3月初めに3回目の手術入院してから、「老い」「病」「死」について、下重曉子、加賀乙彦、曽野綾子の著者を読んできている。曽野綾子の本は読みかけの本が2冊あるが、気分転換に吉本隆明の『老いの幸福論』を読んでみた。


「老い」についての本をいつ頃から読み出したのか振り返ってみたら、ちょうど10年前の62歳のときに、堺屋太一や五木寛之の本を読みはじめていた。





吉本隆明は、思想家、評論家として難解な本を著したり、派手な論争を繰り広げてきているので、難しいことを書いているかと思いきや、いたって簡潔に「老いの幸福」を論じている。


●ちいさく刻んで考える

幸・不幸とか、禍いとか、あるいは嬉しいとか、気分がいいとかよくないという期間、周期みたいなものを、その都度、瞬間瞬間に縮めちゃうということが、唯一の救いのような気がしますね。


●大きな目標など、たててはいけない

会社を定年して、まだこれから、少なくとも二十年くらいある余生を、会社というこれまでの人生の大部分を占めていたものから絶たれて、社会とのつながりの喪失感みたいなものを感じているとき、一からやりがいとか生きがいを見つけようと思うと、それは案外苦痛に感じるものだと思うんです。


●知識より叡智が大事

知識といのはほんとうに役に立たないんです。役に立たないというより、要らないです。その場で適応すればいい。適応するだけの素地さえもっていれば、ほかには何も要らないと思います。


●「生死は不定である」という心構えを」

親鸞は「生死は不定である」ということだけ言っている。浄土というのが実体的にあって、安楽の場だ、みたいなことを言うのはぜんぶ嘘であって、自然に死ぬときが来たら死ねば、それでいいんだというのが親鸞の答えです。


「思想界の巨人」と言われるだけあって、一般には受け入れられない言動に対しても、それが徹底的に考え抜いた上での結論であると認めれば、評価するところがある。