景徳鎮
長年の願いであった、景徳鎮の旅に出かけました。
景徳鎮は中国江西省にあります。省都は南昌です。
三上次男氏の『陶磁の道』という著書がありますが、東西交易ルートの陸路を「絹の道」というのに対して、海路は陶磁の道であると書かれてあります。景徳鎮の焼き物は、海路を利用して、エジプト・アラビア・アフリカ・東南アジア各地に運ばれました。
明代から清代にはこの地に官営の窯が設けられ、景徳鎮の黄金時代を迎えたのです。
しかし、19世紀の後半、太平天国戦争の時に、清朝は景徳鎮の労働者が乱に加担したことで、町は破壊しつくされてしまいました。
現在は、世界に名を馳せた焼き物の町景徳鎮の当時の面影は見られませんが、町の中を流れている昌江の支流を渡ったとき、この川を利用して焼き物が運ばれ、それが遠い国々に渡っていったかと思うと感動的でした。
今回の旅の目的は二人轆轤を見ることでした。
中国の町の中には焼き物の太くて高い柱や壺を見かけることしばしばがありますが、とても一度の轆轤で作れるものではありません。5つか6つのパーツに分けて轆轤で成形し、積み重ねて作ります。その轆轤とて、150キロ以上の土を扱うのですから、とても一人の作業ではできません。それも二人の気があってなければできない仕事です。
中国はいまだに分業がはっきりしているところです。土を運ぶ人、轆轤を回すひと、その手を抑える人、みんなの気がぴったりと合っていました。みるみる60センチ以上ある壺の一部が出来上がりました。
絵付けも分業です。
若い男の子が、頭の中に完全に描くべき構図が叩き込まれているのか、何の迷いもなく、もくもくと呉須で山水画の下絵を描いていました。
その筆さばきの見事さにみとれました。
景徳鎮は中国江西省にあります。省都は南昌です。
三上次男氏の『陶磁の道』という著書がありますが、東西交易ルートの陸路を「絹の道」というのに対して、海路は陶磁の道であると書かれてあります。景徳鎮の焼き物は、海路を利用して、エジプト・アラビア・アフリカ・東南アジア各地に運ばれました。
明代から清代にはこの地に官営の窯が設けられ、景徳鎮の黄金時代を迎えたのです。
しかし、19世紀の後半、太平天国戦争の時に、清朝は景徳鎮の労働者が乱に加担したことで、町は破壊しつくされてしまいました。
現在は、世界に名を馳せた焼き物の町景徳鎮の当時の面影は見られませんが、町の中を流れている昌江の支流を渡ったとき、この川を利用して焼き物が運ばれ、それが遠い国々に渡っていったかと思うと感動的でした。
今回の旅の目的は二人轆轤を見ることでした。
中国の町の中には焼き物の太くて高い柱や壺を見かけることしばしばがありますが、とても一度の轆轤で作れるものではありません。5つか6つのパーツに分けて轆轤で成形し、積み重ねて作ります。その轆轤とて、150キロ以上の土を扱うのですから、とても一人の作業ではできません。それも二人の気があってなければできない仕事です。
中国はいまだに分業がはっきりしているところです。土を運ぶ人、轆轤を回すひと、その手を抑える人、みんなの気がぴったりと合っていました。みるみる60センチ以上ある壺の一部が出来上がりました。
絵付けも分業です。
若い男の子が、頭の中に完全に描くべき構図が叩き込まれているのか、何の迷いもなく、もくもくと呉須で山水画の下絵を描いていました。
その筆さばきの見事さにみとれました。
金唐紙研究
金唐紙をご存知ですか?
