さんたのいえ

さんたのいえ

子どもたちと、自分のこと。


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ほんと!



大事なのは、

僕ら大人は知らないうちに
ものすごーーーーくたくさんのことを
無意識で刷り込んでるんだよってこと。



そして、

僕ら大人自身も、子どもの頃
親や社会からものすごーーーーくたくさんのことを刷り込まれてきたこと。
  


これを知っておくこと。



知っとくだけで、
ひとまず全然違うと思うのですじゃ。



ちなみにうちの親はこんなことを刷り込んできてました。

●うちはお金がない
●親の言うことくらい聞け!
●お前はいっつも〇〇だ
●どんな仕事も大変なものだ
●夢は叶わん。もっと現実を見ろ



振り返ると、
なんかあんまり思い出せない。



昔はいっぱい浮かんできた気がするけど、
アホアホ生きとったら忘れてもうたかな。



ちなみに今はうちの親、
やっとこさ自分の生き方を
応援してくれるようになりました。

それまでにいろいろあったからねぇ…



親やパートナーの応援ほど力強いものはない。
ありがたや。





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春に芽吹き花が咲き、

夏に葉が生い茂り、すくすくと育ち、

秋に実り、葉を落とす。

冬に落ちた葉を生き物が消化して、土に栄養を与える。


この四季の流れと乱れ交わるように、




雨が降り、

鳥や虫が集まり、

風が吹き、

雪が降り霜が降り、

水と土が流れ蓄えられ、


たくさんのいのちが移りゆき糧となる。





同じところに"滞る"生き物は、なにもない。







水が滞れば、その水は腐り、

そこに住む生き物も死に絶える。


風が滞れば、

新たな命の芽が広がっていかないし、


同じように土地が死んでゆく(手入れのない鬱蒼とした藪。原発で人の入れなくなった土地。人の住まなくなった空き家など)


日の光がなければ、

植物は育つことができないし、


同じように影がなければ、

多くの植物は葉が焼けて絶える。



すべてはながれ、

絶え間なくうつろい続けている。





人の世に置き換えると、


同じ場(場所、考え方、生き方)に居続けるということは停滞を意味する。

建物の中(特にコンクリート)は、風と光を遮る。

空調によって、本来身体が持っている四季への対応力に狂いが生じる。





人も動物であり、


本来は四季のうつろいに対応してできている。




春に新たな可能性が芽吹き出し、

冬に蓄えていたエネルギーを爆発させる。

夏に汗をかき、心と身体に溜まったものを排出する。

秋に、春夏に蓄えたものが実りはじめ、同時に冬への蓄えもしはじめる。

冬は身体が縮こまり、休息を求めつついのちのエネルギーを蓄える。

豊かに生きるには、


同じところや同じことにとどまることなく、


変化し続けるのが、自然である。


そうすることで、


翌年にはより美しい花が咲き、

幹も土も、より太くしなやかに潤っていくんだ。







人は一人では生きていけない。

同じ場所では生きていけない。

ひとつの考えでは生きてけない。


ポジティブやネガティヴなどの感情、正義と悪、どちらに偏ってもバランスを崩す(これらは人間が定めた、ただ""とか""とかいうのと同じ次元の二元論にすぎない。自然界に二元論で済むようなものごとは本来ないはず)。


肉だけでも魚だけでもマクロビだけでも体調を壊す。


環境や生態系を考えずに生きれば、いつかかならず自然の反感をかう(土砂崩れも原発も海の汚染も)





すべては絶妙なバランスを保ちながらも対等であり、


すべては""を持って成り立ち、


すべてはうつろい、かわりつづけ、


そしてすべてはつながっている。





自然はすべて、


つつみかくさず"わたし"のままであり、


どんなときの"わたし"の姿も


すべて必要であるから、いまそうなっていて無駄がない。






豊かさの根源は、ここにある。





仕事や私生活、


保育もこれにあてはまる。


これだけで、たぶんすべてのことを語れる。



すべて、すべてが


自然から学べるはずである。




なぜなら




いちからひとが作り出したものなど自然界にはなにひとつなく、


すべてこの宇宙が作ったものだから。




僕にはまだこのくらいしか理解できないけど、


自然にはもっと大いなる叡智がたくさんあるはずだ。


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蓮の花のうつろいと美しさ。


花だけがうつくしいのではなく、
花をつつみこむすべてがあって、
蓮の花になる。

この過程が、うつくしい。

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他のエピソードもいくつか思い出したので、書いてみます。


⭐水筒がなくなった!

