今回は、想起説というものを勉強したいと思います。
少し難しいですので、想像力を働かせてお読みください。
たとえば、「等しさ」について考えるとき。
「等しさ」って何か、わかります?
その辺にある木が等しいとか、石が等しいとかではなく、なにか「等しさそのもの」とでもいうようなもののことです。
木とか石とかが等しい(似ている)のを見て、そこから、「等しさそのもの」も考えつきません?
もちろん、等しいものと、等しさそのものは、同じではありませんね。
でも、等しいものから、等しさそのものという考えを得たのですね。
あなたが何かを見て、それをきっかけにして何か別のものを考えたなら、それが想起というものです。
木とか石とかの等しさは、等しさそのものと比べて、どうでしょう。
等しさという点においては、やはり、劣っているのではないでしょうか。
この石と、あの石は等しい、と言うときの「等しい」は、飽くまでも「似ている」という程度で、「等しさそのもの」と比べれば、やはり、等しさのレベルは劣るのです。
このことに頷けるのなら、なぜ頷けるのですか?
「等しさそのもの」を、見たことがあるのですか?
ソクラテスは言います。
だれかが何かを見て、自分が現に見ているこのものは存在するもののうちでなにか別のものになろうと望んでいるが、不足していて、かのもののようにはなれず、より劣ったものである、ということに気付く時、多分このことに気付いた者は、かのものを必ず予め見たことがあるのでなければならない(61頁)。
わたしたちは、以前に、「等しさそのもの」を予め知っていたはずだ、というのです。
わたしたちが、似ている木とか石とかを見て、この木は等しい、この石は等しい、と思う前に。
だから、「等しい」という概念を持ちうるのだ、と。
「われわれが等しさそのものを考え付いたり、考え付き得るのは、等しい事物を見たり、それらに触れたり、それらについてなにか他の感覚をもったり、する以外には出所がない」(61-62頁)と言うのです。
ここまで、大丈夫でしょうか。
わたしたちが、「これとあれは等しい(似ている)、でも完全とはいえないな」、などと考えられるのは、わたしたちが予め、「完全な等しさ」とでも言おうか、「等しさそのもの」を知っているからだ、というのです。
そうでなければ、それがどれほど等しいか等しくないか、などという判断はできないだろう、というわけです。
そして、言うまでもなく、わたしたちには、「等しさそのもの」などというものは見た憶えはありませんね。
それでは、なぜ知っているのですか?
いつ知ったのですか?
そしてこのことは、「等しさ」についてだけではなく、「美そのもの」、「善そのもの」、「正義」、「敬虔」など、つまり、「まさにそのもの」というもの全てに関わることなのです。
続きは、また次回。
ソクラテスは、霊魂不滅の証明を試みます。
それは、次のような考察から始まるのです。
なにか反対のものがある限りのものにおいては―たとえば、美が醜に反対であり、正が不正に反対であり、その他無数のものがそのような関係にあるのだが―そういうものにおいては、その一方は反対である他方からしか生じえないのだ、ということを(48頁)。
たとえば、何かが大きくなるということは、その前は小さかったはずです。
反対に、小さくなるということは、その前は、大きかったということです。
同じように、強いものから弱いものが、遅いものから早いものが生まれます。
また、何かが悪くなるのなら、それは良い状態からであり、正しくなるのなら、それは不正な状態からなのです。
つまり、「すべてのものは、反対のものが反対のものからという仕方で、生成する」(49頁)、そして、「それらの反対物は相互から生成し、それぞれが互いに他方へ生成する」(50頁)、ということです。
目覚めていることの反対は、眠っていることです。
生きていることの反対は、死んでいることです。
そして、先程みたように、反対のものから反対のものが生まれるのでしたね。
そうすると、生きているものから死んでいるものが生じ、死んでいるものから生きているものが生じる、ということになりますね。
また、死ぬことの反対は、生きかえること。
