菩薩

 

 

 さて、仏と自称する者よりもはるかに多いのが菩薩と自称する者たちである。例えば日蓮宗関連の者たちは、『我々は地湧の菩薩である』と語る。また、イスラム教徒は自分たちのことを『ムスリム』と呼ぶが、これも菩薩と言う意味である。

 

 では、仏典に於ける菩薩の定義はどのようになっているのか。実は仏典に於いても菩薩の言葉はあいまいな使い方がされており、経典によっては『人々を我が子のように思う』と言う表現が使われていたりもする。このため『他の人に慈愛を以て接するのが菩薩』と語る者たちも多くいるのも事実である。

 

 では、『菩薩の定義』とはどういうものなのか。『釈迦如来は言葉を語られる時に、その言葉の定義も語られる。』と涅槃経に記されている。つまり、菩薩の定義も何かの経典に載っているはずなのだ。実は、この菩薩の定義が記されているのは涅槃経である。涅槃経には『無間地獄に至る者が菩薩である』と菩薩の定義が載っているのだが、この言葉が翻訳者である鳩摩羅什には理解できなかったようである。鳩摩羅什は『無間地獄の民を救いたい』という希望を持つ者と菩薩を解釈したようである。ここから、『すべてに対して慈愛を持つ』のが菩薩と言う解釈が生まれたと考えられる。

 

 さて、鳩摩羅什が翻訳した涅槃経では、菩薩をこのように説明している。『無間地獄に堕ちる者を知り、そこの住人を全て救い上げたいという所願を持ち、自ら無間地獄に至る者が菩薩である』と。この文言によれば、『すべての民を救いあげたいという所願』が菩薩の要件となる。確かに、この話ならば、大勢の者たちが納得するであろう。しかし、わたしは『自ら無間地獄に至る者』が菩薩の要件であると語る。これは釈迦如来も同じである。

 

 わたしはわからないことは直接釈迦如来に尋ねる。皆さま方は『そんなことできるはずはない』と思われるであろう。ただ、法華経には『仏の言説は長久の時を経ても正確に伝わる』と記されている。皆さま方が信じようが信じなかろうが、一応『文証』は存在するのだ。

 

その釈迦如来の説明によれば

 

『なぜ無間地獄などと言うものを設定したのか。

 これは、涅槃に至る為である。

 

 涅槃とは何か。

 涅槃とは、自我からの離脱である。

 

 自我とは何か。

 自我とは現世利益を求める心と、

 来世利益を求める心の二つの複合体である。

 

 涅槃のために何が必要なのか。

 現世利益を求める心は死により強制的に引きはがされる。

 また、心の巡る範囲を達観しても離脱できる。

 

 来世利益を求める心から離脱するためには、

 未来の希望を完全に失う必要がある。

 これが無間地獄であり、人は無間地獄により涅槃可能となる。』

 

このようにわたしは聞いていると語っておこう。

 

 釈迦如来は阿弥陀仏の説法と言う形で、無間地獄を出現させている。『死後、悪人は無間地獄に堕ちる。しかし、阿弥陀仏の称号と唱える者には、無間地獄ではなく極楽に導かれる』と言う説法なのだが、『無間地獄に至る者を見捨てる者は、その罪により無間地獄に堕とされる』ともされているのだ。言ってみれば、無間地獄は必須であり、これはヨハネの黙示録と同じと言える。この説法の要は、『無間地獄は必須』と言うところにあり、大勢の者たちがこれに耐えられないので、耐えられない者たちへの救いとして、阿弥陀仏と言う存在を導き出したと記されている。

 

 言ってみれば、阿弥陀仏と言う仏は仮仏なのだ。そして、釈迦如来の真の目的は、人々を菩薩とするというところにあり、人々を菩薩とするために必要なのが、永遠の裁きの地獄ということになる。

 

 釈迦如来は涅槃を大河に例えられている。此岸は『無』より生じた有の世界、つまり、現実社会である。そして彼岸は根本が『空』となる世界である。此岸にあるのは、六道と、声聞・縁覚の二乗であり、彼岸にあるのは菩薩・仏と言う事になる。つまり、菩薩となるとは、彼岸に渡る事と同義と言える。

 

 ここで、少しおかしなことがある。十界は霊界を現世に写したものであり、霊界の地は、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩の九層より成り立っている。そして、霊界の太陽が仏界を示すということになっている。

 普通に考えれば、この霊界の地と、霊界の太陽との間に涅槃の大河がある。つまり菩薩界は根本が『空』、残りの八界は根本が『無』。このような明確な違いがあるのに、なぜ、菩薩界が霊界の地に属するのかという疑問である。

 

 これは霊界の太陽と言う位置が『すべてを俯瞰する』と言う位置であるからである。つまり、仏界に至ればすべてを俯瞰できるのだが、菩薩界では実際に何も見えない。これゆえ、菩薩界は霊界の地に分類されている。これは実際に菩薩となると誰でも分かる。

 

 

 

ここからは、わたし自身の実際の経験をお話しよう。

 

 人は自分が心に思っている事と、口に出す言葉が違う。実際に菩薩となると、この両方が聞こえるのだ。人は本音では『自分が正しい』と思っている。また、『自分の欲望を何とかして叶えたい』とも思っている。しかし、口に出す言葉では別の事を語る。言ってみれば、人は本音を隠して建て前で行動しており、その行動が現実社会を創っていると言える。

 

 菩薩は生まれたばかりの赤ん坊と同じで、何が善なのか何が悪なのかが分からなくなる。このため、ある人が『自分は正しい』と思っているならば、菩薩も『その人は正しい』とするのだ。