 

たしか年少さんだったと思います(年中さんかな?)

朝の集まりをしてるとき、「水筒がない」ということに気がつきました。

 

さて、ピッコロっこだちはどうしたでしょうか?

 

ひとり。またひとりと水筒を探しに、

集まっていた椅子の周りから動いていきます。

 

どんどん増えていく、水筒探し部隊。

最後には、3人くらいを残してほぼ全員で探しにいったのでした。

大人は、あんまり動いてないのですよ。

子どもたちだけで、自主的に。

 

最後の最後に、

「どうする?諦める?」

って感じで中島先生が言葉にすると、

「だめだよ!いのちのことなんだから!」

という感じで、子どもたち。すごいなぁ、飲まないと危険だということを分かってる。

 

そして、そんな会話をして大人は(というか見学の僕は)半ば諦めていたころ、

集まりの場所のすぐ近くで発見されたのでした。

 

 

 

___

 

 

 

⭐森へのゲートをあける、子どもたち。

 

僕たち視察者が来ることは、前日に

「明日お客さんがくるからね」

と伝えられていたらしい。

 

しかし、「こうこう、こういうふうにおもてなしするんだよ」

なんてことは、もちろん話されていなかった。

 

だけど、ピッコロの子たちは必ずなにか、

”お客さんのために”してくれるんだよね。

 

 

前回は、りんごを第一優先で配ってくれた。

椅子を出してくれた。

これ、全部自主的にです。もうもう、衝撃でした。。。

 

今回は、年度始め。

年度始めなのに、大人が何も言わなくても、

先生がリュックを持って朝の集まりの場に歩き出すと、

年少さんでもするすると集まってくる、この衝撃。

 

 

さて。

 

 

今回は、みんなの意志で森に行くことになりました。

 

前回行ったときは秋の終わり。

夏の入り口の今回は、まるで景色が違います。

 

そんな森の入り口には、ツタが道を塞いだような形になってたりするのですが、

image

 

このツタを、どけてくれるのです。

お客さん、全員が通り抜けるまで。

そんなに背も高くない年中の女の子だったかな。

背伸びして、ずっとずっと、耐えているんです。。。

 

帰りも、全員が出て行くのをしっかりと待ってくれてました。

前回の視察の時もそうでしたが、

どうしてこういうことを”したい”と思うのかなぁ。



___


⭐お弁当を食べずに、いただきますを待ってくれた。

 

ちょっと気になったことがあったので、

スタッフのお一人と真剣に会話をしていました。

 

していたのは、みんながお弁当の準備を完了するかしないかのタイミング。

なんか申し訳ないなぁと思いつつ、とっても気になることだったからか、

スタッフさんも真剣に答えて下さいました。

 

しかし、だいたい一段落したくらいに周りを見ると、

なんか空気が冷たいというかしっとりしている。

 

見回すと、中島先生と、「いただきます」の挨拶をしてくれる男の子
(昨日の記事に書いた、視野の広い年長さんの男の子)が、

じっとこちらを見ています。そして手を合わせてた、と思う。

 

あ、待ってくれてたんだ・・・

そしてこっちが大事な話をしてたのを、

介入せず、信じて見守ってくれてた、ような気がする。

 

どうして待てるんだろう・・・
どういう気持ちで見ててくれたんだろう・・・
ピッコロの子たちは、”こども”じゃなくて、
もうすでに一人の尊敬できる人なんだよね。


___

 

 

 

とまぁ、いろんなことがありました。

 

中島先生に、

「どうしてこんな風に育つんですかね?」

とか聞いてみたのですが、

「う〜ん、指示してないからかな・・・」

とのこと。

 

 

”指示してない”

 

 

このひと言の重み。

この、”指示してない”は、

ほんっとに、”してない”のです。

 

