大活字シリーズで、五木寛之の「他力」を借りて、一気に読んだ。

底本は、1998年11月に講談社から出版された。
時代は、日本経済が1993年にバブル崩壊して日本経済がドン底に喘いでいる中、1995年にオウム真理教による地下鉄サリン事件、1997年には14歳の少年による酒鬼薔薇聖斗事件と不条理な事件が相次いで起こり、日本の自殺者数も年間2万人から3万人超に急増して社会不安に覆われていた。

五木寛之は、13歳のときに、旧植民地の平城で敗戦を迎え、難民として38度線を徒歩で脱出して引き上げるなど数々の困難を体験してきたことからか、「結局、最後のところは、やはり『他力』ということなんだろう」という考えに到達したようだ。

五木寛之は、自分を支えてくれた三人の宗教者の言葉を次のようにあげるが、
 法然: 易行往生、親鸞: 自然法爾、蓮如: 他力本願
どれも背後には、「わがはからいにあらず」という
他力の声が響いているように思えてならないという。

バブル崩壊後、グローバル・スタンダードの波が押し寄せ、自己責任や自助努力が声高に叫ばれてきたが、いくら自力で克服しようとしてもできないときは、「諦める」=「明らかに極める」。
諦めきったところから、物事が明らかになり、それを究めきったところに真実がある。そこに本当の意味での静かな強さが生まれるという。

そのほか、生産力優先の考え方では、プラス/光の面だけが強調され、マイナス/影の面を切り捨てられてきたが、これが人間の心まで乾燥してしまった時代にしてしまった。
「<慈悲>の<悲>の心が求められる時代と言える」と言っているが、それから四半世紀経った現在でも、変わらないと思う。