だから、死者が生者から生まれるのと同じく、生者も死者から生まれる、というのです。
こういう事情であれば、それは、死者たちの魂が必ずどこかに存在していて、そこから再び生まれてくるはずだ、ということの充分な証明になる(52頁)
ソクラテスは、生成とはサークル状のものであって、直線的なものではない、と考えます。
たとえば、眠っている人には目覚めがあります。
これがもし直線的なものなら、眠り続けてしまいます。
サークルのように、再び戻ってくるから目覚められるのです。
同じように、すべてのものが死んで、再び戻らないとすれば、最後には万物が死んで、何も生きているものはない、ということになります。
もしも生者が死者から生まれるのではなく、死者は死にっぱなしだとしたら、万物は消費し尽くされてしまう、というのです。
それは、次のような考察から始まるのです。
なにか反対のものがある限りのものにおいては―たとえば、美が醜に反対であり、正が不正に反対であり、その他無数のものがそのような関係にあるのだが―そういうものにおいては、その一方は反対である他方からしか生じえないのだ、ということを(48頁)。
たとえば、何かが大きくなるということは、その前は小さかったはずです。
反対に、小さくなるということは、その前は、大きかったということです。
同じように、強いものから弱いものが、遅いものから早いものが生まれます。
また、何かが悪くなるのなら、それは良い状態からであり、正しくなるのなら、それは不正な状態からなのです。
つまり、「すべてのものは、反対のものが反対のものからという仕方で、生成する」(49頁)、そして、「それらの反対物は相互から生成し、それぞれが互いに他方へ生成する」(50頁)、ということです。
目覚めていることの反対は、眠っていることです。
生きていることの反対は、死んでいることです。
そして、先程みたように、反対のものから反対のものが生まれるのでしたね。
そうすると、生きているものから死んでいるものが生じ、死んでいるものから生きているものが生じる、ということになりますね。
また、死ぬことの反対は、生きかえること。
だから、死者が生者から生まれるのと同じく、生者も死者から生まれる、というのです。
こういう事情であれば、それは、死者たちの魂が必ずどこかに存在していて、そこから再び生まれてくるはずだ、ということの充分な証明になる(52頁)
ソクラテスは、生成とはサークル状のものであって、直線的なものではない、と考えます。
たとえば、眠っている人には目覚めがあります。
これがもし直線的なものなら、眠り続けてしまいます。
サークルのように、再び戻ってくるから目覚められるのです。
同じように、すべてのものが死んで、再び戻らないとすれば、最後には万物が死んで、何も生きているものはない、ということになります。
もしも生者が死者から生まれるのではなく、死者は死にっぱなしだとしたら、万物は消費し尽くされてしまう、というのです。
今回から、扱うのはプラトンです。
テキストとして、『パイドン』(岩田靖夫訳、岩波文庫、1998年)を使用します。
この本は対話形式で進められ、副題は、『魂の不死について』です。
著者はプラトンなのですが、登場人物は、主役がソクラテスです。
ソクラテス自身は生涯に一冊の本も書きませんでしたから、プラトンなどが書いた本からしか、その思想はわかりません。
ソクラテスは、ものごとの本質というものは肉体を通しては見られない、と考えます。
それは思考によるのだ、と言います。
「思惟(しい)」という言葉が使われますが、これは、心に深く考え思うことです。
感覚に頼ることなく、純粋に思惟することにより真実に近づける、と考えたのです。
ソクラテスは、弟子のシミアスに言います。
その人は、できるだけ目や耳やいわば全肉体から解放されている人である。なぜなら、肉体は魂を惑わし、魂が肉体と交われば、肉体は魂が真理と知恵を獲得することを許さない、と考えるからである。シミアス、もしだれか真実在に到達する人があるとすれば、それはこの人ではないか(34頁)
肉体は厄介なものだと言います。
