福島県に減価する地域通貨を おおさか佳巨の活動報告

福島県に減価する地域通貨を おおさか佳巨の活動報告

日本の経済をもっと元気にするために、「減価する地域通貨」の仕組みを紹介。
難しそう?実はとてもシンプル。お金が地域の中をぐるぐる回ることで、お店も仕事も生活も守られます。
当ブログでは、日常の出来事やイベントを通して、実現までの道のりを記録していきます。

 

県民の前で語る覚悟はあるのか――それでも私は公開討論会を開催します

9月27日、郡山市中央公民館で、福島県知事選挙の立候補予定者による公開討論会を開催します。

 

しかし、ここに至るまでの経緯は、決して順調なものではありませんでした。

私は、福島県知事選挙を前に、候補者の皆さんに県政について直接語っていただき、県民がそれぞれの考えを聞くことのできる場をつくりたいと思い、この公開討論会を企画しました。

ところが、内堀雅雄知事からは、

「現職だから出席しない」

という回答がありました。

長谷沼邦彦氏については、電話を持っていないため、現在のところ連絡を取ることができません。

そして、金山屯氏、遠藤雄大氏については、

「内堀知事が出席しないのであれば、自分も出席しない」

という回答でした。

結果として、現時点で出席するのは塚越栄光氏お一人です。

それでも私は、公開討論会を開催します。

「現職が出ないから、自分も出ない」でいいのか

今回、私がどうしても理解できないのは、この部分です。

福島県知事選挙に立候補するということは、福島県の未来について、自分なりの考えを持っているということではないでしょうか。

だったら、現職が来るか来ないかに関係なく、

「私は県民の前で自分の政策を語ります」

と言えばいいのではないでしょうか。

むしろ現職が来ないのであれば、現職とは違う考えを持っている候補者にとって、自分の政策を県民に伝える絶好の機会だと思います。

それなのに、

「現職が出ないから、自分も出ない」

となってしまう。

私は、そこに疑問を感じます。

もちろん、出席するかどうかは、それぞれの候補者が判断することです。

しかし、県民の側から見れば、その判断もまた選挙を考えるうえでの一つの材料になります。

選挙は「お願いします」と頭を下げるだけではない

選挙になれば、候補者は県民に票をお願いします。

「私に投票してください」

「私に県政を任せてください」

そう訴えることになります。

しかし、私は政治というものは、それだけではないと思っています。

自分が何を考えているのか。

何を変えたいのか。

何を守りたいのか。

福島県の未来をどう描いているのか。

それを県民の前で堂々と語る。

そして、県民から質問を受ける。

時には厳しい質問にも答える。

それが政治家としての責任ではないでしょうか。

だから私は、今回の対応を見て、

「県政を担おうとする熱意は、どこにあるのだろうか」

と思わざるを得ません。

福島県には語らなければならない問題が山ほどある

福島県には、いま語らなければならない問題が山ほどあります。

人口減少。

少子高齢化。

農業。

地域経済。

医療。

教育。

道路や河川などのインフラ。

東日本大震災からの復興。

原発・廃炉。

エネルギー政策。

そして、これから福島県をどのような地域にしていくのかという、もっと大きな問題です。

これだけの問題を抱えている福島県の知事選挙で、

「誰が出るから出る」

「誰が出ないから出ない」

という話になってしまうこと自体、私は残念でなりません。

県民が聞きたいのは、候補者同士の駆け引きではありません。

「あなたは福島県をどうしたいのですか?」

ということです。

私は一人でも開催します

今回、出席するのは現時点では塚越栄光氏お一人です。

それでも私は開催します。

一人だから中止するのではありません。

むしろ、一人だからこそ、その一人の候補者に福島県政についてしっかり語っていただきたいと思います。

そして、会場に来てくださった県民の皆さんにも、ぜひ一緒に考えていただきたいと思います。

今回の公開討論会は、誰かを当選させるための場ではありません。

特定の候補者を応援するための場でもありません。

福島県民が、自分自身で考えるための場です。

私は、政治は県民の前で語るところから始まると思っています。

県民の前に立つ。

自分の政策を語る。

質問に答える。

そして、自分の言葉に責任を持つ。

それが政治ではないでしょうか。

出席しないという判断も、県民が見る

私は、候補者に「絶対に出席しろ」と言いたいわけではありません。

出席しない自由も、それぞれにあります。

しかし、その判断を県民がどう受け止めるのかも自由です。

選挙とは、候補者が自分の都合で情報を発信するだけのものではありません。

県民が候補者を見て、聞いて、考えて、自分の一票を決めるものです。

だから私は、今回の公開討論会を開催します。

たとえ参加者が一人であっても、県政について語る場をなくしてはいけないと思うからです。

県民の前で語ることから逃げない。

私は、そういう政治であってほしいと思っています。

9月27日、郡山市中央公民館。

福島県のこれからについて、皆さんと一緒に考えたいと思います。

ぜひ会場にお越しください。

 

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こんにちは、大坂佳巨です。

今日は、福島県知事選挙の立候補予定者説明会に参加してきました。

説明会が終わった後、記者の皆さんに囲まれて、いろいろと質問を受けました。

そこで私が話したことを、今日は少し書いてみたいと思います。

 