実践しようと試みて分かったのですが、

ほんのちょっとでも”指示”が残っていると、

もうまったく、残りの”指示しない”の意味がなくなってしまうというか、

ほんと、細かいとこまで至る所まで”指示しない”かつ

子どもたちの意見・想い・考え・気持ちを

とことん尊重してるのです。

 

言葉でかくほど簡単なことでは決してなくて。

 

これを実践するのって、

ほんっとに大人の肝が座ってないとできないし、

心の底から子どもたちを信じてないと、できないと思うのです。

 

 

たった1回のジャッジで信頼を崩し、本音を話さなくなってしまうこともある。

たった1回の指示で、自分で考えることを手放してしまったりする。

 

ほんと、そうなんだよね。

 

 

 

ピッコロの保育のすごいのは、

この徹底というか、大人の意識レベルというか、

う〜ん、

子どもへの信頼というか、
もう、とにかく細部まで職人だなぁと感じるです・・・

 

 

 

それと、もう一つ中島先生に聞いてみたこと。

 

「こんなに周りの子のことや状況を見てる子って、

 普通あんまりいないと思うし、今までみたことないんですけど、

 なんでなんでしょう?」

 

「それは、あなた自身が ”子どもの視野はその程度だ” って思ってるからじゃない?」

 

というニュアンスのお答えでありました。

がびーーーーーーーーーーーーーーん。。。

 

これが、昨日の記事に書いた、

子どもが大人のレベルに合わせてくれる

ってことです(笑)

 

 

 

いやはや、毎回衝撃ばかりのピッコロ視察であります・・・
あぁ、明日もがんばろっと(><)


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二度目のピッコロ視察に伺ってから、早くも二ヶ月が過ぎてしまった…
一度目とはまた違ったものを受け取った、二度目。
書こうとは思ってたけど、振り返ると言葉がスッと消えていくような感覚があり、なかなか書くことができなかったのです。

それでも「いつか書かねば」という感覚があり、書いていないことによる消化不良感もずっとあったので、時のある今、改めて振り返ってみようかと。

最後まで書き終えて思うのは、
こういう感覚は言語化すると必ずブレが生じるし、(僕自身の意図にも、受け取る側の解釈にも)、見た人(僕)の主観が大きく影響してるので、

純粋なピッコロの感覚が知りたい方は、自分自身でピッコロを訪ねてみてほしいです。

 

 

 

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ピッコロ周辺の風景

 

 

 

___

 



今感じていることをスッと表現すると、

“宇宙”

みたいな感覚がぽっと浮かんでくる。
理由はよくわかんないんだけど(なんじゃそりゃ)



ちょっと否定的に受け取られてしまうかもしれないが、

“大人は子どものことを分かっていないが、
 子どもたちは大人のことをよくわかっている“

っていう感覚なのだろうか。
二度目は、一言でいうとそんな感じ。



それにしても、ピッコロの子たちは変わらない。
この日も視察者が7人くらいはいただろうに。

「子どもたちって、いつもと違いますか?」
と聞いてみたら、
「う~~~ん、あんまり変わらないかな」
とのことだった。

見てる人に甘えたりすることもなければ
あそびに巻き込んでくることもない。
かといって壁を張ってるかといえばそうでもなく、
ちらっと僕を見て「さんた~(^皿^)」って声をかけてくれたりもする。

なんか、肝が座ってるなぁ。
強いな~、この子たちは。
そう感じるのでした。



お弁当を食べているときに、こういう疑問が自分に浮かんだ。

「なんで、この子たちは食べ歩きをしないんだろう」

というのも、自分の園の子たちは立ち歩いて食べてを繰り返すからかもしれない(笑)



この“食べ歩くこと”って、
世間的に考えたら「行儀が悪い」とかって思われるかもしれないが、
自分としては「なんで食べ歩くことがいけないのか」という結論があまり出ていない。

実際“ケータリング”なんて言葉があるように
大人はよく食べ歩きをするわけで。そして自分もよくやっている。

そもそも世の中の「良し」とされていない行動って、
なぜ??? ってところを既に見失っていることが多い気がして、
本当にいけない理由を誰が知っているんだろうか、
もはやよくわからないことが多いのではないだろうか。
と、自分では今感じている。
世の中の多くのことについて。

