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哲学系ダイアリー

哲学関連の勉強日記です。

いよいよ、霊魂不滅の最終証明です。

それにはまず、次の考え方を理解する必要があります。

たとえば、AさんはBさんより大きいが、Cさんよりは小さい、というとき。
Aさんは、Bさんの持つ「小」にたいして「大」を持つ、と言えます。
また、Cさんの持つ「大」にたいしては、Aさんは「小」を持つ、と言えますね。
つまりAさんは、大きくもあり小さくもある。
Bさんにたいしては「大」で、Cさんにたいしては「小」なのですね。

しかし、「大」そのものは、決して同時に、「大きくありかつ小さくもある」わけではありません。
「大」そのものが「小」を受け入れることはありません。
ただ、「小」が来ると「大」は、逃げ出すか無くなるかするだけです。
これは、反対関係にあるどのようなものも同じですね。
つまり、「その反対の性格それ自体は、われわれのうちにあるにせよ、その本性においてあるにせよ、けっして自分自身の反対にはならない」(139頁)わけです。

それではどうでしょう。
体の中に魂が生じると、それは生きたものになります。
「生」に反対のものは「死」です。
そして、反対のものは受け入れないのですから、魂は、それがもたらすもの(生)とは反対のもの(死)を受け入れることはありませんね。

たとえば、偶数と言う性質を受け入れないものは、非偶数的なものです。
正義を受け入れないものは不正ですし、音楽性を受け入れないものは非音楽的なものです。
それでは、死を受け入れないものはなんでしょう?
不死なるもの、です。
だから、魂は不死なるものなのです。


このようにして証明されるのですが、いかがだったでしょうか。
今回で、この本は終わります。

次に、魂は、最終的には散り散りバラバラになってしまうのかどうかを考えます。
ソクラテスは、「合成」「非合成」という考えを用います。

合成されて出来たものや、自然的に合成物であるものにとっては、それが合成されたのと同じ仕方で分解されるということは相応しいのだろうね。これに対して、もしもなにかが非合成的であるならば、他のものはいざしらず、このものだけが分解されないということが、相応しいのだろうね(72頁)

合成されたものは分解されるし、非合成的なものは分解されない、ということです。
それでは、合成されたもの、非合成的なものとは、それぞれどういったものなのでしょうか。
彼は言います。

常に自己同一を保ち同じように有るものが、非合成的であり、これに対して、時によってその有り方を変えけっして自己同一を保たないものが、合成的である(72頁)

これまでに考えてきた、「等しさそのもの」や「美そのもの」などといった「正にそれで有るところのもの」は、けっして変化しませんね。
「そのもの」なのですから。

それではたとえば、美しいものについてはどうでしょう。
美しい人間や、美しい服などについては。
これらは変化しないでしょうか。
いいえ、変化しますね。

ところで、こうしたものは、見ることも、触ることもできます。
感覚することができます。
それにたいして、変化しない(同じ有り方を保つ)ものは、思惟の働きでしか捉えられません。
思惟という言葉、覚えていますか?
心に深く考え思うこと、でしたね。
こうしたものは、目に見えるものではありません。

ここで、存在するものには二種類あると考えてみましょう。
一つは目に見えるもの。もう一つは目に見えないもの。
そして、目に見えないものは常に同一だが、目に見えるものは決して同一ではない、と。
ここに、肉体と魂があります。
肉体と魂、それぞれ、目に見えますか、見えませんか?
肉体は見えますが、魂は見えませんね。

なので、「魂は肉体より不可視なものにより似ているのであり、他方、肉体は目に見えるものにより似ている」(75頁)のであって、「魂はまったく全面的に常に同じように有るものの方に、そうでないものの方によりも、より似ている」(76頁)と言えるのです。

こうしたことから、ソクラテスは、魂と肉体は、支配する・される、主人・奴隷の関係にあると考えます。
そして、この二つを比べて、どちらがより神的であるか、どちらがより死すべきものであるかを問い、そこから、次の結論に至るのです。

一方には、神的であり、不死であり、可知的であり、単一の形相をもち、分解されえず、常に同じように自分自身と同一であるものがあるが、この種のものに魂はもっとも似ているのであり、他方では、人間的であり、可死的であり、多様な形をもち、知性的ではなく(無思慮であり)、分解可能であり、けっして自分自身と同一ではないようなものがあるが、今度は肉体がこの種のものにもっとも似ているのである(77頁)。

だから、肉体は解体するけれども、魂は解体されない、というのです。

前回の続きです。

わたしたちには、「まさにそのもの」であるものについて、見た憶えはありません。
でもなぜか、知っている(分かっている)ようです。
憶えはないのに知っているとなると、どうやら、生まれる前に得たようです。

でも、それではおかしくないですか?
もしわたしたちが知りながら生まれてきたのなら、生まれたときから何でも知っているはずですよね。
しかし実際は、子供を見ればわかりますが、何でも知っているようには見えませんね。

しかし、次のように考えるなら、どうでしょう。

もしもわれわれが生まれる前に知識を獲得しながら、生まれるや否やそれを失ったとするならば、そして、後にその知識の対象について感覚を用いながら以前に持っていたかの知識を再び把握するのだとするならば、われわれが『学ぶこと』と呼んでいる事柄は、もともと自分のものであった知識を再把握することではなかろうか。そして、これが想起することである(64頁)。

わたしたちは、見たり、聞いたりと、何か感覚を使って他のものを考え付きますね。
前回の例でいうならば、等しい石を見ることによって、「等しさそのもの」を考えたり。
これは、わたしたちが、もともとそういった知識を持っていたけれど忘れてしまっていたものを、もう一度思い出す作業なのだ、というのです。
そして、わたしたちは、そうした知識を学んだ憶えはないのですから、それは生まれる前に得たものだ、と。
だから、「魂は人間の中に入る前にも、肉体から離れて存在していたのであり、知力を持っていたのだ」(66頁)、と考えられるのです。

わたしたちは、「美」や「善」について話し合うことができます。
なぜでしょう。
わたしたちが実際に見たことがあるものは、何か「美しいもの」や「善いこと」にすぎません。
「美そのもの」とか「善そのもの」などというものは、見たことがないはずです。
それなのに、なぜ「美」や「善」について話し合うことができるのですか?
それは、わたしたちが生まれる前に、まだ魂の状態のときに、そういったものを見ていたからだ、というわけです。
そして生まれた後に、見たり聞いたり、感覚を使って知覚したときに、かつて見たものを思い出すのだ(本物には劣るけれども)、と。
だから魂はあるはずだ、というわけです。