 人は心に思う事と口に出す言葉が違う。菩薩にはなぜ、違うのかが分からない。これは物事の善悪や正邪の基準が原罪の自我にあるからである。このため、菩薩となると、その自我がなくなる為に、物事の善悪や正邪の基準が無くなってしまうのだ。このため、菩薩はその人が心に思う事を『それが正しいことである』と判断する。このため、菩薩は自分自身の行動を、その相手の人が心に思う事に沿わせる。ここからが大変である。

 今ならわかるのだが、人は本音を隠していることを『善』『正』としているのだ。菩薩はその人の本音のままに行動する。すると、人々は、皆、菩薩を極悪の塊のように忌み嫌い非難するのだ。

 わたしには、全く意味が分からなかった。その人は『自分は正しい』と考え、そして、本音ではそのように考えている。わたしはその人の本音通りに行動しているのだから、その人にとってわたしは『正しい』となるはずなのに、なぜか極悪となる。これはなぜなのか、全く意味が分からなかったのだ。百人が百人とも同じであった。その人にとって『正しい』はずなのに、わたしは極悪人として扱われるのだ。わたしが極悪ならば、どうして同じ思考をしているその人が善なのか。

 

 

 これが、実際に菩薩となった状態である。人には本音があり、その本音に六種があり、これが六道なのだ。菩薩には六道は六道としてみえる。見えるのだが、何が正しいのかわからないという状態となる。このため、人々の本音を区分し、その本音の善悪を見定められるようにならないと、この世に適応できなくなるのだ。

 

 釈迦如来の妙法蓮華経に、観音経と呼ばれる経典がある。観音とは、『世の音(本音)を観る』という意味であり、これは実際に菩薩になった者と言う意味となる。菩薩界に至れば、実際にはこのようになるのだが、それでも九界の最高位である。他の者たちの本音の思惑が通用しないのだ。菩薩は、その人の心の真の姿をその人に見せる。つまり、地獄界の衆生には地獄界の姿となり、餓鬼界の衆生には餓鬼界の姿となり、畜生界の衆生には畜生界の姿となり現れるのだ。このため、地獄界の衆生が菩薩と会うと、地獄界に引き込まれ、地獄の報いを受ける。餓鬼界の衆生が菩薩と会うと、餓鬼界に引き込まれ、餓鬼界の報いを受ける。畜生界の衆生が菩薩と会うと、畜生界に引き込まれ、畜生界の報いを受ける。その時、彼らはこのように語る『私は正しい。悪いのは全部菩薩である』と。

 人は菩薩と会うことにより自分の本音通りの報いを受ける。では、菩薩はどうかと言えば、その人がいくら悪と判断したとしても悪とはならない。これが観音経に語られる、『くびきを受けない』と言うことであり、『誰も害せない』という事なのだ。では、なぜ、菩薩はその人の前に現れたのか。その人自身に、その人自身の真の姿を教えるために現れたと言えるのだ。これが観音経の意味である。

 

 また、人は『愛』を大切なものとして語る。わたしも、菩薩となる前、自分の全てをかけても良いと思えるほど、ある女性を『愛』した記憶がある。ところが、実際に菩薩となると、そのような『愛』は感じられなくなったのだ。確かに『愛』と言う言葉は使う。しかし、わたしはその人の愛と言う感情にわたし自身が感応しているだけであり、わたし自身には、以前感じていた強烈な『愛』という感情は湧き上がらないのだ。これにはわたし自身、『何かおかしい』と感じていた。これは、世の中が『愛こそが大切』と語り、わたしが接するほぼすべての人も『愛こそが大切』と本音で思っており、わたし自身も以前はそのように思っていた記憶があるからである。わたしはいろいろと試してみた。子供が出来れば『愛』が湧き上がるのではないかと思ったのだが、我が子をみても『愛』と言う感情はわかなかったのだ。結局、自分の子も他人の子も同じであった。これも、今ならば理由はわかる。『愛』そのものが自己愛の変形だからである。自己愛を他人に投影したものが『愛』なのだ。菩薩には、この自己愛そのものがない。無いものをいくら求めても、結局、無駄なのだ。

 

 人びとは、個人的な『愛』『自己愛』を重要視する。しかし、わたしは、個人的な『愛』や『自己愛』よりも、『人類愛』の方が大切なのではないかと思う。

 

 例えば、今、日本の知識人として高橋洋一という人がいる。彼の分析はわたしも結構好きで、『なるほど』と思うことも多々ある。彼は、『このようにしたいのならば、こうすれば良い』とか、『このようにしていれば、このような結果となる』と分析はするのだが、彼の話からは、彼自身がどのような未来を創ろうとしているのかが全く見えてこない。これは何を意味するのか。彼は自分自身が優れているということ、すなわち、彼自身の自己愛により物事を語っているのだ。もし、彼が人類愛と言うものを持っていたならば、『人類はこのような方向に向かうべきである』が中心となるはずであり、それがすべての分析の根本となるはずなのだ。彼の姿は、コンピューターが解析可能な範囲を出ない。それでも昨今の『分析などくそくらえ』という為政者や行政官よりもましなのだが、将来的に彼の範囲はコンピューターでも代替え可能となる。これが、『自己愛は六道を巡る』と言うことである。この範囲で物事を追い求める限り、人類は戦争や貧困問題すらも克服できないのだ。

 

 また、死に関しても変化した。わたしも、それまでは死が恐ろしかった。死ぬのが怖かったのだ。しかし、菩薩となってからは『死ぬときに苦しむのは嫌だな』とは思うのだが、『死』そのものには恐怖を感じなくなったのだ。これも、死そのものが原罪の自我からの離脱を意味し、菩薩は、この原罪の自我からすでに離脱した状態だからであろう。