現在の福島県政を変える人・県民の声を受け止める人を

今回、私が県知事選挙の立候補予定者説明会に参加した理由は、

「このままでは、県民が選べる選択肢が少なすぎるのではないか」

ということです。

もちろん、選挙に誰が立候補するのかは、それぞれの人が決めることです。

立候補するには、お金も時間も必要です。

家族や仕事のことも考えなければなりません。

簡単に「出てください」と言えるものではありません。

だから、候補者が少ないことだけを責めるつもりはありません。

ただ、

県政に疑問を持っている人がいるのに、その声を受け止める候補者がいない。

これは、県民にとって決して小さな問題ではないと思っています。


私は、郡山市長選挙の後も相談を聞いてきました

郡山市長選挙が終わってからも、私は政治活動を続けています。

さまざまな方から相談や要望をいただきます。

道路の問題。

河川の問題。

福祉の問題。

障害者の問題。

行政の対応についての相談。

一つ一つは、とても身近な問題です。

でも、その問題を抱えている本人にとっては、決して小さな問題ではありません。

「役所に相談したけれど解決しなかった」

「議員に相談したけれど前に進まなかった」

そんな話を聞くこともあります。

私は、そういう声を聞いているからこそ、県政についても考えさせられます。

なぜならば、県民の声を聴かない県知事や県議会議員の体制だからです。


「誰かがやってくれる」では変わらない

政治について話をすると、

「誰かがやってくれるでしょう」

という空気を感じることがあります。

でも、誰も手を挙げなければ、何も変わりません。

政治を変えるのは、政治家だけではありません。

県民が、

「これはおかしい」

「こうしてほしい」

「福島県をこういう県にしたい」

と声を上げることも政治だと思います。

そして、その声を受け止めて、実際の政治の場に届ける人も必要です。


私が考える「選挙の意味」

選挙というと、

「誰が勝つのか」

という話になりがちです。

でも、それだけではないと思います。

候補者がそれぞれの考えを示す。

県民がそれを聞く。

そして、

「私はこう思う」

と一人ひとりが考えて投票する。

それが選挙ではないでしょうか。

最初から結果が見えているような選挙になってしまうことは、私は残念に思います。

投票率が下がれば、一部の人たちの判断だけで政治が動いてしまう可能性もあります。


福島県政をもっと身近なものに

福島県政というと、

「県庁の話」

「県議会の話」

と思っている方もいるかもしれません。

でも、実際には私たちの生活に直結しています。

道路もそうです。

医療も福祉もそうです。

教育も産業も農業もそうです。

防災も原発政策も、私たちの暮らしと無関係ではありません。

だから、

「政治家に任せておけばいい」

ではなく、

「自分たちの県をどうしていくのか」

を県民自身が考えることが大切だと思います。


最後まで、候補者が現れることを願っています

今回の説明会に参加して、私は改めて感じました。

福島県政について、本気で考えている人。

県民の声を聞く人。

行政に対して必要なときには、きちんと物を言える人。

そして、自分の信念を持って県政に向き合える人。

そういう人が、もっと政治の世界に出てきてほしいと思います。

 

「誰がやっても同じ」

「政治なんて変わらない」

 

そう思ってしまえば、本当に何も変わりません。

 

だからこそ、私は今回の福島県知事選挙を、単なる候補者同士の戦いとしてではなく、

「これからの福島県をどうしていくのかを、県民みんなで考える機会」

にしてほしいと思っています。

 

福島県は、まだまだ変えられると思います。

そのためには、まず県民一人ひとりが、

「福島県をどういう県にしたいのか」

を考えることから始めればいいのではないでしょうか。

私も、これからも県民の皆さんの声を聞き続けたいと思います。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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9月18日(金)

17:30 ~ 20:30頃

会場:赤木地域公民館

〒963-8006

福島県郡山市赤木町7-19

TEL:024-924-0293

会費 100円

どなたでも参加できます

途中からの参加、途中までの参加も歓迎します。

お気軽にお越しください。

妃心会の名称は、亡くなった妃皇子と心茉からとりました。

 

 

 

 

 