現在その技術の唯一の伝承者でいらっしゃいます上田尚さんが、名づけられたものですが、それ以前は「金唐革紙」と呼ばれていました。その名から想像できますよう、もともとヨーロッパの宮殿などの壁や天井で使われていました革に型押して彩色されたものを、明治時代に革から和紙に置き換え、金唐革紙として製造が始まったのです。当時は大蔵省印刷局が輸出用として製造し、官営工場まででき、日本の芸術輸出産業として大いに振るった時代がありました。日本国内においても、近代建築物の壁紙として、鹿鳴館、国会議事堂など多くの洋館に使用されました。しかしその後、量産のため機械生産が始まり、質の低下を招き、衰退していきました。そこで登場したのが、上田尚先生です。
彼は、途絶えてしまった技術を、なんとか復興させるため、調査、研究の試行錯誤をくりかえし、みごとに「金唐紙」として生き返らせたのです。私がその唐紙に出会ったのは、池之端にある旧岩崎邸でした。
その華麗で美しい洋間を見て、つくづく明治に生まれたかったと思ったのですが、出口のところで、金唐紙でできたしおりを見て、平成でも可能なことが分かりました。もう居ても立ってもいられず、すぐに上田先生にご連絡をして、館プロジェクトにご参加いただけるようお願いに伺いました。現在先生には、その技術を学んでいいらっしゃる、池田和弘さんというお弟子さんがいらっしゃいます。
一人でも多くの方に、平成の金唐紙を見ていただきたく、池田さんと打ち合わせをさせていただいている最中です。もちろんその後ろには、上田先生が、ぎろりと光る眼で見守っていらっしゃいます。
現在その技術の唯一の伝承者でいらっしゃいます上田尚さんが、名づけられたものですが、それ以前は「金唐革紙」と呼ばれていました。その名から想像できますよう、もともとヨーロッパの宮殿などの壁や天井で使われていました革に型押して彩色されたものを、明治時代に革から和紙に置き換え、金唐革紙として製造が始まったのです。当時は大蔵省印刷局が輸出用として製造し、官営工場まででき、日本の芸術輸出産業として大いに振るった時代がありました。日本国内においても、近代建築物の壁紙として、鹿鳴館、国会議事堂など多くの洋館に使用されました。しかしその後、量産のため機械生産が始まり、質の低下を招き、衰退していきました。そこで登場したのが、上田尚先生です。
彼は、途絶えてしまった技術を、なんとか復興させるため、調査、研究の試行錯誤をくりかえし、みごとに「金唐紙」として生き返らせたのです。私がその唐紙に出会ったのは、池之端にある旧岩崎邸でした。
その華麗で美しい洋間を見て、つくづく明治に生まれたかったと思ったのですが、出口のところで、金唐紙でできたしおりを見て、平成でも可能なことが分かりました。もう居ても立ってもいられず、すぐに上田先生にご連絡をして、館プロジェクトにご参加いただけるようお願いに伺いました。現在先生には、その技術を学んでいいらっしゃる、池田和弘さんというお弟子さんがいらっしゃいます。
一人でも多くの方に、平成の金唐紙を見ていただきたく、池田さんと打ち合わせをさせていただいている最中です。もちろんその後ろには、上田先生が、ぎろりと光る眼で見守っていらっしゃいます。
小田原にて
初めまして!!
修行スタッフの西村と申します。
工芸の館 游彩が完成するまでの制作記録をしつつ、
私自身も工芸・アートについて日々勉強させて頂きます
そして、5月15日
修行中の私が第一回目に訪問させていただいた先は…
小田原にある川口淳さんの工房です
初対面の川口淳さんの印象は、
この日は作業用のラフな服にお洒落なピンクの帽子を被ったスラっと背の高い男性で、
冗談を交えながらお話してくださったり、カメラを向けるとポーズをとってくれたりと、とても気さくで素敵な方でした
そして作業に入ると、
アシスタントの川辺さんと意見を出し合い、模型と全体像を確認しながら、
時には作業しやすいようにパパッと即席足場を作ったりして、
土が乾かないうちにハイペースで進んで行きます
無数の波の模様の一つでも失敗できない作業が黙々と進む光景は…
さすが
の一言でした。。。
この日は作業の途中で失礼しましたが、この後
全体に模様が施され
無事に焼き上がり
そしてラピスラズリブルーのパティオが出来上がるのが待ち遠しい~
作品が生み出されていく工程を拝見できた事で、ますます游彩完成が楽しみになりました
今後も作家さん訪問で游彩と共に成長していきたいと思います
まずは…
免許取得が目標です
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