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哲学系ダイアリー

哲学関連の勉強日記です。

家や山や川などが、知覚されるのとは関係なく存在するはずはない、ということでした。

光や色、熱や寒さ、大きさや形、つまり私たちが見たり触れたりするものは、それぞれ感覚・思念・観念に過ぎないのです。

およそ天の群れと地の備えとの一切は、一言でいえば世界の巨大な仕組みを構成するすべての物体は、心の外に少しも存立しなく、物体の在ることは知覚されること、すなわち知られること、であり、従って、物体が私によって現実に知覚されないとき、換言すれば私の心に存在しないとき、それら物体は全く存在しないか、もしくは或る永遠な精神の心のうちに存立するか、そのいずれかでなければならないのである。けだし、物体のいかなる一つの部分にせよ、これに精神から独立な存在を帰属させることは、完全に不可解であって、抽象のあらゆる矛盾を含むのである(47頁)。

これまでのところから、精神つまり知覚するものの他には実体はない、ということになります。

観念をもつことと知覚することとは一つなのです。

大きさも形も運動も、知覚する実体のうちに存在するのです。

たとえば、熱や寒さについて、あるものを、ある人は冷たいと言い、ある人は暖かいと言います。
それは「心の感触」にすぎないのです。
形や大きさなどについても、同じ眼にも場所が変われば違って見え、同じ場所でも違う人の眼には違って見えます。
味についても、熱があるときや味覚が毀損しているときには、甘味も苦味に変わるのです。
ある運動についても、そのもの自体に変わりはなくても、心の持ちようによって早く見えたり遅く見えたりしますよね。

そう考えると、心の外には、決定的な何かなどないのではないか、と思えてくるのです。
今回から勉強するのはバークリー(George Berkeley 1685-1753 アイルランド)です。
テキストとして『人知原理論』(大槻春彦訳、岩波書店、昭和33年)を使用します。
(絶版です)

この本は人間のちえの本源的なものについて書かれています。

私たち人間のちえはどこに向けられるのでしょう。
バークリーはまず言います。

人知の対象は、〔第一、〕感官に現実に印銘されている観念か、〔第二、〕心の情緒や作用に注意してよってもって知覚されるようなものか、または最後に、記憶や想像の助けをかりて、原は上述のように知覚されたものを複合するか分割するか或いはそのまま再現するかいずれかして、形成される観念か、そのいずれかである(43頁。以下、断りがない限り括弧内原著)。

私たちは、視覚、触覚、嗅覚、味覚、聴覚によって知覚しますね。
また、これらのいくつかがくっついて名前をもつ「もの」になります。
たとえば、ある色・味・香り・形・堅さがひとつになったのがリンゴという名前をもった「もの」です。
また観念は、石や木や本などの「もの」も作るのです。
そしてこれらの快・不快が愛情・憎悪・喜び・悲しみなどを呼び起こすのです。

ところで、こうした観念や知識の対象のほかに、それについて意志したり創造したり記憶したりするものがあります。
それを「心」とか「精神」とか「霊魂」とか「私自身」と呼ぶのですね。
これは観念とは別なものです。
観念はこの中に存在し、これによって知覚されるのです。
観念は知覚されるから在るのです。

私たちの思想とか情緒とか観念とかは心の内に存在し、心の外には存在しません。
同じく、感覚もまたそれを知覚する心に存するのです。
たとえば、私が書きものをしている机は存在すると言うとき、私は机を見るのですし触るのです。
色や形があったというのは、視覚や触覚によって知覚されたということです。
それがすべてなのです。

そうした事物の存在するとは知覚されることである。換言すれば、そうした事物が心の外で、すなわち、それらを知覚するところの思考する事物の外で、かりそめにも存在することは、不可能なのである(45頁。強調原著。以下同)。
私たち「理性的精神」は、神そのもの、自然の創作者そのものの姿であるといいます。
だから宇宙の体系を知ることができるし、宇宙を模倣することもできるのです。
そのため、それぞれが小さな神のようなものなのだと。

「理性的精神」は、神と仲間のようなものなのです。
それは発明者と機械の関係に止まらず、君主と臣民の関係、父と子の関係であるかのようです。

だから私たち「理性的精神」は、「神の国」において、最も完全な国家を構成しなければならないというのです。

86 この神の国この真に普遍的な王国は自然界の中に存する倫理界である。神の作品のうちで最も崇高な最も神的なものである。この国の中にこそ神の光栄が真に存している。もし神の偉大と神の善意とを理性的精神が認識し歎賞しないならば神の光栄は存しないことになるからである。(略)(286頁)

そしてこの神による完全な統治の下では、善い行いには必ず褒賞があり、悪い行いには必ず懲罰があるといいます。
すべてのことは、善い人々にとって善い結果に終わるはずなのです。
それでは、「善い人」とはどのような人なのでしょうか。

90 (略)善い人々とはこの偉大な国に在って不満を懐かず自分の義務を果した上は神の摂理に信頼し凡ての善の創作者(神)を申し分なく愛し且つ模倣し自分の愛する者の幸福を見て喜ぶ本当の純粋な愛の本性に従って神の有する様々な完全を静観して楽しむ人々のことである。(略)(287頁、強調原著)

だから賢明で有徳な人は、神の意志に適うと思うことをし、そして、実際に起こることにも満足するのです。
そしてこれまでの説明から、宇宙の秩序は完全であることが解ったので、これをさらに善くすることはできないだろう、と考えるのです。
今ある状態がすでに完全なのだから。

これにて『単子論』、終わりです。