■ 福島県は外国人の狩猟免許取得者数を把握しているのか

昨年秋、私は福島県生活環境部自然保護課に対して、外国人の狩猟免許取得者がどの程度いるのかを問い合わせました。

ところが、明確な人数を把握していないという回答でした。

もちろん、狩猟免許を取得すること自体は違法ではありません。

日本の狩猟免許制度では、基本的に国籍によって受験資格を排除する仕組みにはなっていません。

狩猟免許を取得し、さらに法律上必要な手続きを経て猟銃を所持することも、外国人だから一律に禁止されているわけではありません。

しかし、ここで一つの疑問が生じます。

国籍を問わず狩猟免許を取得できるのであれば、少なくとも国籍別の取得状況を行政が把握する必要はないのでしょうか。

私は、これは検討する価値のある問題だと考えています。

■ 中国の国家動員に関する法律をどう考えるのか

この問題を考える際、避けて通れないのが中国の国家動員に関する法制度です。

中国には2010年に施行された「国防動員法」があります。

また、2017年には「国家情報法」が施行されています。

これらの法律については、中国国内の個人や組織に対して、国家の安全保障や情報活動に関係する義務を課す規定が存在することが知られています。

ここで重要なのは、

「日本に住んでいる中国人が全員、日本に対して何らかの敵対行為をする」

などと考えることではありません。

それは明らかに別の問題です。

多くの在日中国人は、日本で普通に生活し、仕事をし、地域社会の一員として暮らしています。

しかし国家間の有事を考えるのであれば、

外国政府が自国民に対して何らかの協力を求める制度を持っている場合、日本側はその可能性を安全保障上のリスクとして検討しておく必要があるのではないか。

私はそう考えます。

■ 「外国人だから危険」という話ではない

この問題で最も注意しなければならないのは、外国人一般を危険視する議論にしてしまうことです。

私が問題にしているのは、個人の国籍によって人間性や忠誠心を決めつけることではありません。

そうではなく、

「国家による動員制度が存在する国の国民が、日本国内で武器を扱う資格を取得する場合、日本の安全保障制度はその外部要因まで想定しているのか」

という制度の問題です。

例えば、日本人が猟銃を所持する場合でも、厳格な審査があります。

外国人についても、当然、法律に基づいて審査されます。

しかし問題は、

その審査基準そのものが、外国政府による有事の動員というリスクを十分に考慮して設計されているのか。

という点です。

単に「日本人と同じ基準で審査しているから大丈夫」という説明だけでは、この問題に十分答えたことにはならないのではないでしょうか。

■ 福島県に要望を提出しました

私はこの問題について、福島県に対して対応を求めました。

しかし、県から示された回答は、現行の鳥獣保護管理法では狩猟免許試験の受験資格に国籍による制限がないこと、そして現時点では外国人への新規狩猟免許交付を禁止することは検討していない、というものでした。

 



 

 

さらに、今後は国や他府県の動向を注視していくという趣旨の回答でした。

私は、ここに地方行政の大きな問題があると感じています。

「国が動くまで待つ」

「他県の動向を見る」

これでは、地方自治体としての主体性がありません。

もちろん、県だけで変更できない制度もあります。

しかし、だからこそ県として、

「この制度にはこういうリスクがある」

「こういう情報が必要だ」

「国にこういう制度改正を求める」

という問題提起をすることはできるはずです。

■ クマ対策と安全保障を別々に考えてはいけない

福島県では、クマをはじめとする野生動物による被害が深刻になっています。

一方で、狩猟人口の減少も大きな課題です。

つまり、福島県としては、

「狩猟免許を取得する人を増やしたい」

という政策的な必要性があります。

これは私も理解しています。

だからこそ、狩猟免許そのものを否定するつもりはありません。

むしろ、狩猟を担う人材は今後ますます重要になるでしょう。

しかし、

誰がどれだけ狩猟免許を取得しているのか。

どのような属性の人が猟銃を所持しているのか。

行政が安全保障上必要な情報を把握していなければ、万が一の事態に対応することも難しくなります。

■ 必要なのは「排除」ではなく「リスク管理」

私は、この問題について感情的な外国人排斥の議論にするべきではないと思っています。

必要なのは、冷静なリスク管理です。

例えば、

・外国人の狩猟免許取得者数を適切に把握する
・猟銃所持許可について必要な情報を行政が把握する
・有事における外国政府からの動員要請などを想定する
・国と地方自治体、警察などの情報共有体制を検討する
・必要であれば国に制度改正を求める

