道具がその存在においてありのままに現われてくるのは、それぞれの道具に呼吸を合わせた交渉をしているときです。
たとえば、ハンマーをふるって打つときのように。
そのとき、存在者を出現する事物として把握しているわけでも、その道具の構造を知っているわけでもありません。
ハンマーをふるうということは、その道具的性格についての知識だけではなく、その道具をそれ以上ないほどに自分のものにしているということなのです。
ハンマーが単にものとして眺められるだけでなく、手っ取り早く使われるほど関わり合いは根源的になり、ハンマーはそれだけありのままの姿で出会ってくるのです。
このような存在様相を「用具性」といいます。
道具にはこのような「自体=存在」がそなわっているのであって、道具はだしぬけに出現するものではない。それがもっとも広い意味で手もとに具わってわれわれに用いられるのは、そのためなのである(163頁)。
ただ眺めるだけでは用具的存在者を発見することはできません。
たんに「理論的に」眺めるだけの眼には、用具性の了解が欠けているからです。
さて、そうすると、世界とはどのようなものでしょう?
現存在が世界=内=存在によって構成されていて、その存在には現存在の自己についての了解もそなわっているなら、現存在は世界の了解をもっていることになるのではないでしょうか。
世界=内=存在に内世界的存在者が出会うと、それの内世界性が現れると同時に、なにか世界というようなものも現れてくるのではないでしょうか。
してみれば世界とは、現存在が存在者としていつもすでにそのなかで存在してきたところであり、現存在がどのような行き方でそこをめざして行くにしても、いつもただそこへ帰って来るというありさまでしか到着できないところなのである(177頁)。
今回で『存在と時間」を終わります。