そして自分の中の核となる部分に、
“自分ができないことは、子どもに強要できない”
という感覚がある。



たとえば、よく保育園で“裸足保育“を推奨している園があるが、
自分たち大人が裸足にならないのに
なぜ子どもたちに「裸足になりなさい」と100%の確信を持って言えるのだろうかと。
率直に、そういうのはなんか変だ、と感じる。



では、

なぜ目の前にいるピッコロの子たちは
食べ歩きをしないのだろうか。



というわけで、中島先生に聞いてみた。
そしたら、

「ね~ね~、なんで○○ちゃん、食べ歩きしないの?」
と中島先生が子どもたちに質問をしてくださった。

そして返ってきた答え。

「お母さんが悲しむでしょ?」
「のどに詰まっちゃう」
「野菜もお米も、生きてるんだから」
「そんなことしたら、野菜が逃げちゃうよ」
「お腹が悲しいって言う」

と、すごーーーーく真剣な表情で、
中島先生の前に仁王立ちしながら語ったりするのだ。
かつ、「どう?すごいでしょ?」とか、褒められたいっていう素振りも見せず。



中島先生に聞いてみた。

「こういうのって、教えたりしてるんですか?」
「教えてないです」

とのこと。
(もしかしたら、家で教わってるって可能性はあるのかもしれないけれど)



それにしても、この答え。
彼ら彼女らは確実に“食べ物にもいのちがある”ということを感じている。

と考えると、
果たして大人がよく言う
「残したらもったいないでしょ」
「食べて歩いたらダメ」
「作った人の気持ちを考えなさい」
とかって、いったいどうなんだろう?

“教える”ということに、何の意味があるんだろう。

子どもたちはどこでどう、
“自分のこたえ”を見つけていくんだろう。

 

 

 

{4FF1AD38-0FDC-48CA-B21C-E365CBCAF4F0}
ピッコロの森への入り口!

 

 

 

___



ピッコロの保育が始まる瞬間。

あさの大人ミーティングが終わり、庭に出ていく大人。
ここでまた、ビックリなことが。

「おはようございます」
と僕の目をみて言ってくれたのは、年長の男の子。

彼は、ずっと僕ら視察者、そしてスタッフさんが建物から出てくる空気感を感じ取りつつ
遊んでいるような気がした。



これも僕の主観だけど、

年少さんたちに比べて年長さんたちは
その場の空気感をよく感じ取っている。
(年少さんですら感じ取っているけれど、より濃く)

この男の子は、大人の誰よりもはるかに広い視野(というか心の目?)で

『今どこで何が起こっていて、誰が何をしているのか、
全体的にどういう方向に展開しているのか』

とかってことをすごく俯瞰して感じ取っているんだなってことが、
「おはようございます」のタイミングと前後の彼の動きでなんとなく伝わってくるのです。



子どもたちがすごいなって思うのが、

さも遊んでいるかのようにみえて、それぞれがそれぞれの“意識”や“意志”、“心の感じ”とかを少しずつやんわりと、かつ過干渉にならない程度の距離を保って、しかもたぶん『無意識』でそういうことをやっているんだよね。



というのも、この日の朝こういうことがありました。



入園したてのある女の子が、帰っていくお母さんを見つめながらずっと手を振っている。
表情を見ると、今にも泣き出しそう。
それでも、離れていくお母さんをじっと見つめはするものの、決して追いかけたりはしない。行きたい。でも、行かない。我慢している。涙をこらえている。

で、

その女の子の心の感じを、数名の子は感じ取っていて(年齢問わず)、こういう動きをしてたのです。

・さりげなく近寄って表情からなにかを感じとろうとしている
・いこうか(心を支えに)いくまいか(その子の立ち直る力を信じて)考えている
・なにかあったらすぐ駆けつけられる距離にいる
・遠すぎず近すぎずの距離にいて、関わりはしないけど心で何かを伝えたり、なんか糸みたいので繋がってるような不思議な感覚