といった対応です。

安全保障に「絶対大丈夫」はありません。

だからこそ、可能性のあるリスクを事前に検討することが重要なのです。

■ 「差別」と「合理的な区別」は違う

こうした問題を提起すると、

「外国人差別ではないか」

という批判が出ることがあります。

しかし、私は、

すべての人を同じように扱うことが、常に公平とは限らない

と考えています。

例えば、国家間の安全保障上の事情が異なるのであれば、その事情を制度設計に反映させることが合理的な場合もあります。

重要なのは、単なる偏見や感情ではなく、

具体的な危険性を根拠として、必要最小限の合理的な制度を設計すること

です。

もちろん、国籍だけを理由として一律に「危険人物」と扱うような制度であれば、慎重な検討が必要でしょう。

だからこそ、感情ではなく、法律・安全保障・人権の観点から議論する必要があります。

■ 「他県がやっていないから福島県もやらない」でいいのか

私が最も問題だと思っているのは、ここです。

行政に何かを質問すると、

「国の動向を見ます」

「他県の動向を注視します」

という答えが返ってくることがあります。

しかし、地方自治体には地方自治体の責任があります。

福島県で問題が起きる可能性があるのであれば、

「他県が動いていないから福島県も動かない」

ではなく、

「福島県として何ができるのか」

を考えるべきではないでしょうか。

クマ対策でも、防災でも、インフラでも、安全保障でも同じです。

県民の生命と財産を守ることは、行政の重要な責任です。

■ まずは「知ること」から始めるべきだ

私は、いきなり外国人の狩猟免許取得を全面的に禁止しろと言っているわけではありません。

まず必要なのは、

実態を把握することです。

外国人の狩猟免許取得者が何人いるのか。

そのうち猟銃所持許可を受けている人が何人いるのか。

現在の審査制度で安全保障上のリスクがどこまで考慮されているのか。

有事が発生した場合に、外国政府から日本国内の国民に対して動員や情報提供などの要求が行われる可能性について、日本の行政機関はどのように評価しているのか。

こうしたことを一つ一つ検証する必要があります。

知らないから安全なのではありません。

把握していないから問題がないわけでもありません。

むしろ、把握していないこと自体がリスクになる場合があります。

■ 福島県には「様子見」ではなく主体的な判断を求めたい

福島県は、東日本大震災と原発事故を経験した県です。

危機管理の重要性について、どの自治体よりも強く認識している県であってほしいと思います。

だからこそ私は、

「国が決めるまで待つ」

「他県の動向を見る」

という姿勢ではなく、

福島県自身がリスクを分析し、必要であれば国に制度改正を提案する。

そういう県政であってほしいと思います。

狩猟免許は、クマなどの野生動物対策にとって重要な制度です。

猟銃も、適切に管理される限り、狩猟や有害鳥獣対策に必要な道具です。

だからこそ、

「必要だから推進する」だけではなく、「必要だからこそ安全に管理する」

という視点が必要なのではないでしょうか。

私はこれからも、この問題について事実関係を確認しながら、福島県の対応を注視していきます。

安全保障について考えることは、誰かを敵視することではありません。

県民の命と安全を守るために、起こり得るリスクを事前に考えること。

それこそが、行政に求められる危機管理ではないでしょうか。

皆さんはどう考えますか?

「外国人の狩猟免許取得について、行政はどこまで実態を把握すべきなのか」

「有事における安全保障上のリスクを、現在の制度は十分に想定しているのか」

ぜひ皆さんのご意見を聞かせてください。

#福島県 #安全保障 #狩猟免許 #猟銃 #鳥獣被害 #クマ被害 #地方自治 #福島県政 #危機管理 #外国人政策 #大坂佳巨

 

