現実社会

 

 

 同じような話となるが、現実世界を理解するために必要なので再び語っておこう。死後の世界には、霊界の地があり霊界の太陽がある。そして、生の世界として現実社会と言うものがある。つまり、現実社会・霊界の地・霊界の太陽の三種類の世界が存在するのだ。これらのなかで、一番、人類が安定する世界は霊界の地、すなわち、死後の世界である。霊界の地に於いては、菩薩界の住人は菩薩界に集まり、縁覚界の住人は縁覚界に集まり、声聞界の住人は声聞界に集まり、天界の住人は天界に集まり、人界の住人は人界に集まり、修羅界の住人は修羅界に集まり、畜生界の住人は畜生界に集まり、餓鬼界の住人は餓鬼界に集まり、地獄界の住人は地獄界に集まる。これは、各人が自分にふさわしいと思える場所を自分自身で選ぶから、このように区分されるのだ。つまり、自分自身で自分にふさわしいと思える場所を選択するのであり、そこがたとえ地獄界と名付けられていても、その中の住人自身にとっては天国なのだ。はっきりいえば、霊界の地に於いては誰も裁かれることも裁きの地獄に堕とされることもない。

 

 さて、火と硫黄の燃える地獄とか無間地獄と呼ばれるものは存在しないのかと言う話となるのだが、これも実際に存在する。これを説明するために、霊界の地に於いて下位の者が上位世界に入るとどうなるのかをお教えしておこう。例えば、地獄界がふさわしい者が、菩薩界や縁覚界に入るとどうなるのかと言う話である。その者は光に焼かれるという感覚となるのだ。焼かれるから『ここは駄目だ』と、下位の世界へと逃げていくことになる。そして、最終的に自分が落ち着く世界が地獄界と呼ばれる世界になるので、この者は地獄界の住人と言うことになる。このように、その人にとって最適な場所が必ずあり、それよりも上の世界は、その人にとって炎の地獄のようになる。その人にとって、自分よりも下位の場所は、暗く汚い世界であり、『ここには居たくない』となる。実際に死者は様々な世界を移動し、最終的に自分にふさわしい世界を見つけ、そこに定住するようになるのだ。このように霊界の地の範囲であれば、どこにでも移動できるので、裁きの地獄などというものは存在しない。

 実は、霊界の地から霊界の太陽への移動は可能である。これは現世に於いて死んだ者が霊界の地に至るように、霊界の地から霊界の太陽へも一方通行でつながっているのだ。この『一方通行』と言うところに問題がある。霊界の地に於いて自分よりも上位の場所に入ると光に焼かれるというような感覚となる。霊界の太陽はこの『光』そのものなのだ。一方通行だから、戻りたくても戻れない。永遠に光に焼かれ続ける事となる。この霊界の太陽が火と硫黄の燃える地獄となるのだ。これは、霊界の太陽にふさわしくない者が、霊界の太陽に入った場合このようになるのであって、霊界の太陽にふさわしい者であれば、二度と下の世界、つまり霊界の地に堕ちる事がない永遠の天国ということになる。つまり、永遠の天国も永遠の裁きの地獄も同じものであり、そこが天国となるのか裁きの地獄となるのかはその人次第と言う事なのだ。

 

 さて、現実世界はどのような位置づけとなるのかと言えば、霊界の太陽から一方通行でつながっている世界と言う位置となる。よく、よみがえりとか前世の記憶があるとかいう人々がいる。ただ、このほとんどの場合は、霊界の地にいる住人が現世の人に感応する事により、その記憶がその人に写されたと考えられる。つまり、『霊言』と同質のものであり、その記憶を与えるものも移り変わってしまう。なぜ、このようになるのか。現実世界から霊界の地に移動する時に、その記憶の純化が起きる。また、霊界の地から霊界の太陽に移動する時にも記憶の純化が起きる。この純化とは消去ではなく整理という意味であり、人が過去のことを思い出す状態と同じである。

 ただ、この両者には違いがある。現実世界から霊界の地へは『無』を基準とした記憶の純化であり、霊界の地から霊界の太陽への異動では、『空』を基準とした記憶の純化が起きるのだ。これに対して、霊界の太陽から現実社会への異動では、表面的には記憶が消去されたようではあっても、実際には前世の記憶の消去も純化も行われない。つまり、もし前世の記憶があるならば、それは『空』を基準として純化された記憶と言う事となる。