これって大人もよくあることで、介入するか信じて見守るか、見てる自分の心と相手の心が一緒にゆらいでるような状態になる。

そんなときって「“信じる”ってなんだろう。ここで行ったらどうなる?でも無視するのは違う気がするよね。じゃあどこに立とう?心配してるの気づかれたら相手に悪いし。」
とかいろんな言葉が心で浮かんだりする。

ということを、3歳くらいからやっているのか!(きっとそれ以上のことを・・・)
ということで、衝撃を受けたのです。
その子たちをみながら、

「よく見てますね・・・」
「ほら、近づいていった」
「なんとなく意識してるよね」
「あ、今離れてった。もう大丈夫って思ったんだね」

とか、視察者や中島先生で一緒に話していました。
当人の女の子、見守る子どもたちと共に、大人も心をゆらしながら。



___

 



そんなこんなで中島先生と会話していて、
過去にこんな会話を子どもたちとしたことがあったそうな。

「ね~○○くんさ、先生ってどのくらい○○くんのこと分かってる?」
「ぜんぜん分かってないね。お母さんの方がまだ分かってる」

とのこと。



これ、ピッコロを見た人なら分かると思うのですが、
中島先生で“分かってない”としたら・・・!?

世の中だいぶやばいと思います(笑)
そして、僕っていったいなんだったんだろうと(^^;)



ピッコロの保育で大事にされていることの1つに、
“子ども理解”
というのがある。

子どもたちの動きや言葉から、僕ら大人はその子の気持ちや考えを理解しようとする。
でもそれって推測でしかないから、実際に質問を投げかける。大人からのジャッジや要求を含めず、すごくフラットな気持ちで、投げかける。よりその子のことを理解するために。

「どうしてそうしたの?」

と。
そこで返ってくる子どもたちの言葉や感覚は、
多くの場合、僕ら大人の最初の想像とは違ったりする。

というようなことを、中島先生はよく話してます。
だからピッコロの保育は、
子どもたちのことをもっと理解するために、たくさん質問されています。

そんな中島先生に対して、
「あなたの“子ども理解”は、まだまだ的を射ていませんよ」
というような回答をする子どもたちって、
「えー!?」
って感じなのです、ほんとに(^^;)



この話を聞いて、

自分の子ども理解ってどんだけ浅いんだ!
自分の予測ってどんだけ身勝手なんだ!
どれだけ、子どもたちのことを勝手に決めつけてたんだー!!
と、ズキューンと来たわけです。



そして中島先生との会話の中で、こんな感じの話が出ました。

子どもたちは大人をよく見ていて、
この人にならどのくらいのことを話せるかを判断している。
大人が“いまどこにいるか”に合わせて、動きや話すことを変えている。



つまり

僕が「この子たちはこれくらいしかできない」って思えば、
子どもたちはほんとにそれくらいしか“しない”ってことになるということ!



前にこんな会話もあったらしい。

その子と中島先生は、過去世ですごく深い関係だったそうで、
「え??先生、覚えてないの??」
って自然に言ったことがあるそう。

他にも、ある子は朝すごく真剣な表情で
「たいへん!お母さん、心が見えないんだって!!」
と報告してきたそうな。



考えてみれば「そんなのあるわけないやん」と思う人にそういう話をするだろうか。

大人に置き換えて考えてみても、
「この人になら言えること」があると同時に、
「この人には言いたくないこと」っていっぱいある。

で、その理由は
「その人に話しても分かってもらえないから」
だったり、しませんか?



と、いうことは。



この人にならどのくらいのことを話せるかを判断している。
大人のレベルに合わせて、話すことを変えている。

ということって、すごく自然なことなわけです。
だから、

中島先生に対して「分かってないね」と言うということは、
それを言っても否定しない先生をわかっているから。信じているから。



それらを踏まえて考えると、

子どもたちに教えていないにもかかわらず表現された言葉。

「お母さんが悲しむでしょ?」
「のどに詰まっちゃう」
「野菜もお米も、生きてるんだから」
「そんなことしたら、野菜が逃げちゃうよ」
「お腹が悲しいって言う」

っていうのは、
受け取ってくれる大人がピッコロにはたくさんいるから発した言葉だってこと。



と、いうことは!!