こんにちは。

今日は少し、政治について考えてみたいと思います。

選挙が近くなると、街のあちこちで候補者の名前を見かけるようになります。

「この人は昔から知っている」
「同級生だから応援しよう」
「地元の人だから」
「○○党だから」

そんな理由で投票することもあると思います。

もちろん、人とのつながりは大切です。

でも、私は一度立ち止まって、

「政治家って、そもそも何をする人なんだろう?」

と考えてみることも大切なのではないかと思っています。


議員になることが目的になってはいけない

私は、政治家という仕事を「就職先」のように考えてしまうことには、少し違和感があります。

議員になれば、議員報酬が支払われます。

それによって生活することは、もちろん悪いことではありません。

ただ、本来の議員の役割は、自分の生活のために議席を得ることではありません。

地域の人たちから、

「あなたに任せます」

と託された仕事です。

予算をチェックする。

条例をつくる。

行政の仕事を確認する。

そして、地域で暮らす人たちの声を政治に届ける。

そういう仕事なのだと思います。

だからこそ、

「議員であり続けること」よりも、「議員として何をするのか」

のほうが大切なのではないでしょうか。


言いにくいことも言える政治家であってほしい

議員を続けることが何より大切になってしまうと、

「これを言ったら次の選挙で不利になるかもしれない」

「党や支援者から嫌われるかもしれない」

と考えてしまうこともあるでしょう。

でも、住民のために必要なことなら、言いにくいことでも言う。

行政に問題があれば、きちんと指摘する。

おかしいと思ったことには、「おかしい」と言う。

私は、そういう政治家が必要だと思っています。

政治家に必要なのは、単に選挙に強いことではありません。

自分の考えを持ち、それを住民のために貫く力

ではないでしょうか。


「知っている人」ではなく「任せられる人」を

地方の選挙では、どうしても人間関係が大きな影響を持ちます。

同級生だったり、先輩だったり、仕事でお付き合いがあったり。

そうしたご縁は、とても大切なものです。

でも、議員になれば、私たちが納めた税金の使い道を決めることになります。

道路や学校、福祉、医療、防災など、私たちの暮らしに関わることを議論します。

だから私は、

「知っている人だから」ではなく、「この人なら任せられる」と思える人に投票する

ことが大切なのではないかと思います。

その人がこれまで何をしてきたのか。

どんな考えを持っているのか。

当選したら何をしたいのか。

ぜひ、そうしたところを見てほしいと思います。


政治は「チェック」だけではありません

私は、議員の重要な仕事の一つに「行政をチェックすること」があると思っています。

でも、それだけではありません。

問題を見つけたら、

「では、どうすれば解決できるのか?」

まで考えることが大切です。

行政にお願いして終わりではなく、必要であれば制度を変える。

条例をつくる。

予算を変える。

仕組みそのものを見直す。

私は、

「県民の声を、条例に。」

という考え方を大切にしています。

地域の方から寄せられた一つひとつの声を、単なる「相談」で終わらせるのではなく、地域を良くするための政策につなげていく。

これも政治の大切な役割だと思っています。


政治を変えるのは、政治家だけではありません

政治が変わらないと、

「政治家が悪い」

と思ってしまいがちです。

もちろん、政治家自身の責任は大きいと思います。

でも、政治家を選んでいるのは私たち有権者です。

だからこそ、私たち一人ひとりが、

「この人は何をしてきたのだろう?」

「この人は何を実現したいのだろう?」

「この人に任せて、本当に地域は良くなるだろうか?」

と考えることが大切なのだと思います。


未来への情熱と、現実を見る力

政治には、二つのものが必要だと思っています。

一つは、

未来への情熱。

そしてもう一つは、

現実を直視する力。

「こんな社会にしたい」という夢だけでは、政治はできません。

人口減少、少子高齢化、医療や介護、人手不足、地域経済など、私たちの目の前にはたくさんの課題があります。

一方で、数字だけを見ても人の暮らしは分かりません。

統計には表れない困りごともあります。

だから、

数字を見ることと、人を見ること。

この両方が大切なのだと思います。

 


政治をもっと身近なものに

政治というと、国会や永田町の話を思い浮かべる人も多いかもしれません。

でも、私たちの暮らしに一番近いところにも政治があります。

道路。

学校。

水道。

下水道。

福祉。

公共交通。

防災。

地域の産業。

どれも、私たちの生活そのものです。

だからこそ、地方政治をもっと身近なものにしていきたいと思っています。

「政治は難しい」

「自分には関係ない」

そう思わずに、

「自分たちの暮らしをどうしたいのか」

というところから、一緒に考えてみませんか。

選挙は、誰かを選ぶだけのイベントではありません。

私たちの地域の未来を、自分たちで選ぶ機会です。

政治家を選ぶときには、名前や肩書きだけではなく、

「この人は何をしてきたのか」

「これから何をしようとしているのか」

を、ぜひ見てほしいと思います。

そして、私たち一人ひとりが政治について考えること。

そこから、地域の政治は少しずつ変わっていくのではないでしょうか。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

 