 ところが、『よみがえり』とか『前世の記憶』と言われるものは、無から生み出された『有』がほとんどである。この『有』は、霊界の地から霊界の太陽に移動するときに『不要なもの』となり自己消去してしまうのだ。

 つまり、前世の記憶と言う場合、その前世のほとんどが原罪の産物、つまり、無から生じた有でしかない。この原罪の自我は霊界の太陽をくぐる時、基本的には消去されてしまう。この消去の記憶が裁きの地獄の恐怖として残るのだが、その裁きの地獄の前の記憶が残っているとすれば、それが実際の前世の記憶と言う事になるのだが、かなり難しいであろう。

 これに対して、霊界の地でも霊界の太陽でも、同じ位置に立てば現世の住人も、霊界の地でも霊界の太陽の住人と意思を通わせることができる。これが感応妙の原理と呼ばれるもので、これが霊言と呼ばれるものである。この霊言にも種類がある。人間側から、霊界の住人の位置に至ることにより聞く霊言と、霊側から人間の側に降りてきて語る霊言の二種類が基本的に存在する。なぜ、『降りて来る』と語るのかと言えば、霊界の地の住人は自身の位置を変更できない。つまり、人間側により沿うことができるのは霊界の太陽の住人と言うこととなる。言葉をかえて言えば、仏界の住人は十界全てを知るゆえに、他の九界の民に語りかけることも可能と言う意味である。

 現世の人間も、自分の境地を変更することが可能であり、自分の境地を変更することにより霊界の地の住人や霊界の太陽の住人とも会話することができる。これが口寄せとか霊言と呼ばれるものである。

 現世の人間は、基本的に『霊言』を聞く能力を持つ。霊界のどの住人の霊言を聞くのかは現世の人間次第であり、自分の境地が変化してしまうとその霊言は聞こえなくなってしまう。これを前世の記憶と考えたりすると、その人の前世は何百人、何千人と言う話にもなる。このように、前世の人の記憶を持つという事は、その前世の人と現世の人の境地が等しいという意味でしかない。また、生まれながらの特殊能力も、この霊言と同じ意味である。このため、その能力が突然無くなったり、突然生まれるということもあり得る。

 

 さて、現世では、基本境地が地獄界の住人も、餓鬼界の住人も、畜生界の住人も、修羅界の住人も、人界の住人も、天界の住人も、声聞界の住人も、縁覚界の住人も、菩薩界の住人も、仏界の住人も、同じように赤ん坊として産れ、そして、老いて、死ぬ。元々がどの境地にあったのかは、全く関係なく、これは一様である。

 霊界の地は安定した世界である。争いの好きなものたちは自分たちの間で争い殺しあう。争いを嫌がる者たちまで巻き込むようなことはない。また、その争いで死んだとしても、すぐに復活するので、また、すぐに争うことができる。まさに、争いが好きな者たちにとっての天国である。

 争いを嫌う者たちは、嫌う者同士で世界を創る。そこに、争いを持ち込むような者はいない。このように、各階層に分かれ、その、それぞれが安定した世界となっている。 

 ところが現世はどうか。争いを好む連中の争いに、争いを好まない者たちも巻き込まれる。静かに暮らしている者たちの許に、大声を出す騒がしい連中が訪れ、その環境も社会も破壊していく。霊界の地であれば、大声を出す騒がしい連中は、自分たちの世界から出る事はない。その場所はゴミ捨て場のようであっても、彼らにとって、そここそが天国なのだ。それなのに、なぜ、現世では、静かな者たちの許に騒がしい連中が押しかけ、そこを捨て場のようにするのか。

このように、多くの者たちを混ぜれば、混沌とした世界となるのが当たり前なのに、どうして、現世と言うすべてが混ざるような世界が存在するのか。

 

 これは、人間には、人間の種としての目的があり、その目的のために必要なのが現世と言う世界だからである。言い換えれば、人間のために地球も宇宙も存在する。もし、人がいなくなれば、地球も宇宙もその存在意義を失う。ここで言う『人』とは、今の人類だけを示すのではない。この大元の『種としての目的』を持つものは、全て『人』として数え上げられる。この種としての目的とは『霊界の太陽の住人となること』である。仏教用語でいえば『仏となること』であり、わたしの言葉で言えば『すべての創造主となること』である。

 もし、今の人類がこの人の『種としての目的』を果たせないならば、早々に滅ぼして、次の人類を創造すべきである。その時、今の人びとがなるのが『豚』である。次の人類のための食料となり、生まれてはすぐに肉にされ、死ぬとすぐに次の豚となって、その短い命を繰り返す。なぜか、わたしが聖なる真珠(入口)を与えたのに、それを嫌がり、自分たちの勝手な理屈で噛みつき反省すらしなかったからである。

 

愚か者どもよ!!!