よく言われる子どもたちの問題行動みたいのって、
大人のレベルが、いま、そこにあるから!?
大人に合わせて、そうしてるのか????
 

 


___



先日、りんごの木の柴田愛子さんもおっしゃっていたが、
「子どもたちは、常にどんな親でも受け入れている。決して親を変えようとはしない。」
と話していた。

子どもが大人を受け入れ、大人に合わせてくれている
とするなら。



極端な話、

大人が「社会は甘くない」と常々言っている → 子どもは大変な社会を創りだす?
大人が「政治家はあてにならない」と信じている → そういう政治家が増える?

そして

大人が豊かで幸せに生きている → 子どもは、世界は幸せだと認識する?
大人が“自分”を大切にしている → 自己肯定感の高い子に育つ?
大人が自然を大切にしている → 自然が好きな子になる?



とかって、そういうことになるのだろうか。
あれ、すごく当たり前のことかも?



つまり、保育って、子育てって結局のところ、
そばにいる大人のあり方次第ってこと

ですよね。



ピッコロの中島先生が話している動画がありまして
↓↓↓↓↓↓↓↓↓

森のようちえんピッコロ 「”いい大人になりたい!”気持ちを後押しする、環境を通した心の保育」

 

 


これによると、

中島先生は子どもを信じることについて
「経験から信じている部分と、なんとなく確信している部分がある」
というようなことを話されています。

自身の保育の経験から、これはできるようになるだろうと信じている部分。
それから、よくわからないけど“大丈夫”っていう根拠のない確信みたいな感覚。



これ、すっごい大事だと思うのです。



りんごの木に見学に行ったときに、
「子どもがハサミを持ち歩いてましたけど、それについてどう思われますか?」
って質問してみました。

すると、
「大人の「(大丈夫かな・・・)」「(危ない!)」というピリピリした空気感が子どもに伝わって、そうなる」という感じの答えでした。



“信じる”のか、“疑う”のか。



先の話から、子どもが大人に合わせてくれてるとしたら、

疑えば、疑ったような結果を返してくれる。
信じれば、信じたような結果を返してくれる。

ってことになる。



僕の大好きな本田こーちゃんも言ってましたが、
「この会社すげー!って見れば、実際そういう会社になるし、
 この会社しょぼいって見れば、そういう会社になる」
とのこと。



会社でも社会でも子どもたちでも、
全てにこの法則みたいのが当てはまるってことで、



「子どもたちは、生まれたばかりだからまだ正しいことといけないことを知らないし、
 一つ一つ、習慣から教えていかなければならない」

という感覚で保育するのか、

「子どもたちは、生まれた瞬間から多くのことを知っており、
 大人よりはるかに、この世界のことをわかっている」

という感覚で保育するのか。



決めつけや上から目線で子どもを見るのか、
尊敬や敬意を込めて、ひとりの人としてこどもを見るのか。



大人がどういう感覚で子どもと過ごすのかで、
その子たちがどうなっていくのかが変わっていく。



だから、

ピッコロの子どもたちが素敵なのは
ピッコロの保育者や親御さんが素敵だから。
それを支える大人たちが素敵だから。

素敵ってのが適切じゃないとしたら、

“子どもたちを信じている”という感覚が
すごく深い
っていう感じでしょうか。



心理学で

Do Have Beっていう“承認”について昔教わったけど、

(『doing having being』でググるといっぱい出てきます)

 


目の前に起きていることじゃなく、持っているものや身につけているものでもなく、
もっと深いところ(存在そのもの)を信じる。

できるできないとか、そういうことじゃなくて、
そもそも発達や習慣うんぬんでもなくて、

ここにこの子達が生きているということを、ただ信じている。
そして、大人自身が自分にまっすぐに、
自分の人生を生きている。



結局のところ、保育っていつもここに行き着く。



なにをするか、なにを教えるのか
も、もちろん大事だろうけど、

大人がどう“ある”のか
ってことで、子どもの姿が変わってくる。



保育って、子どもたちを知っていくようで
実は自分自身を知っていく旅、みたいな感覚。

修行みたいなことではなくて、

いま、自分は何を感じているのか
いま、自分は目の前の子とふれあって、どう感じているのか
いま、自分の心はどこにいきたがっているのか
いま、自分はなにをみているのか
いま、自分はどこにいるのか
そもそも、いまってなに?
わたしはだれ?
どう生きたい?