郡山市では現在、「待機児童ゼロ」とされています。

これは、子育て支援を進めるうえで重要な成果の一つです。

しかし、ここで一度立ち止まって考える必要があります。

「待機児童ゼロ」とは、本当に「希望する保育所に入ることができる」という意味なのでしょうか。

私は、必ずしもそうではないと考えています。

問題は、「待機児童」という行政上の数字と、保護者が実際に感じている「保育所に入れない」という問題が、必ずしも一致しないことです。


1.「待機児童ゼロ」と「希望する保育所に入れる」は同じではない

例えば、ある家庭が自宅に最も近いA保育園を希望したとします。

しかしA保育園には空きがありません。

一方、少し離れたB保育園には空きがあります。

この場合、B保育園に入所することが可能であれば、行政上は「待機児童」とならない場合があります。

しかし、その家庭にとってB保育園が本当に利用可能なのかは別問題です。

例えば、

  • 自宅から遠く、毎日の送迎が困難

  • 職場とは反対方向にある

  • 通勤時間と開所時間が合わない

  • 兄弟を同じ保育所に入れられない

  • 家族の介護などの事情から送迎できない

  • 保育方針や環境が家庭の希望と合わない

といった事情があれば、保護者にとっては「希望する保育を受けられない」という問題が残ります。

つまり、

「保育所に空きがある」ことと、「その家庭が現実に利用できる保育所がある」ことは、同じではありません。


2.行政の「待機児童」と市民の「入れない」は違う

ここで重要なのが、「待機児童」という言葉の意味です。

行政が統計上使用する「待機児童」は、一定の基準に基づいて算定されます。

したがって、

「待機児童がゼロになった」

という数字だけを見て、

「保育所に入りたい家庭は、すべて希望どおり保育所に入れるようになった」

と理解するのは適切ではありません。

これは行政を批判するためだけの話ではありません。

むしろ、行政が何を測定しているのかを正確に理解する必要があるという話です。

行政の統計は、政策を評価するための重要な道具です。

しかし、統計には必ず「定義」があります。

そして、定義から外れる問題については、数字だけでは見えてきません。


3.本当に見るべきなのは「希望順位」ではないか

では、郡山市の保育政策を評価するためには、どのような数字を見ればよいのでしょうか。

私は、少なくとも「希望順位別の入所状況」を把握する必要があると考えます。

例えば、

第1希望の保育所に入所できた児童

第2希望に入所した児童

第3希望以下に入所した児童

希望した保育所に入れず、別の保育所を選択した児童

どの保育所にも入れず、利用保留となった児童

といった形です。

こうした数字が分かれば、「待機児童ゼロ」という数字だけでは見えない実態を把握できます。

例えば、

「待機児童ゼロ」

という結果が同じでも、

A市では、ほとんどの家庭が第1希望の保育所に入っている。

一方で、

B市では、第1希望に入れず、第2希望、第3希望へと変更した家庭が多数存在する。

この二つの自治体を、単純に「どちらも待機児童ゼロだから同じ」と評価してよいのでしょうか。

私は違うと思います。


4.「通える保育所」があるのかという視点

さらに重要なのが、「距離」と「時間」です。

保育所の定員だけを考えるのであれば、空きのある施設へ利用者を誘導すれば問題は解決します。

しかし、子育て世帯の生活はそんなに単純ではありません。

例えば、

自宅 → 保育所 → 職場

という毎日の移動を考えなければなりません。

保育所が自宅から5分の場所にある家庭と、30分かかる家庭では、同じ「入所できた」でも負担は大きく違います。

特に共働き世帯では、出勤時間と保育所の開所時間、送迎時間などが密接に関係します。

したがって、保育政策を評価するなら、

「定員があるか」

だけではなく、

「その家庭が無理なく通える範囲に保育所があるか」

という視点が必要です。


5.兄弟が別々の保育所になる問題

もう一つ見逃してはいけないのが、兄弟の問題です。

上の子はA保育園。

下の子はB保育園。

こうなれば、行政上は「二人とも保育所に入所できた」ということになります。

しかし、保護者からすれば送迎先が二つになります。

朝と夕方にそれぞれの園へ行かなければならない。

これは、特に自動車で送迎する家庭にとって大きな負担になります。

したがって、

「入所できたか、できなかったか」

という二択だけでは、子育て世帯が抱える負担を十分に表現できません。


6.「待機児童ゼロ」をゴールにしてはいけない

私は、「待機児童ゼロ」という目標そのものを否定しているわけではありません。

むしろ、待機児童をなくすことは重要です。

ただし、

待機児童ゼロは、保育政策のゴールではなく、最低限の条件ではないでしょうか。

行政が目指すべきなのは、

保育所の定員を確保すること

だけではありません。

その先にある、

子育て世帯が、仕事と家庭を両立しながら、現実的に利用できる保育環境を確保すること

ではないでしょうか。


7.「利用可能な保育」を指標にする

そこで私は、「待機児童数」に加えて、新しい指標を考える必要があると思います。

例えば、

① 第1希望入所率

希望した保育所に入ることができた児童の割合です。

② 希望順位別入所率

第1希望、第2希望、第3希望以下に分けて把握します。

③ 利用保留率

どの保育所にも入れず、利用を待っている児童の割合です。

④ 通園距離・時間

自宅から実際に利用する保育所まで、どの程度の距離・時間がかかるのかを把握します。

⑤ 兄弟同園率

兄弟が同じ保育所に入所できている割合です。

こうした指標を組み合わせれば、「待機児童ゼロ」という一つの数字だけでは分からなかった実態が見えてきます。


8.これは「行政が嘘をついている」という話ではない

ここは明確にしておきたいと思います。

「待機児童ゼロ」という数字そのものが間違っていると言っているわけではありません。

問題は、

一つの数字だけで政策の成功を判断してしまうこと

です。

例えば健康診断で、

「体温は正常です」

と言われたからといって、その人の健康状態のすべてが分かるわけではありません。

血圧、血液検査、生活習慣など、複数の指標を見る必要があります。

行政政策も同じです。

「待機児童数」という一つの指標だけでは、保育政策全体を評価することはできません。


9.郡山市に確認したいこと

だからこそ、私は郡山市に対して、次のような情報を公開してもらいたいと考えます。

  • 保育所を希望した児童数

  • 第1希望に入所できた児童数

  • 第2希望に入所した児童数

  • 第3希望以下に入所した児童数

  • 希望園に入れず、別の園に入所した児童数

  • 利用保留となった児童数

  • 兄弟が別々の園になった件数

  • 自宅から保育所までの平均通園距離・時間

もちろん、個人が特定されないよう統計化する必要があります。

しかし、こうした情報があれば、市民は「待機児童ゼロ」の意味をより正確に理解できます。

そして行政にとっても、どこに保育需要が集中しているのかを把握する材料になります。


10.「数字をゼロにする」のではなく「困っている人をゼロにする」

行政において、数字は非常に重要です。

目標を数値化することによって、政策の進捗を確認できるからです。

しかし、数字を達成すること自体が目的になってしまうと、本来解決すべき問題が見えなくなる危険があります。

「待機児童ゼロ」という数字を達成した。

それでも、

「希望する保育所に入れなかった」

「遠い保育所しか選べなかった」

「兄弟が別々になった」

という家庭が多数あるのであれば、政策としてはまだ改善の余地があります。

だから私は、

「待機児童ゼロ」から「保育に困る家庭ゼロ」へ。

という視点が必要だと考えます。

これは、単に保育所の数を増やせば解決する問題でもありません。

地域ごとの人口動態、住宅地の形成、企業の立地、交通事情、保育士の確保、施設の配置などを総合的に考える必要があります。


結論――「待機児童ゼロ」のその先へ

郡山市の「待機児童ゼロ」は、一つの成果として評価することができます。

しかし、それだけで、

「郡山市の保育問題は解決した」

と考えるべきではありません。

行政が見る「待機児童」と、子育て世帯が感じる「保育所に入れない」という問題には、まだ距離がある可能性があります。

だからこそ、私は「待機児童数」だけではなく、

希望する保育所に入れたのか。

現実的に通える保育所なのか。

兄弟は同じ保育所に入れたのか。

希望を変更せざるを得なかった家庭はどれくらいあるのか。

というところまで、数字として明らかにするべきだと思います。

行政の仕事は、数字を「ゼロ」にすることではありません。

数字の向こう側にいる市民の困りごとを、一つひとつ解決することです。

「待機児童ゼロ」という言葉で安心するのではなく、

その数字の中に、どのような子育て家庭の現実があるのか。

そこまで見てこそ、本当の意味での子育て支援になるのではないでしょうか。

 