  誰が聖霊に逆らい、聖霊を否定してよいと教えたのか!!!

  火と硫黄の燃える地獄に入るしかないのならば、

  入るしかないであろうが!!!

  ・・・・それを何だ!!!・・・・

  イエスを信仰すれば免れる???だと

  ・・・・寝言は寝て言え!!!

 

大馬鹿者どもよ!!!

  誰がお前たちをムスリムに任じたのか!!!       

  せっかく、コーランを与えたというのに、

  どうしてお前たちはコーランに逆らい、

  アッラーの神権を犯すのだ!!!

  ・・・・そこまでして、お前たちは豚になりたいのか!!!・・・・

  よろしい。望み通り、お前たちを豚にしてやろう。

 

  わたしはヨハネの黙示録で、ムスリムへの道を開いた。

  簡単な話だ。火と硫黄の燃える地獄に飛び込めば良いだけである。

  しかし、お前たちは『ムスリムへの道を閉じよ』と教えている。

  それだけなら、まだしも、

  平然とコーランに逆らい、アッラーの神権をも犯す。

 

 

豚に真珠

 

 聖書には『真珠(入口)を豚に投げ与えるな。豚は怒って噛みついてくるからである』と記されている。この『豚』とは何か。真珠を与えられて、そんなことはあり得ないと怒り、噛みついてくる者たちのことである。

 真珠とは人の入り口を示し、この入り口はヨハネの黙示録の火と硫黄の燃える地獄として示されている。

 

 キリスト教とは何か。イエスを信じればこの火と硫黄の燃える地獄を免れることができるという教えである。聖霊は間違いであると人々に教える教えなのだ。

 わたしはあなた方に真珠をヨハネの黙示録、聖霊として与えたのだ。しかし、あなた方はどうしたのか。『そんなことはあり得ない』として、噛みついてきたのだ。では、そのようにせよと教えるキリスト教とは何か。『豚』である。

 

 イスラム教とは何か。イスラム教も『アッラーを信じればこの火と硫黄の燃える地獄を免れる』と言う教えである。コーランのムスリムとは、この火と硫黄の燃える地獄をくぐった者の事である。彼らは火と硫黄の燃える地獄をくぐってもいないのに、自分たちの事をムスリムとする。火獄と言う入り口を見て、コーランに逆らい、アッラーの神権を平然と破る者たちこそがイスラム教徒なのだ。では、イスラム教とは何か。『豚』である。イスラム教そのものがコーランに記されている『豚』なのだ。

 

 わたしは、あなた方に真珠を与えたのだ。すると、あなた方はわたしの神権を当然のごとく犯した。聖霊に逆らい、コーランに逆らい、わたしの神権を犯して噛みついてきたではないか!!!・・・・豚とはあなた方の事である。

 世の者たちよ、この『豚』こそが避けなくてはいけない豚なのだ。イスラム教徒は、死ねば次の世に於いては豚となる。なぜならば、彼らはコーランに『豚を避けよ』と記されていることを知るからである。このコーランの語句を知るのに豚となったからである。現世を豚として生きる者は、来世もそのまま豚となる。これが定めである。

 

 

 さて、あなた方は、『宇宙があり、太陽があり、地球があり、そこに自分たちは暮らしている』と考える。しかし、本質は逆なのだ。霊界の太陽に至ることを種の目的とする種族(人)があり、この人の目的のために地球を創造し、太陽を創造し、宇宙を創造しているのだ。人がいなければ、地球には意味はなく、太陽にも意味はなく、宇宙にも意味はない。人の種としての目的がなければ、すべての霊界の地の住人も、霊界の太陽の住人も、同じ位置に置く『現世』などという世界など必要ないことは、あなた方でも分かるであろう。

 全部を混ぜてガチャガチャポンにしないと、人の種としての目的は達成できない。だから、全部を混ぜてガチャガチャポンとする現世と言う世界があるのだ。