今回で、この本は終わりです。
いかがだったでしょうか。
デカルトは、とにかく、理性というものの重要性を説きました。
われわれは、目覚めていようと眠っていようと、理性の明証性による以外、けっしてものごとを信じてはならないのである(55頁)。
最初なので、まずは、哲学とはどのようなものなのかが、少しでも分かっていただけたなら、それで目標はクリアーだと思います。
前回の、「完全な存在者」に関する補足を少しだけ。
完全というのは、あらゆる不完全がないということでした。
いま、ある存在者が、観念として(想像上)だけ存在する場合と 、現実に存在する場合とがあるとします。
そこで、観念としてだけ存在するのと、現実にも存在するのとでは、どちらが完全と言えるでしょう?
もちろん、現実にも存在する方が完全です。
逆に言うと、観念としてしか存在せず、現実には存在しないのだとしたら、それは完全ではありえません。
なぜなら、「~しない」という否定、不完全が入るからです。
「現実には存在しない」という不完全が。
つまり、完全な存在者であるならば、現実にも存在するはずなのです。
どうでしょう。納得できるでしょうか…。
完全というのは、あらゆる不完全がないということでした。
いま、ある存在者が、観念として(想像上)だけ存在する場合と 、現実に存在する場合とがあるとします。
そこで、観念としてだけ存在するのと、現実にも存在するのとでは、どちらが完全と言えるでしょう?
もちろん、現実にも存在する方が完全です。
逆に言うと、観念としてしか存在せず、現実には存在しないのだとしたら、それは完全ではありえません。
なぜなら、「~しない」という否定、不完全が入るからです。
「現実には存在しない」という不完全が。
つまり、完全な存在者であるならば、現実にも存在するはずなのです。
どうでしょう。納得できるでしょうか…。
前回、わたしたちは疑う存在であることがわかりました。
ところで、「疑う」ということは、完全なことでしょうか。それとも、不完全なことでしょうか。
これは、不完全なこととされます。
なぜなら、何かを知っていることと疑うこととを比べると、疑うということは確実な認識に達していないということなので、それは不完全なこととされのです。
それでは、不完全な存在であるわたしたちは、自分よりも完全であるものについて考えることを、どこから学ぶのでしょう。
デカルトは、それを、現実に自分より完全なものから学ぶのだ、と言います。
わたしの存在よりも完全な存在の観念については……それを無から得るのは明らかに不可能だし、また、わたし自身から得ることもできなかった。……そうして残るところは、その観念が、わたしよりも真に完全なある本性によってわたしのなかに置かれた、ということだった。その本性はしかも、わたしが考えうるあらゆる完全性をそれ自体のうちに具(そな)えている、つまり一言でいえば神である本性だ(48-49頁、括弧内筆者)。
不完全な存在であるはずのわたしたちですが、しかし、わたしたちは「完全」とか「完全性」といったイメージをもっています。
どうしてこれができるのでしょう。
彼はそれを、完全なものから来ているからだ、と考えます。
そして、この完全なものを「神」と呼ぶのです。
完全ということは、あらゆる不完全がないことです。
たとえば、無限、永遠、不変、全知、全能…などがそうですね。
わたしたち人間は、こういった完全性をもっていませんね。
ですからわたしたち自身は不完全なのです。
そして、わたしたちは、無限とか、永遠とか、不変とか、全知とか、全能などといったものを実際に見たこともありませんね。
それなのに、なぜ、そうしたものを想像できるのでしょう?
想像できるのは、実際にそういうものが存在するからだ、と考えるのです。
ところで、「疑う」ということは、完全なことでしょうか。それとも、不完全なことでしょうか。
これは、不完全なこととされます。
なぜなら、何かを知っていることと疑うこととを比べると、疑うということは確実な認識に達していないということなので、それは不完全なこととされのです。
それでは、不完全な存在であるわたしたちは、自分よりも完全であるものについて考えることを、どこから学ぶのでしょう。
デカルトは、それを、現実に自分より完全なものから学ぶのだ、と言います。
わたしの存在よりも完全な存在の観念については……それを無から得るのは明らかに不可能だし、また、わたし自身から得ることもできなかった。……そうして残るところは、その観念が、わたしよりも真に完全なある本性によってわたしのなかに置かれた、ということだった。その本性はしかも、わたしが考えうるあらゆる完全性をそれ自体のうちに具(そな)えている、つまり一言でいえば神である本性だ(48-49頁、括弧内筆者)。
不完全な存在であるはずのわたしたちですが、しかし、わたしたちは「完全」とか「完全性」といったイメージをもっています。
どうしてこれができるのでしょう。
彼はそれを、完全なものから来ているからだ、と考えます。
そして、この完全なものを「神」と呼ぶのです。
完全ということは、あらゆる不完全がないことです。
たとえば、無限、永遠、不変、全知、全能…などがそうですね。
わたしたち人間は、こういった完全性をもっていませんね。
ですからわたしたち自身は不完全なのです。
そして、わたしたちは、無限とか、永遠とか、不変とか、全知とか、全能などといったものを実際に見たこともありませんね。
それなのに、なぜ、そうしたものを想像できるのでしょう?
想像できるのは、実際にそういうものが存在するからだ、と考えるのです。