先日、国旗損壊罪をめぐって、ある方と議論になりました。

私が、

「法律は、過去に問題が起きてから対処するためだけにあるのではなく、将来起こり得る問題を予防するために作ることもある」

という趣旨のことを書いたところ、

「立法事実がないものは法律化すべきではない」

という反論をいただきました。

もちろん、法律によって国民の自由や権利を制限する以上、その必要性や合理性を慎重に検討する必要があるという点については、私も異論はありません。

しかし、私がどうしても違和感を持つのは、

「これが正しい立法の考え方なのだから、あなたの考えは間違っている」

というところまで話が進んでしまうことです。

予防のためにルールを作ることはおかしいのか

私は、法律には「問題が起きてから対応する」という役割だけではなく、「問題が起きる前に防ぐ」という役割もあると考えています。

これは法律に限った話ではありません。

例えば、安全管理を考えてみれば分かりやすいでしょう。

危険な場所があったとして、

「まだ事故が起きていないから対策しなくていい」

とは普通は考えません。

事故が起きる可能性がある。

その危険性が予測できる。

だから、事故が起きる前に対策をする。

これが安全管理の基本的な考え方です。

もちろん、実際の事故を教訓として法律や基準が改正されることもあります。

しかし、

「事故が起きてからでなければ規制してはいけない」

ということではありません。

私は、立法についても同じように考えています。

将来の危険性を予測し、それを防ぐために法律を作ること自体は、十分に合理的な考え方です。

ただし、何でもかんでも「危険かもしれない」という理由だけで法律を作っていいという意味ではありません。

必要性があるのか。

どの程度の蓋然性があるのか。

国民の自由を制限するほどの合理性があるのか。

他の手段では対応できないのか。

そうしたことを議論する必要があります。

国旗損壊罪についても、議論すればいい

国旗損壊罪についても、私は「絶対に必要だ」と言っているわけではありません。

必要なのか、必要ではないのか。

どのような行為を対象にするのか。

表現の自由との関係をどう考えるのか。

他の法律で対応できないのか。

さまざまな論点について議論すればいいのです。

私が問題にしているのは、

「過去に十分な被害事例がないのだから、予防的な立法そのものが認められない」

という考え方です。

私は、その考え方には賛成しません。

予防的な立法という考え方も当然あっていい。

そして、その立法が本当に必要なのかどうかを、国会で議論すればいい。

私はそう考えています。

そもそも民主主義とは何なのか

ここで、もう一つ大事なことがあります。

私は、今回のやり取りを通じて、法律論以上に「民主主義とは何なのか」ということを考えました。

例えば、選挙を考えてみてください。

あなたは、あなたが支持する候補者を応援すればいい。

私は、私の考えを支持する候補者を応援します。

そして選挙を行い、それぞれの候補者が当選したり、落選したりする。

その結果として、議会の議席構成が決まります。

そして、その議会でさまざまな議論をして、条例や予算、政策などが決まっていく。

これが民主主義国家です。

もちろん、選挙で自分の支持する候補者が負けることもあります。

自分の望まない政策が決まることもあります。

しかし、それも民主主義です。

自分の意見だけが必ず通る社会ではありません。

「自分が正しい」だけでは民主主義にならない

私は、自分の考えを持つことは非常に大切だと思っています。

政治についても、

「私はこう考える」

「この政策が必要だ」

「この法律には反対だ」

と主張することは当然の権利です。

しかし、

「自分の考えが正しい。だから他の人もその考えに従わなければならない」

となったら、話は変わってきます。

私は、そこに危険性があると思っています。

民主主義というのは、自分の思想を他人に強制することではありません。

自分の考えを主張し、その考えに共鳴してくれる人を増やし、選挙や議会を通じて、その考えを政治に反映させていく。

それが民主主義です。

「正しさ」を競うのではなく、支持を得る

政治家に必要なのは、

「私は正しい。だからあなたも私と同じ考えになりなさい」

と言うことではありません。

そうではなく、

「私はこう考えます。こういう社会を作りたいと思っています。賛成していただける方は支持してください」

と訴えることではないでしょうか。

そして選挙で有権者の判断を受ける。

当選すれば、自分の政策を実現するために議会で活動する。

落選すれば、それは自分の考えが十分な支持を得られなかったということです。

その結果を受け入れる。

それが民主主義だと思います。

異なる意見を持つ人を敵にしない

私は、自分と違う考えを持っている人を否定するつもりはありません。

むしろ、いろいろな考え方があっていいと思っています。

国旗損壊罪に賛成する人もいる。

反対する人もいる。

予防的な立法が必要だと考える人もいる。

立法事実を重視して慎重に考える人もいる。

それでいいのです。

議論すればいい。

選挙で判断すればいい。

議会で多数を形成すればいい。

