が心の外に存在できることを証明したいのなら、対象が知覚されずに(思考されずに)存在していることを示す必要があるのです。
でもこれは無理ですよね。
私たちが外的物体を想うとき、いつも私たちは私たちの観念を視るのですから。

こころは自分自身に留意しないため騙されて、思考されずに存在する・すなわち心の外に存在する・物体を想うことができ、また現に想っている、と考える。が、そう考えるときいつも、それらの物体は心によって認知されている、換言すれば、心のうちに存在しているのである(60‐61頁)。