とか、1つ1つのことを
身体と心で感じ、味わっていくような感覚。
塞いでた心を解き放っていく過程のような。






まとまりないけれど、
今回のピッコロ見学では、

・子どもは大人のレベルに合わせてくれている
・子どもを分かった気でいたとしたら、大間違いかもしれないよ。
・目に見えぬ、人や自然物とのつながっている感覚
・信じたとおりに、子どもたちは変化していく。

みたいな、なんか不思議な感覚を受け取ったのでした。
と、いうわけで

“宇宙”

なのでした。



不思議だよなぁ。
大地を踏みしめると、宇宙を感じるなんて。

ピッコロに行くと、
この世界の素晴らしさと可能性を感じられるのが不思議。
ピッコロに来ているのに、地球の素晴らしさを見てるような感覚になる。



最後に改めて・・・

ここに書いた内容は、ほとんど僕の主観で感じたことなどを書いたので、
ピッコロの本当のことが知りたい方は、ぜひピッコロを訪ねてみてください。

この文を読んで決めるのは、とってももったいないです。
実際は・・・見て感じてください。

 

 

 

 
 

 

 
 
 
 

 

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近くにあった滝。素敵!

 

 

 

 

 

 

 

 


テーマ:

大人ってさ、みんなではないかもしれんけどさ、



ついつい子どもに対して

手を出したり口出したりしちゃうよね。

自分が知ってる中での"こたえ"を伝えて、

「目の前に落とし穴があるよー」みたいなことを先に伝えてしまう。




でもさー

人生の楽しさってさ

落とし穴に落ちることじゃまいか?





自分の人生振り返って

あれってよかったよなーって思える想い出って

大抵"やっちまった"時とか

めっちゃ失敗した経験とか

辛かったこととかやと思うんやけど。





ぶっちゃけ、

手と口出した方が楽やからね。

あえて答え(と思ってること)を伝えんどこうとすると

すんごいモヤモヤするわけですよ。




人の話聞いてる時に、

「(あーーこれ!いまこの話してあげたい!これ教えたい!)」

って、よくあるよね。





そこでぐっとこらえて言わんのって、

出そうな屁を我慢するような感じ!





ほいで、




言わないとね、

子どもたちって

「そんなんあり!?」って答えをみつけたりするんよね。自分らで。

その方がさ、

学びになるよね。

いい経験にやるよね。





さらにね。

大人が「(ここではこれを教えたら、この子は落とし穴落ちんで済むかな…)」

とか心の言葉が浮かぶ時ってあるやないですか。




そういうときって、

結構迷ったりするんですよね。

うーん、こう言うた方がいいかなとか、

どう伝えようかなとか。






そういうときってさ、

"答えない"って、

ありじゃない??




とかさ

「おとーちゃんには分からんわ」

「ごめん、やったことないし知らんわ」

とか真っ直ぐ言うのって

なんか人としておもろくて自然やよね。





大人やからって

見栄はらんでいいよね。

大人だって失敗いっぱいするし

むしろ失敗たくさんしてる人のが尊敬できたりするしさ。

だめな自分を受け入れられるのが自己肯定感なら、

だめな大人をさ

子どもたちに真っ直ぐ見せればいいんよね、きっと。     





もうさ、

子どもに"答え"るの、やめよ。

大人やってさ、

人から答えいわれたらつまらんのやし。





子どもの答えは、その子にしかないよね。

それが、その子の人生の答えなんやから。





大人も同じ。

人の答えは、人の答え。

自分にとっての答えってさ、

自分の中にしかないんやから。





そしたら

大人も子どもも楽なんやないかなー




{16CC8BDB-8EF1-497A-82B9-44565DE61106}

スターウォーズのカイロ・レンをイメージしてみた!

いやー我ながら力作でした。

帰って相方に見せてあげようと思ったけど、

さすがにこのライトセイバーを持って田園都市線に乗るのをためらってしまった(笑)

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