それが民主主義です。

だから私は、あなたがあなたの支持する考えと共鳴する人を増やすことに力を注げばいいと思います。

私も、自分の考えに共鳴してくれる人を増やす努力をします。

そして最後は、有権者が判断する。

それでいいのではないでしょうか。

私が一番危険だと思うこと

私が一番危険だと思うのは、

「自分の思想だけが唯一正しい。だから社会全体がそれに合わせなければならない」

という考え方です。

これは、政治思想の左右に関係なく危険だと思います。

右だから危険なのでも、左だから危険なのでもありません。

自分の思想を絶対視し、それを他人に強制しようとすること自体が危険なのです。

そのような社会では、異なる意見を持つ人間が排除されていきます。

そして最終的には、国民が自由に物を言えなくなり、自由に政治的な選択をすることもできなくなってしまいます。

そういう国家が、国民を幸福にするとは私は思いません。

私は私の考えを主張する

だから私は、これからも自分の考えを発信します。

国旗損壊罪についても、立法事実についても、予防的な立法についても、自分の考えを述べます。

しかし、あなたにはあなたの考えがあります。

その考えを主張する自由もあります。

私には私の考えを主張する自由があります。

そして、それぞれの考えに共鳴する人を増やしていけばいい。

最後は選挙や議会という民主主義の仕組みの中で、国民・住民が判断する。

私は、それが民主主義だと思っています。

「あなたは間違っている。だから私の考えに合わせなさい」ではなく、「私はこう考える。あなたはどう考えますか」

政治とは、本来そういうものではないでしょうか。

 

令和8年熊本地震では、国土交通省が熊本県内や九州各県のホテル・旅館約2,200人分を確保し、被災者の受け入れを進めることが報じられました。

この対応は、単なる宿泊施設の確保ではありません。

私は、日本の災害対策が大きな転換点を迎えていることを示していると感じています。

「避難所に行けば安心」という時代ではない

これまで日本では、災害が起きると学校の体育館などへ避難することが当たり前でした。

しかし今回は真夏の災害です。

気温が40℃近くまで上がる中、エアコンのない体育館で何日も生活することは、高齢者や子ども、持病のある方にとって命に関わる問題になります。

地震そのものでは助かっても、避難生活で熱中症や体調悪化により命を落としてしまっては本末転倒です。

「避難所へ行けば安全」という考え方は、これからの気候環境では見直さなければならないのではないでしょうか。

 

学校体育館は教育施設であると同時に防災施設

今回、多くの方が「体育館にエアコンを整備すべきだ」と訴えていました。

私も全く同感です。

学校体育館は、平常時には子どもたちが体育や部活動で使う大切な施設です。

しかし災害時には地域住民の避難所になります。

つまり、体育館へのエアコン整備は教育予算ではなく、防災インフラへの投資として考えるべきです。

近年は豪雨、猛暑、大地震など自然災害が頻発しています。

避難所の環境改善は、命を守るための公共投資であり、後回しにしてよい課題ではありません。

ホテル・旅館の活用は被災者にも地域経済にもプラス

ホテルや旅館を借り上げることには、大きなメリットがあります。

被災者は、空調やプライバシーが確保された環境で心身を休めることができます。

一方で、観光客の減少によって厳しい状況となる宿泊事業者にも収入が生まれます。

これは単なる福祉ではなく、地域経済を支える対策にもなります。

災害対応と地域経済対策を両立できる仕組みとして、今後さらに活用されるべきでしょう。

「分散避難」の時代へ

今回の熊本地震では、熊本県内だけでなく九州全域で受け入れを進める動きが見られました。

また、ホテルや旅館だけでなく、高齢者、障がいのある方、乳幼児連れの家族、ペットと一緒に避難したい方など、それぞれの事情に応じた避難環境の必要性も改めて認識されました。

さらに、被災地では空き巣や盗難への不安も指摘されています。

避難所の確保だけでなく、防犯対策や医療支援、交通手段の確保まで含めて考えることが、本当の危機管理です。

災害対策は平時からの準備で決まる

私は以前から、危機管理は「災害が起きてから」ではなく、「災害が起きる前」にどれだけ備えられるかで決まると訴えてきました。

学校体育館へのエアコン整備、非常用電源の確保、ホテル・旅館との災害協定、分散避難の体制づくり、そして警察・消防・自衛隊・自治体・民間事業者が連携できる仕組みを平時から整えておくことが重要です。

災害は必ず起こります。

だからこそ、「想定外だった」で終わらせない政治と行政が求められています。

おわりに

熊本地震は、多くの尊い命と暮らしに大きな影響を与えています。

被災された皆様に心からお見舞い申し上げるとともに、一日も早い復旧・復興を願っています。

そして、この経験を熊本だけの教訓にしてはなりません。

福島県も地震、豪雨、豪雪など多くの自然災害と向き合ってきた地域です。

だからこそ、避難所の環境改善、防災インフラの強化、地域経済を守る仕組みづくりを今から進め、「命を守れる地域」を築いていくことが、私たちに課せられた責任ではないでしょうか。