たとえば、肉体に伴う病気、愛欲、欲望、恐怖などが、考え事の邪魔をすると言うのです。
ですから、何かを純粋に知ろうとするなら、肉体から離れて魂だけにならなければならない。
その時にこそ、知恵がわたしたちのものになる、と言うのです。
その時というのは、死んだ時です。
死んだ時に魂は肉体から離れるからです。
それでは、生きている限り、知恵を獲得することはできないのでしょうか。
ソクラテスは、次のようにすれば近づける、と言います。
どうしても避けられない場合を除いては、できるだけ肉体と交わらず共有もせず、肉体の本性に汚染されずに、肉体から清浄な状態になって、神ご自身がわれわれを解放する時を待つのである。……そして、われわれ自身によって、すべての純粋なるものを、言い換えれば、恐らくは、真実なるものを知るだろう(36頁)。
生きている内に、魂を肉体からできるだけ切り離し、魂だけが自分自身であるように習慣づけることを勧めるのです。
そして、この魂の解放を常に望んでいるのが哲学者たちだ、と言うのです。
正しく哲学している人々は死ぬことの練習をしているのだ。そして、死んでいることは、かれらにとっては、誰にもまして、少しも恐ろしくないのである。……あの世へ着けば、一方では、生涯を通して憧れつづけてきたもの、知恵、を得るという希望があり、他方では、争いつづけてきたものと一緒にいることから解放されるというのに、あの世へいくのを喜ばないなんて(38-39頁)。
死に対するソクラテスの態度は、このようなものだったのです。
テキストとして、『パイドン』(岩田靖夫訳、岩波文庫、1998年)を使用します。
この本は対話形式で進められ、副題は、『魂の不死について』です。
著者はプラトンなのですが、登場人物は、主役がソクラテスです。
ソクラテス自身は生涯に一冊の本も書きませんでしたから、プラトンなどが書いた本からしか、その思想はわかりません。
ソクラテスは、ものごとの本質というものは肉体を通しては見られない、と考えます。
それは思考によるのだ、と言います。
「思惟(しい)」という言葉が使われますが、これは、心に深く考え思うことです。
感覚に頼ることなく、純粋に思惟することにより真実に近づける、と考えたのです。
ソクラテスは、弟子のシミアスに言います。
その人は、できるだけ目や耳やいわば全肉体から解放されている人である。なぜなら、肉体は魂を惑わし、魂が肉体と交われば、肉体は魂が真理と知恵を獲得することを許さない、と考えるからである。シミアス、もしだれか真実在に到達する人があるとすれば、それはこの人ではないか(34頁)
肉体は厄介なものだと言います。
たとえば、肉体に伴う病気、愛欲、欲望、恐怖などが、考え事の邪魔をすると言うのです。
ですから、何かを純粋に知ろうとするなら、肉体から離れて魂だけにならなければならない。
その時にこそ、知恵がわたしたちのものになる、と言うのです。
その時というのは、死んだ時です。
死んだ時に魂は肉体から離れるからです。
それでは、生きている限り、知恵を獲得することはできないのでしょうか。
ソクラテスは、次のようにすれば近づける、と言います。
どうしても避けられない場合を除いては、できるだけ肉体と交わらず共有もせず、肉体の本性に汚染されずに、肉体から清浄な状態になって、神ご自身がわれわれを解放する時を待つのである。……そして、われわれ自身によって、すべての純粋なるものを、言い換えれば、恐らくは、真実なるものを知るだろう(36頁)。
生きている内に、魂を肉体からできるだけ切り離し、魂だけが自分自身であるように習慣づけることを勧めるのです。
そして、この魂の解放を常に望んでいるのが哲学者たちだ、と言うのです。
正しく哲学している人々は死ぬことの練習をしているのだ。そして、死んでいることは、かれらにとっては、誰にもまして、少しも恐ろしくないのである。……あの世へ着けば、一方では、生涯を通して憧れつづけてきたもの、知恵、を得るという希望があり、他方では、争いつづけてきたものと一緒にいることから解放されるというのに、あの世へいくのを喜ばないなんて(38-39頁)。
死に対するソクラテスの態度は、このようなものだったのです。
